1.〈 09 〉
昨日の大事件に関して猪野さんの容疑が晴れたので、もうこの人に用はない。
だからアタシはさっさと「サヨナラ」したいと思うのだけど、なんとなく流れでこの男と会話を続けている。まあほとんど社交辞令みたいな、どうでもいい話題ばかりなんだけどね。
「デモ用で2千項目もテストするんですか?」
「はい。ことプログラミングにおいては、デモ用であろうとなかろうと、僕は一切手を抜いたりしません。それに2千項目のテストといっても、数多くのテンプレートを揃えておりましてね、それらを使いテストプログラムもテストデータもスクリプトで自動生成しております。テストの実行も自動化していますから、すべて短時間で終わります」
「ほぇ~!?」
アタシにはとうてい読解不可能な世界だね。マサコちゃんチンプンカンプン!
ていうか、この人はアタシからのほんの些細な質問に対して、すこぶる丁寧に答えてくれてる。
例えば「今日はお休みですか?」と聞けば「昨日あのような形で仕事を受けたものですから、代わりに今日は半休にしました。今日の仕事は午後2時からとなります。僕は休みをきっちり取る主義でマイペースを維持しているのです」という具合だ。つまり、この男の返答は最大でおよそ〈8倍返し〉になるのよ。
アタシがこの人になにかしてあげたら、8倍で返してくるのかなあ? 金品的には、そういうのは大歓迎ではあるけど、でも肉体的にもそうだったら、さすがのアタシも体が持たないかも……、ていうか、アタシなに考えてんだ!
そんな展開は絶対ないです!! だって相手は猪野さんだよ、顔が油性サラリーマン仮面なんだし……。
「大森さん」
「は!?」
「どうかされましたか?」
やだあ、猪野さんの視線がアタシの薄化粧に注ぎ込まれている。
まるで「捲りあげて素肌を曝してやろうか」とでもいわんばかりに! まったくスケベエだわねえ。
「いえ、アタシ別に……」
「そうですか?」
「はい、ちょっと貧血気味で……、でももう大丈夫ですから」
「わかりました。ところで大森さん、先ほどお話しになられたメモリカードは、今お持ちになっておられますか?」
「いいえ、持ってきてません。家にありますけど?」
「大森さんが削除されたファイルは、復旧できる可能性があるのです」
「えっ、それってホントですか!?」
「はい。そういうツールがありましてね、どこまで救えるかは実際にやってみないとわからないため、今この場で保証まではできませんけれど」
削除されて〈ゴミバケツ〉にすら入ってないのに復旧!? なんとまあ、そんなことができんの? できたらそれこそ魔法だよ!
ひょっとしてそれも自分で作ったプログラムなの? だとするとこの人、やっぱり正真正銘のパワーショベルウィザードなのね!
「あのそれ、試してもらえるんですか?」
「はい。大森さんがお望みになられるというのであれば、ぜひ僕はそうしたいと考えております。どうされますか?」
あ、ちょい待ち! これこそよくある詐欺の手口かもだ。まず大切なファイルをダメにしておいて、それを復旧してやるとかいって大金をせしめようとする狙いじゃないかしら? だまされないように、よくよく注意せねば!!
でもなあ、この猪野さんウソついてるようには見えないし……、どうしよ、最初に金額とかしっかり確認しておけばいいかなあ? そこんとこを聞いてみよう。
「あの猪野さん、それにはサポート代金とか必要なんですよね?」
「いいえ。知らなかったこととはいえ、僕の作ったプログラムのせいでお困りなのですから、僕は大森さんのために全力で対応させて頂きます。それによってあなたに金銭的負担を強いることなど微塵もありません。すべて無料で対応させて頂きます」
「ほお!」
ここは信じてもいいのかなあ? いや信じなければ救われない!
「じゃあ、よろしくお願いします!」
「承知しました。それでメモリカードのことなのですが、できればそれはお触りにならないようにしてお持ちになってください」
「えっ、デジタルフォトフレームにセットしたまま、ということですか?」
「いいえ、そういう意味ではなくメモリカード自体の中身のデータのことです。なにか新しいファイルを作ったりしますと、救いたいファイルの領域に上書きされて復旧率が低下してしまいますので」
「えっと……、はいはい、そういうことでしたら、その通りにします」
こうしてアタシたち2人は、次の日曜にまたこの喫茶店で会おうと約束した。
まるで新しい幸運の枝を託された青い小鳥になった気分だ。心がフワフワと楽しく、まさに羽根のように軽い足取りで帰路につくのだった。
家に着いたアタシは玄関のドアを閉める音と同時に気づいた。
「やだあ、スーパーに寄るの忘れてる!」
そしてもう1度家を出て、予定していた買い物を終えて帰った直後、トンコが連絡してきやがった。こやつがどう出てくるのか、まずは様子見だな。
『ごめんね正子。ワタシ、猪野さんがあなたに説明されたと思ってたの』
「なにを?」
『昨日のプログラムはデモ版で、使う際には注意点があるということよ』
「なにも聞いてませんでしたよ、アタシ」
トンコが弁解というか、まあいろいろ説明してくれたのだけど、なんでも〈文字コード〉が〈ユーティーエフエイト〉だとか〈シフトジス〉がどうとか、話にプログラミングの専門用語みたいなのが混じるので、アタシはイマイチ理解できなかった。
「ねえ、そういえばトンコ、昨日居眠りしてたじゃん。コーディネーターとかいう役目を担っておきながら、そんなじゃダメダメ! ちゃんとアタシらを見ていて、しっかり調整するのがお仕事なんでしょ?」
『それをいわれると、ワタシ穴に入りたいわ。でも最近寝る時間が少なくて……』
「寝てないの? もしかして、夜中遅くまで小説読んでんの?」
『違うの。ワタシ資格試験の勉強とかしてるから』
「資格? もしかしてトラバーユとか狙ってる?」
『ちょっとね』
「そうかあ、でもムリしちゃダメだよ?」
『うん』
トンコもそれなりに頑張ってんのね。こんな真面目で一生懸命な子を疑ってしまったアタシも、ちょっとどうかしてたよ。
ほら、有名な文豪さんもしっかり書いてるじゃありませんか? ――えっと、なんだっけ「人の心を疑うのは1番恥ずかしい悪癖」だとかなんとか。アタシも穴に入ろうかしら?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます