第20話生じた感情
蝶次郎と瀬美が家に帰ったのは深夜のことだった。
「おかえりなさい、蝶次郎さん!」
「よく無事で帰ってきたね……」
「お前たち……」
医者である源五郎は当然、寝ていないと思っていたが、たまととん坊が起きていたことに蝶次郎は驚いた。そして同時に言わねばならないと思った。心に傷を負ったばかりだったが、タダシを可愛がってくれた二人には真実を告げる義務が彼にあった。
二人の顔つきは不安そのものだった。タダシのことを心配しているのがひしひしと蝶次郎に伝わってくる。怪我を負ったとん坊は横になっているけど、たまは強張った顔で正座していた。
「た、タダシはどうしたの……連れてきたんじゃないの?」
「……そのことで、話がある」
一回、深いため息をついて、蝶次郎はたまととん坊、そして険しい顔をしている源五郎と向かい合う。隣には瀬美がいたが、彼女は黙ったままだった。
「タダシは――殺された。コドク町の住人に」
余計なことを言うと言いづらくなると思った蝶次郎は、端的に最悪の事実を述べた。
すぱっと介錯するように、たまととん坊の希望を切り落とした。
「う、嘘だよね……そんなの、嘘だよ!」
「……うええええん!」
たまは信じなかった。
とん坊は泣き始めた。
蝶次郎は唇を嚙み締めた。
「嘘ではない。ちゃんと確認した」
「どうやって、確認したの! 見つからなかったからって――」
それでもなお、信じないたまに、瀬美はそっと床に置いた。
蟻村の家から持ち帰った――黄鉄鉱が付けられた首輪を。
それにはもちろん、血痕が付いていた。
「え、あ……そ、んな……」
「いやだよ……こんなのいやだ……」
たまは口元を押さえて、過呼吸になってしまった。
とん坊は大粒の涙で泣き続けている。
「すまなかった。間に合わなかった」
「約束を守れなくて、申し訳ございません」
蝶次郎と瀬美の謝罪は、子供たちの耳には入らなかった。
仔犬とはいえ、先ほどまで一緒にいたものの死は幼い二人には衝撃的だった。
「……二人とも、今日はもう寝ろ」
源五郎はたまの頭を撫でながらぶっきらぼうに言った。
たまは過呼吸のまま、首を横に振った。
「わ、私。探しに行く……」
「馬鹿。タダシは死んだんだ」
「もしかしたら、生きて――」
源五郎が何か言う前に、瀬美がたまに近づいて抱きしめた。
「瀬美さん……」
「ごめんなさい」
優しく慈しむように、それでいて強く抱きしめる。
「たまさんとの約束、守れなくて、ごめんなさい」
瀬美はあくまで機械的に謝っていたけど。
たまには彼女が心から謝っていると思った。
瀬美に心などあるわけがない。
しかし彼女の声や仕草から、本当にタダシを救えなくて後悔しているのが、たまに十分伝わった。
「……タダシは、死んじゃったんだね」
「イエス、そのとおりです」
「もう、会えないんだね」
「イエス、そのとおりです」
たまは瀬美に「瀬美さんは……」と訊ねる。
「タダシのこと、好きだった?」
瀬美は内部に搭載された回路で最適解を出す前に、ほとんど反射的に答えた。
「イエス――好きでした」
◆◇◆◇
たまととん坊が寝たのを見て、源五郎が「タダシという仔犬、食われたのだろう?」と蝶次郎に訊ねた。
「最初から、分かっていたのか」
「ああ。コドク町の住人なら食うか、肉にして売るかしかしない」
「だからあのとき、あんなことを言ったのか」
二人は正座して対面していた。
瀬美は蝶次郎の隣で同じく正座していた。
「タダシは気の毒だったな。きっと苦しんだ」
「ああ。そうだな……」
「たまたちも苦しむことになる」
ちらりと子供たちの寝顔を見た源五郎。
二人は穏やかではない寝顔でうなされていた。
「自分たちがコドク町に近づかなければ、タダシは死なずに済んだ。いずれそう気づくことになる」
「だろうな。俺も後悔しているよ。子供たちにもっと強く言うべきだった」
