「本当に、お腹が痛いだけなんです」
「わざわざ家にまで来てくれて、ごめんねえ」
「あっ、いえいえ。こちらこそ急に押し掛けてしまってごめんなさい」
エレベーターの中、目指すは薬師寺の住まう8階。
今の精神状態では空回りするだけだと出直そうとしたところ、偶然にも1階ロビーにて薬師寺のおばあちゃんと鉢合わせてしまう。
鉢合わせてしまって……流れで、招かれてしまう。
いや、招かれるっていう言い方はちょっとおかしいか、もともと薬師寺に会うために意図してここまで来たわけだから。
「まーちゃん何してるかなあ……部屋で寝てると思うけどねえ」
薬師寺のおばあちゃんが呟く。
ただの独り言なのか、俺に対して投げた言葉なのか、いまいち読み取りづらい声音。
仮に投げられた言葉だとしてどう返答したらいいのかわからない。
腹痛の調子はどうですかだなんてとても聞くことは出来ないし、かといって何の証拠もないのに中巻が話してくれた話題に触れるのも躊躇われる。
無言のままというのは、感じが悪いだろうか。
「あの子ねえ、最近ほんとに元気ないのよ。お腹痛いお腹痛いって嘘ばかりついて」
続いてるということは投げられた言葉に違いない。
というか……、、
えっ、嘘!?
「あの……嘘っていうのは」
不意を突く言葉に思わず反応してしまう。
まさか、薬師寺のおばあちゃんは事情を……。
「大丈夫、わかってるよ。あの子のことだからどうせ学校で嫌なことでもあったんでしょ」
「……ィ」
嗚咽のような微弱で奇妙な音を発してしまう。
言葉が心に刺さるように、体調が悪いわけでもないのに体が危険信号をあげる。
「初めの数日はほんとにお腹痛いだけかなって思ってたけどねえ……一週間も続くのはおかしいからねえ。嘘ついてごめんね、電話のときお腹痛で休ませて下さいって」
「……あ、や」
「でも大丈夫よ、もう少ししたら元気になると思うからね……。さ、着いた。まーちゃんの家はあっちあっち」
エレベーターが止まる。
薬師寺の住まう8階へと。
――――(♠️)――――
「ただいまぁ……」
扉を開けて、玄関に入ると同時におばあちゃんがただいまを言う。
家の中は暗くて物静かで、まるで人気を感じない。
漫画のワンシーンなんかでよく見る、シーン……という表現が実際に再現されてるみたいで、当然おかえりは返ってこない。
俺はと言えば、おばあちゃんの後ろを定位置にチラチラと中の様子を伺ってみるも……正直言って結構気まずい。
もし薬師寺と話が出来るとして、なにを話せばいいのか頭の整理がついていない。
「まーちゃん、ばあちゃん帰って来たよ~」
「………」
再びおばあちゃんが呼び掛けるも反応はなし。
おばあちゃん曰く、薬師寺は家で寝てるらしいけど……本当にいるのかな?
「まーちゃん……」
「………」
まだ、静かなまま。
ここまで呼んでこないなら直接部屋に行って確認した方が早い気もするけど。
そうおばあちゃんに提案しようとしたところ、何やらガサガサと物音が聞こえる。
前にいるおばあちゃんが白い袋の中に手を入れて、分厚い一冊の本を取り出した。
ん……なんだろう?
