3.〈 03 〉
顔はともかく、真面目で仕事ができて、優しくて気性がいいし、プログラムも小説も専門書もタダでくれるほど気前もいい。そういう男に彼女がいたって、なにもおかしくないわよ。むしろ、いて当然なのよ。
しょせんアタシは猪野さんの1契約候補者であり、WEB小説作家〈虚史詩〉さんの1ファンに過ぎなかったのね。
「大森さん京極さん、お元気で」
「はい、お気をつけて」
「さよなら……」
微かながらイケメン僧侶に似ている横顔の笑みを残して、猪野さんがアタシの前から立ち去ります。
これまでの男との別れの経験で1度もなかった、敗北感と喪失感と脱力感とが入り混じり、アタシの胸の中にイヤな気分を湧かせています。まるで毒ガスを発生させる化学反応。
「正子どうしたの? あなた失恋した女の顔よ」
おっと、ブタみたいな鼻の顔してる女に、なんかアタシいわれてるし。
「失恋した女ですって?」
「そう見えるよ」
「そうか……、これが失恋。だとするとアタシの、初恋か……」
「どういうこと?」
「18歳の秋からの5年間、あやつら5匹とは恋なんてしてなかったのよ。そして油性サラリーマン仮面とも恋愛未満だった。それを今気づいたわ」
そういうことだ。つまりアタシの恋愛はこれからなのよ!
「油性サラリーマンって?」
「いわずもがな!!」
「ん……?」
「トンコに話しても理解できないでしょうよ。恋人のいない子にはね」
「どうしてそう思うの。みくびらないでよ」
「なっ」
この自信ありげな返答は、もしかすると?
「トンコ、彼氏ができたとか?」
「そうなの。正子も知っている人だよ」
トンコがカバンからスマホを取り出して見せつけてくる。
もちろん、2ショット写真をだ。
「ぬわぁ!」
思わず変な声が出ちゃった。こやつは雅彦ではありませんか!
「この前のクラス会の2次会で山田君と話したの。それでお友だちを紹介してもらうことになって、それが近衛君だったの。高3のとき正子つき合ってたのでしょう?」
山田って、どの山田? 2次会に行ってないアタシにはわからん!
「近衛君ね、正子にクリスマスイブのデートをすっぽかされて、しかも着信拒否にされたっていってたよ。どうして正子はそうなの?」
「いやいやいやいや、まったくもって違いますですよ、雅彦のやつがすっぽかしたんでしょうが!」
「もう正子怒らないでよ。あなたどうせ待ち合わせの場所を間違えてたとか、そういうオチなのでしょ。勘違いには気をつけた方がいいよ」
「なっ」
そうだったのか? アタシは別のところで待ってたのか?
今となってはどうでもいいけどね。ていうか、もうどうにもなんないわ。
しっかし、雅彦は女なら誰でもいいのね。
あんな男に引っかかるトンコも可哀そうではあるけれど、でも本人が幸せそうにしてるなら、それでいいか。許そう。
アタシはUSBメモリをハンドバッグに入れて、とても入り切らない本は脇に抱えて立ちあがる。
「じゃあねトンコ、お会計は任せた。だって完結版『人気だす草なぎ君!』を読めるのはアタシのおかげなんだから、レモネード代なんてタダ同然でしょ?」
「正子、ちょっと待ってよ!」
アタシはふり返らない。次のホントの恋愛に向かって歩くのみ。
「お会計、お願いします」
レジスターのところでトンコの声がする。
男性店員が返す。
「ご一緒されてた方が、すませてくださいましたよ」
どこまで気の利く男なのよ、あの猪野獅子郎ってやつは! そう思いつつアタシは重い扉の取っ手を握り、力を込めて押す。カララァ~ン♪ と鳴る。
反対の腕にはムダに重い本。マサコちゃんパワー不足です。
家に帰り着き、荷物を部屋に置いてからリビングへ行く。
お父さんがいて、テレビは囲碁番組をやっている。もしかして囲碁が好きになったのかしら?
「おお正子、今日はやけに早かったな」
「ものを受け取るだけだったの」
「吾郎君か?」
「違う! 吾郎のやつなんかもう半年前に終わってんのよ!」
「それは残念だな。少し軽い雰囲気だが、気さくな好青年だったのに」
あやつは1度この家にきた。正男は模試を受けに行ってた。
お父さんも出かけてたけど、夕方前に帰ってきて吾郎と鉢合わせになり、挨拶を交わした。それで「なんだ正子、夕飯を食べてもらえばいいじゃないか」なんて余計なことをいってくれたのだ。
「あのときはネコ被ってただけなの。もう吾郎のことはいわないでよ」
「そうか、了解」
アタシは囲碁でも観ようと思って腰をおろしたのだけど、ちょうど番組終了となってしまった。あー残念!
「ねえお父さん」
「なんだ?」
「大学教授なんだから、パワーショベルくらい使えるでしょ。ちょっと教えてよ」
「は? パワーショベル? 俺は特殊免許なんて持ってないぞ。普通車だけだ、無事故無違反20年以上のな」
「偉いんだね?」
「まあな。ああ、それよりもお前、パワーショベルがどうしたんだ? まさか工事現場で働くつもりなのか?」
「お父さん、ちょっと待ってて」
部屋に置いてある重い本を取ってきて手渡す。
「見て、お父さんわかる?」
「これはプログラミングに関する本だな。お前が買ってきたのか? なっ、おいおい本体価格8400円だぞ!! この著者、どれだけ稼いでやがるんだ!」
「お父さんそれは失礼よ。こういう本は専門書なんだから、そんなに誰もが買うわけじゃあないの。それに、こんな厚い本を書くのにどれだけ苦労が必要か、そこんとこ考えて発言してる?」
「おっ、まあ確かに、それはその通りだ。正子も少しは賢くなったものだ」
「まあね。それよりもお父さん、プログラミングわかる?」
アタシは帰り道に考えてきたの。頑張ってこの本を読んだら、せめて小説ファイルを自動ダウンロードするプログラムくらい作れるんじゃないかってね。
「残念だが父さんの専門外だ。そもそも大学で使っているパソコンのOS自体がワインダーズじゃないからな」
父は、心なしか少し寂しそうな顔をしている。パワーショベルを知らないことがそんなに屈辱なのかしら?
「じゃあ、アステロイドOSなの?」
「それも違う。父さんが使えるOSは〈
「知らない」
ことパワーショベルに関しては、我が父も頼りにならないとわかった。
「お父さん、駅前のあの喫茶店でババロア食べたことある?」
「あるぞ。なかなかの味だった。それがどうした?」
「もっとおいしいの、食べられるかもよ?」
「そうなのか? どこでだ?」
「今は秘密、楽しみにしてて。ふふ」
「そうか。よくわからんが期待しておこう」
アタシは立ちあがり、パワーショベルの本を引っ提げてリビングを去る。
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