「なあ蝶次郎。お前まだ、うなされるか?」
話題が急激に変わったわけではないが、その指摘は蝶次郎を動揺させるのに十分だった。
源五郎の目は真剣そのものだった。
絶対に嘘が見破られると分かる目。
「うなされない日のほうが珍しいよ」
「だから酒に溺れているんだろう? 少しでも見ないように。だが最近、酒を飲んでいるのか?」
「いや、あまり……」
「そこにいる女のせいか?」
源五郎は瀬美を名前ではなく、女と呼んだ。
信用していない証拠である。
瀬美は機械的に「一度しかお飲みになっておりません」
「燭中橋が普請する前に、一度だけ飲んでおりました」
「お前が自発的に禁酒するなんてありえない。一体どういう心境だ?」
蝶次郎は目を伏せながら「飲む機会がなかっただけだ」と拗ねたように言った。
「飲むときは飲むさ」
「ふん。ま、健康には良いが。きちんと眠れればいいしな」
意味深に言う源五郎に対して「それとタダシが死んだこと、関係あるのか?」と源五郎に詰め寄る蝶次郎。
「あんた、何が言いたいんだよ」
「お前の姉、さなぎはいつまでも縛るのだな」
「縛る……」
「お前の心をだ」
源五郎は厳しい顔つきで逆に蝶次郎を問い詰める。
「お前はいつまで、立ち止まっているんだ?」
「…………」
「いつになったら歩き出せるんだ?」
「…………」
「さなぎのことを、忘れることはできないのか?」
蝶次郎は源五郎の問いに答えた。
「……分からねえよ」
それは源五郎が期待していたものではなく、蝶次郎自身も情けないと思う答えだった。
◆◇◆◇
翌朝はしとしとと小雨が降る、どうも中途半端な空模様だった。
蝶次郎と瀬美、たまは城下町の外れにタダシの墓を建てた。そこはコドク町から遠く、子供でも安心して行けるような草原だった。
黄鉄鉱の首輪を地中に埋めて、上に石を積んで。
それから近くで摘んだ花を供えた。
「タダシ……向こうでゆっくりしててね……」
たまが手を合わせて祈る。
蝶次郎も同じく手を合わせ、瀬美も二人に倣って合わせた。
「雨が強くなりそうだ。とん坊の様子も気になるから帰ろう」
蝶次郎は傘を開きながら言った。
「うん。そうだね……」
どこか寂し気なたまの横顔を見た蝶次郎は心を締め付けられる心地がして、がらにもなく彼女の小さな右手を左手で握った。
「蝶次郎さん?」
「……行こう」
不思議そうな顔をしたたまだったけど、蝶次郎なりに慰めてくれているのだと分かり、素直に「うん」とだけ言った。
「瀬美。お前も……」
蝶次郎の声が止まる。
たまが瀬美のほうを見た。
瀬美はタダシの墓を見続けていた。
持っていた傘もささず、ずっと見続けている。
雨が顔に当たっても気にする素振りを見せない。
蝶次郎とたまは、雨に濡れた瀬美が、泣いているように見えた。
「瀬美……」
「蝶次郎様。私、おかしくなってしまいました」
瀬美は囁くような小声だった。
「どうしても、ここを離れたくないのです」
「…………」
「自分でも、理由が分からないのです」
蝶次郎の目頭が熱くなった。
たまは大粒の涙を零している。
「私は、おかしいのでしょうか?」
「……いいや、おかしくない」
蝶次郎はたまと一緒に、瀬美の元へ歩み寄った。
そしてさしていた傘を瀬美が入るように傾けた。
「おかしいことなんて、ないんだ」
「蝶次郎様?」
「それが、悲しいって感情なんだよ」
瀬美は少しだけ、目を見開いて。
それからゆっくりと「悲しいという感情……」と呟いた。
「だとしたら、悲しいとは苦しいものですね」
瀬美は再び、墓に手を合わせた。
自身に生じた、悲しいという感情に折り合いをつけるためだった。
しかし彼女がいくらタダシの冥福を祈っても。
楔のように残ってしまうのだった。
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