「まーちゃん、まーちゃんがお願いしてたやつ買って来たよー。シャンプッ!!」
ガチャ……。
「わあああ~! ばあちゃんありがとう~!」
薬師寺が、それはもうニッコニコの笑顔で扉を開けて走って来た。
「まーちゃん、なんで返事してくれないの? ばあちゃんただいまって言ったよね?」
「……うぅ……ごめんね、ばあちゃん」
「おかえりとただいまはちゃんと言わないとダメ。わかった?」
「んー。ちゃんと言うね」
「じゃあおかえりは?」
「……おかえり、なさい」
「はいよく出来ました! これまーちゃんが欲しがってた本!」
「わああっ、ばあちゃんっ!」
何こののほほんとした空間。
めっちゃ平和じゃん……。
「あっ、まーちゃん、先生来てるから挨拶しなさい」
「……ぇ」
薬師寺のおばあちゃんが紹介してくれる。
今、このタイミングでか……。
「や、やぁ薬師寺……は、はろー……みたいな」
「あ……っ」
なんかよくわからない流れでよくわからない挨拶をしたら、あって言われてしまった。
さっきから薬師寺の前に居たけど、シャンプに釘付けで俺の存在には全く気が付いていなかったらしい。
「いきなり来て、ごめんな? 今日とか休みの連絡なかったから」
「……ぅ」
とりあえず無難に声を掛けてみるけど、返事はない。
それどころか露骨に顔を反らして下を向く薬師寺。
髪には寝癖が付いていて、さっきまで横になっていた様子を伺わせる。
「あれ、休みの連絡なかったあ?」
おばあちゃんが間を取ってくれる。
単に気になってだとは思うけど。
「はい、今日はありませんでした。前にも一度なかったことがあって……」
「ええっ……まーちゃん、お休みの電話しなかったの? ばあちゃん朝に用事あるから代わりに電話してくれるって言ったよね?」
「……うぅ」
「なんでしなかったの?」
「………」
なるほど、そういうことか。
休みの連絡があったりなかったり、中途半端な部分が少しおかしいとは思ってたけど……なるほど。
「えっと、たまたま連絡するの忘れちゃってたとか……そういう生徒よくいるんですよ。舞さんもそんな感じじゃないですかね」
「……ほんとに?」
自分から言い出したとはいえ、今さら連絡がなかったことを責めても仕方ないのでそれとなくフォローしてみる。
とりあえず空気を悪くしたくない。
少しでいい、少しでいいから薬師寺と距離を詰めたい。
「だよな……舞、さん」
なるべく自然な笑顔で、裏表がないように……。
でもあれだな……おばあちゃんの前で薬師寺呼ばわりは出来ないから下の名前で呼ぶしかないけど、女子を下の名前で呼ぶのってなんかむず痒い。
生徒相手になに言ってんだって話だけど。
「……………って、ください……」
小さな声で、囁くように薬師寺が呟いた。
なんだろう……声が小さ過ぎて最後のくださいという部分しか聞き取れない。
「舞さん……?」
「帰って……ください」
薬師寺は下を向いていて、俺とは顔を合わせない。
一度目に比べれば少し声は大きくなったけど、まだまだ不安定で……。
でも、確かに聞こえた。
帰って下さいって。
「ああ……やっぱり、いきなりは迷惑だったかな? そんな長居するつもりはなくて」
「帰ってください」
三度目は、はっきりと聞こえる声で言われた。
明らかに拒絶の色が含まれる声で。
薬師寺の言葉に押されて、思わず無言になってしまう。
なんで、どうしてそんなこと言うのって、そう返せたらよかったんだけど……言葉が出て来ない。
出て来ない代わりに、さっきの中巻とのやり取りが頭の中を埋め尽くしていって……。
「まーちゃん、先生にそんなこと言っちゃダメよ。まーちゃんの様子見るためにせっかく来てくれたのに」
おばあちゃんが気を使って薬師寺を咎めてくれる。
薬師寺は……。
「うぅ……でも、お腹痛い…」
「ほんとに?」
「……ん」
「うーん……でもね、まーちゃん。お腹痛いからって先生に向かって失礼よ?」
「……いたい」
薬師寺は、お腹が痛くてそれで俺に帰って欲しいらしい。
お腹が痛くて、体調が優れないので相手に出来ませんと。
正直言って疑わしくはあるけど、今の薬師寺にとって俺は明らかに招かねざる客で、雰囲気から察して都合の悪い存在であることに違いはない。
俺自身も今のこの心境で上手く立ち回れる自信はないし、ここは薬師寺の言う通り一旦帰った方がいいのかもしれない。
しつこく粘ったところで心証を悪くするだけだし……一度、リセットした方がいい。
帰ろう……。
帰るけど、最後に会話を。
次回以降のためにも。
「舞さんは、今日一日なにしてたの?」
「……ぇ」
「思い付いたことを言えばいいよ。先生は少し、話がしたいだけだから」
「……な、なにもしてません。寝てました」
「お昼ご飯はなに食べたの?」
「うどん……と、おにぎり」
「そっか。今日はいつもに比べて調子はどう?」
「………」
「ほら、さっき走りながら部屋出てきたし……ちょっとは、お腹痛マシなのかなって」
「あっ……あれはっ……あの時は大丈夫でっ」
「ん……?」
「………いま、いま痛くなりました」
ええ……。
「そうなんだ。まあ……そういうときも、あるかな?」
「……はぃ」
薬師寺を詰めようだなんてそんなつもりは全くないけど、適当に会話をしていたら気まずい感じになってしまう。
でも、悪くはない。
お互いしどろもどろではあるけどちゃんと言葉を返してくれるし、何とか会話は繋がってる。
もう少しだけ会話のキャッチボールをして、桐の良いタイミングでお暇すれば今日はそれでいい。
悪いイメージを与えないまま引き上げて、次に繋がるように……。
「は、春宮先生っ」
薬師寺が、今日一番の大きな声で俺の名前を叫ぶ。
下を向いていた顔を上げて、苦しそうに俺を見つめて。
まるでスイッチでも入ったかのような切り替わり具合に戸惑っしまう。
いきなり、どうしたんだろう。
「えっと……薬師寺?」
おばあちゃんがいる前で咄嗟に薬師寺呼ばわりが出る。
言った瞬間しまったって思ったけど、そんなことがどうでもよく感じられるぐらい薬師寺の声には緊張があって。
「春宮先生っ……帰ってください」
とても辛そうで、苦しそうで、潤んだ瞳を俺に合わせて懇願するかのように薬師寺が言う。
「あ……うん、もう帰るよ。その前に少し話でもしたくて」
「や、休みの連絡をしなかったことはっ……ごめんなさい……。でも、お腹が痛いだけなんで……それ以外は、なにもないんで……大丈夫ですっ」
「ちょっと落ち着いて」
「本当に……本当にっ、お腹が痛いだけなんです……。元気がないのも、学校に行けないのも、全部お腹が痛いからなんです……」
「薬師寺」
「だから……お願いだからっ……帰ってください」
――――(◆)――――
「ごめんねえ、いきなり帰れなんて。突然先生来ちゃったから、あの子もびっくりしただけだと思うの。元々人見知りする子だから」
「いえ……僕の方こそ何の連絡も取らずに来てしまって、すみません」
「いいのいいの、まーちゃんの先生に会えてばあちゃんも嬉しかったから……。ねえ、春宮先生」
「はい?」
「まーちゃんのこと、よろしくお願いします。人見知りでちょっと気が弱いとこあるけど、素直でほんとに良い子だから」
「は、はい……こちらこそよろしくお願いします。至らないところも多々あるかと思いますが」
「いえいえ……。春宮先生、また来てね。ばあちゃんが居るときはまーちゃん嫌がっても中に入れたげるから」
「は、はは……それは……」
「ありがとうね。忙しいのにごめんね」
「そんな、こちらこそ時間を取っていただいてありがとうございました………。あの、それでは、失礼します」
「うん、元気でね」
「あ、あの……ほ、本当に、また来てもいいんですか? 舞さんが嫌がったとしても」
「いいよ、来て。それにね、あの子は別に春宮先生のこと嫌がってるわけじゃないと思うから」
そう言われて、会釈を一つ貰い、ロビーの方へと戻っていく薬師寺のおばあちゃん。
薬師寺の自宅前、時刻は17時半過ぎ。
今から学校に戻って残された業務をこなし、家に帰る頃には20時を回るだろうか……。
家に帰って落ち着いてから今日の出来事について整理したいとこだけど、たぶんこの調子だと学校に戻った後もずっとモヤモヤした気持ちを抱えながら過ごすことになると思う。
学校から薬師寺の家まで徒歩で約10分。
10分ぽっちで整理がつくのかわからないけど、少しでもこの気持ちを和らげることが出来るのなら……今、考えよう。
マンションから出てすぐの一本道。
道に沿いながら来た道をそのまま戻るだけの単純作業。
通りには保育園があったり公園があったりと普段散歩してる分には気持ちの良い景色がたくさん広がっているけど、今の自分には何一つとして入ってこない。
『帰って下さい』
最後に、そう懇願する薬師寺の顔が今だ脳裏に焼き付いて離れない。
ただ帰って下さいって、それだけじゃなくて……私のことを見ないで下さいって、そう感じた。
どうしてそう感じたのかわからない。
わからないけど、きっと今の自分は何もかも色々なことがわかってなくて、その一つ一つをこれからわかっていかなくちゃいけない。
中巻との会話。
今の俺を惑わす最大の原因とも言えるあの会話。
薬師寺はイジメられていると言っていた。
村上や南原達のグループから絡まれていると。
中巻とは他の生徒と比べて割りとよく喋る方で、俺からすればそこそこ仲の良い生徒程度には思っていて、一ヶ月ちょっとの付き合いしかないとはいえしょうもない嘘を付くような生徒には思えない。
だから、中巻のあの話が嘘だとは思っていない。
でも、話っていうのは言葉の集合体でしかないから、そこに決定的な証拠を見出だすことは出来ないし、当事者からの証言だというならまだしも第三者からの証言だけとなるとどうしても弱く映ってしまう。
現状、中巻の話だけで全てを肩入りすることは難しくて……。
ともするなら、当事者から直接話を伺うというのが当然の結論に至るわけで、今の自分に最も求められる部分はそこになってくる。
薬師寺、及び村上達から話を聞くこと……だよな。
そんなこと、わかってるんだけどさ。
わかってはいるけど……薬師寺はあんな感じだったし、村上達とは折り合いが悪くて話しづらいし、どうしたらいいんだろう。
アスファルトの上に革靴を擦らせながら学校までの道を歩く。
あと50メートルも歩けば交差点に出て、信号を右に曲がって直進すれば合縁中学校。
まあ、10分ぽっち考えたぐらいじゃ何も変わらないか。少しは整理も出来たし続きは家に帰ってから……。
あ、れ?
ん?
なんだろう、閃きっていうか……なにか、当然降って来た。
こういうときって竹先生に相談すればいいんじゃないか……?
竹先生は不良を取り締まる学校の重鎮。
悪さする生徒達を指導する、教育指導の代表的教員。
薬師寺はともかく南原や村上は不良に近しい生徒と言えなくはないはず。
南原や村上のグループと話しづらいなら竹先生に任せるというのは一つの手段としてありなんじゃないか?
もちろん俺も同伴するし、薬師寺に関しては自分一人で何とかする。
一番ネックだと思われる反抗的な生徒達との対話を上手く竹先生に任せて、仮に中巻が言ったようなイジメがあったとしても竹先生に仲裁してもらえれば解決までスムーズに持っていけるはず。
あれ、これ名案なんじゃ……。
だよな、どうせ俺一人が聞きに行ったところで村上達は相手にしてくれないだろうし、余計嫌われるに違いない。
無理だとわかってて行くのは非効率でただの二度手間。
だったら、やっぱり竹先生に頼るべきだ。
不良を相手にするというなら学校のヤクザに頼るのが一番いい。
絶対これだ……これしかない。
竹先生に相談しよう。
まるで霧が掛かっていたかのようなモヤモヤした気持ちが、サーっと流されていくように楽になっていく。
ゆっくりと歩いていたはずが、気が付けば小走りになっていて……早く竹先生に相談したくてしょうがない。
急いで学校に帰ろう。
この道を曲がればすぐだから。
信号は赤。
俺は、赤信号を渡って交差点を曲がる。
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