第19話


 一人きりの家の中は静かだった。

 宮崎紗弥加が帰った後、俺はバタリとその場に寝転がり天井と睨み合う。


 気づけば夜になっていた。

 それでも、何もする気にならなくて俺は動かないままいつの間にか眠ってしまっていた。


 翌朝、目が覚めると昼だった。

 昨日のことを思い出して、やっぱり何もする気は起こらなくて、寝転がったままずっと考えていた。


 悩んで。

 悩んで。

 悩んで。

 どれだけ考えても答えは出なくて、俺は何度目かも分からない溜め息をつく。


 夕方になり、さすがにお腹が空いたので起き上がった。でも料理する気にはなれなくて、かと言って冷蔵庫の中にはなにもない。


 仕方ないから外に何か買いに行くかと用意していると、スマホにメッセージが届いていることに気づく。

 そういえば昨日から全く見てなかったな。


 昨日来ていたメッセージだったら申し訳ないと思ったが、今日の昼頃に届いたもので安心した。

 相手は寛子さんだった。


『今日ご飯付き合ってよ。暇で暇で仕方ないんだ』


 そんな内容だった。

 人と会う気はあまりなかったけれど、寛子さんのメッセージを見ると自然とそんな気持ちは薄れていく。


 佐橋寛子は自分の中に確かな生き方を持っている。

 故に、自分の行動に迷いはないし、選んだ未来に後悔はしない。

 俺はそんな彼女の強さを、羨ましいと思っていた。


 何となくだけれど、寛子さんに会えば何か変わるのかもしれないと思った。


 そして、メッセージを返して、返信が遅いことを咎められた後に約束の時間を決めて集合場所へと向かった。


 少し早めに到着するように家を出たつもりだったが、集合場所には既に寛子さんの姿があった。


「早いですね」


「言ったでしょ。暇で暇で仕方ないって」


 いつもと変わらない調子の寛子さんは笑いながらそう言った。

 その後いつものようにおふざけ交じりの雑談をしながら歩く。

 しかし、寛子さんは俺の微妙な空気感を察したのか不思議そうにこちらを見てきた。普段通りにしていたつもりだったけど、何か違ったのか?


「何かあったみたいだけど、立ち話もなんだからお店先入ろうか。お悩み相談でも何でも、お姉さん受けて立つよ?」


「俺そんなふうに見えます?」


「見えるというか感じる。違った?」


「いや、その通りで……だから驚きました」


「コメントにいつものキレがないよ。普段通りを装うならその辺も気をつけた方がいいね」


 この人は何というか、大人だ。

 歳はそこまで変わらないというのに、どうしてこうも違うのだろうか。

 経験の差か?

 いや、きっと気持ちの差だ。


 俺に気を遣ってくれたのか、お店は個室のある場所にしてくれた。こういう些細な気遣いをさっとできるところも羨ましい。


「それで、話を聞こうか。翔太クンは私に相談してくれるのかな?」


「俺としてはそのつもりで来たんですけど、聞いてくれますか?」


「ドンときなよ。ただあまりにもヘビーなものなら最初に断っておいてよね」


 寛子さんは冗談っぽく言う。

 そんなことを言いながらも、きっとどんな相談だって聞いてくれるのだろう。

 それが俺の知る佐橋寛子という人だ。


 俺は今までのこと、そして昨日のことを全て話した。もともと俺が宮崎のことを好きだったという話はしていたので、ほとんどは昨日のことだ。

 適度な相槌を打ちながら、寛子さんは茶化すことなく最後まで真剣に聞いてくれた。


 俺が話し終えると、寛子さんは一度ドリンクに口をつける。


「なんかいろいろと大変だったんだね。それで?」


「へ?」


 寛子さんの突然の問いかけに俺は間抜けな返しをしてしまう。


「翔太クンはどうしたいの? 結局のところ問題ってそこなんでしょ?」


「ええ、まあ。でも、分からなくて」


「それはね、多分分からないんじゃなくて勇気がないだけなんだよ」


 悩む俺に、寛子さんはそんな言葉をかけてきた。


「悩みって誰にでもあるよね。もちろん私だってそれなりに悩むことはある。答えが分からないって立ち止まって俯いて、前に進むことを躊躇うの」


 まるで今の君でしょ? とでも言いたげに寛子さんは俺に視線を向ける。


「でもね、本当は答えって決まってるんだよ。その問題と直面した時、既に自分の中の考えは定まってる。だから、その人の足を止めているのは答えが分からないという迷いじゃなくて、一歩踏み出す勇気が足りないだけだと私は思う」


 言いながら、俺に微笑みかける寛子さんはそのまま言葉を続ける。


「それが甘えだとか言うつもりはないよ。一歩踏み出すことにも悩まなければいけないだろうし。だからね、まずは自分と向き合って答えを受け入れないと次に進めないの。だから、もう一度聞くよ、翔太クンはどうしたいの?」


 やはり。

 この人は的確に確信をついてくる。

 優しくされたかったわけではないが、ここまでハッキリ言われるとは思わなかった。


 でもそれも俺を思ってのこと。

 優しくしてほしいという空気を察すれば、きっとこれでもかというくらいに甘やかしてくれるに違いない。

 でも今は違う。

 俺が求めているのは答えだ。

 だから寛子さんは、答えを導き出すために必要なことを俺に言ってくる。


「俺は、宮崎のことが好きでした。でも、俺の思いは届かなくて。ケジメをつけて前を向くことが正しいことだって思って、そう自分に言い聞かせてその道を選んだ」


 今の俺にとって、寛子さんの存在は大きい。

 元を辿れば、彼女との関係はセックスというものから始まったが、今ではかけがえのない存在だ。

 今もこうして、俺の背中を押そうとしてくれている。


 そんな人達の協力があって、俺は前を向けた。宮崎への思いと決別したのだ。


「でも多分、本当の意味では俺はまだ彼女への思いを捨てきれてなかったのかもしれない。それを、昨日あんなことを言われて、あんなことを言ってしまって気付かされた」


 須川に捨てられ、俺に迫ってきた宮崎を見て、俺は恐れた。

 彼女にとって自分が都合のいい存在でしかないことを理解することを。今まではそうでもよかったと思っていた。


 でも、昨日はそう思えなかった。

 本能的に辛い思いをすることを避けたのだと思う。あの時、宮崎を受け入れて彼女を慰めていれば俺達の関係はまた変わっていたに違いない。


 歪んで、歪んで、それでも俺達はまた新しい関係を築いていただろう。


 俺はまた、彼女の都合のいい男になってしまっていた。


 それが恐かった。


「人を好きな気持ちは捨てる必要ないと思うよ。だって、それってすごい大切なものだもん。それを捨てるってことは、今までの自分の悩みも葛藤も、苦しみも悲しみも辛さも全部捨てるってことだよ? そんなの、間違ってると思わない?」


「そう、ですかね?」


「少なくとも、私はそう思うかな。いろんな思いを全部背負って未来へ向かうの。今までやってきたことに、無駄なことなんて一つとしてないんだからさ。翔太クンが宮崎さんを好きだっていう気持ちは、君にいろんなことを教えてくれた。違う?」


 違わない。

 俺は寛子さんの問いかけにかぶりを振った。


「違いません」


「と、まあいろいろと言ってきたけど、結局のところは君がどうしたいかというシンプルな問題なのだよ」


「俺が、どうしたいか……」


「翔太クンの中には、宮崎さんへの気持ちがまだ残ってる。でも昨日の彼女の誘いを断ったのは、多分何か思うことがあったからだよね」


「……はい」


「そうなる未来は避けたい。それがどういう未来なのかは聞かないでおくけど、それじゃあ宮崎さんとこの先ずっと話さないまま疎遠になる、そんな未来はどうかな?」


「それは、ごめんです」


 そんなことを望んではいない。

 だって、気持ちを隠してでも彼女の幸せを願っていた。自分が辛い思いをすると分かっててそれでも俺は彼女の近くにいることを選んだのだから。


「きっと、昨日の誘いを受けていたら体を重ねて、気持ちがなあなあのまま、ずるずると二人で快楽の渦へと堕ちていく。性欲を満たすためにお互いを求めあって、気の済むまで激しく絡み合う。人はそれをセフレと呼ぶのだけれど。そうなることを、君は拒んだ」


「……はい」


 その関係は、まさしく昔の俺と宮崎の関係そのものだ。あの時の俺達は、寂しさを紛らわすことなどとうに忘れ、ただ性欲を満たすためにお互いを求めた。

 寛子さんの言うとおりだ。


 俺は宮崎紗弥加とセフレになることを拒んだのだ。


「ほら、だったらやっぱり答えは決まってる」


「答え……」


「宮崎さんと疎遠になるのは嫌で、セフレになることを拒んで。今まで通り友達という選択肢もあるけれど、多分翔太クンの中にある答えは、そうじゃないよね?」


 ああ。

 本当に。

 全部見透かされている。

 まるで俺の心を読まれているようだ。


「翔太クンは、宮崎さんとどうなりたいのかな?」


「俺は……」

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