お水取り

Kitsuny_Story

スターバックス

「ホットケーキを焼いていたところなんだ」


僕は電話口に答える。電話の相手に何しているのかと訊かれたから、ありのままを述べたのだ。


「ふーん、とても優雅な土曜日を過ごしているのね」と興味がなさそうに相手は答えた。


ホットケーキなんて10年ぶりぐらいに焼いた。ホットケーキのお店特集を3日ほど前にたまたまテレビで見てから、なんだかホットケーキを焼いてみたくなった。


直径15cmの大きさの物が4枚焼けると書かれた粉を買ってきた。1枚目を焦がしながら焼いて、2枚目は形が崩れた。さあ、3枚目を焼こうとしていたときに突然電話が鳴り響いた。緩やかな土曜日の日常はここで終わりを迎えた。


「スタバで私の秘密を教えてあげるって約束したでしょ?」

うん、そうだねと僕は答える。

「今からその秘密を教えてあげる」そう言って彼女は少し笑った。


そう、彼女とは最寄駅近くのスターバックスで出会った。

その日スタバはとても空いていて、コーヒーカップを片手に席に座ると、僕以外に1人しかお客さんがいなかった。それが彼女だった。


彼女は2人がけの丸テーブルに座って、本を熱心に読んでいる。

僕の席からはちょうど彼女の横顔が見えた。

栗色の肩までかかる真っ直ぐで綺麗な髪の毛の向こう側に、とても大きな目が覗いている。

本を読むその横顔は、国立美術館に展示された西洋絵画を鑑賞しているようであった。


しばらくして彼女は突然本を閉じる。

次にスタバのペーパーナプキンを机に広げる。そして、右手の人差し指をコーヒーに浸し始めた。


僕はそれを見て驚く。

コーヒーを置いて、完全に彼女を凝視する。


彼女は人差し指で何やら描きはじめた。

ナプキンの上に茶色い線を走らせる。

何を描いているのかは分からない。

ただ文字ではない、何かを描いていた。

何度も指をコーヒーに浸し、何度もナプキンに線を重ねる。


彼女は手を止めて、トイレに行く。

僕は何を描いてるのか気になり、その隙に彼女の席に行く。

ペーパーナプキンの上には、何体もの牛の絵が描かれていた。

でも、ただの牛の絵じゃない。

これはアルタミラ洞窟に描かれた牛の絵そのものだった。


大学の美術史の講義で紹介されていた。

1万年以上前にスペインのアルタミラ洞窟で、何体もの動物の絵が描かれる。

その牛の絵そのものが、今ここにある。


「あの〜すいません」

振り返ると彼女が戻ってきていた。

すいません!と言って持っていたペーパーナプキンを机に戻す。


「あまりにも綺麗な絵だったので、見惚れてしまいました」と僕は早口で弁解する。

「ありがとうございます。自分でもよく描けました」と彼女は満面の笑みを向けてくれる。


「この牛の絵、アルタミラ洞窟の牛ですよね?」

「そうです。よくご存知ですね」


そして彼女は僕の耳元に口を近づける。

「あのアルタミラの絵も、私が描いたんですよ」はっきり、そう囁いた。

「え、でもあれは何万年も前の絵でしょ?」


彼女は少し声を上げて笑ってから、また耳元で囁く。

「だって私、何万年も前から生きてるんですもの」

彼女の口からはコーヒーの香りがした。

僕は、アルタミラの洞窟で彼女動物の絵を描いている姿を想像する。


「じゃあ今度、私の秘密を教えてあげますね」

そう言って彼女はスタバから出て行く。

机の上にはアルタミラの牛たちが残される。

僕はそれを手に取り、大事にカバンの中にしまう。


彼女が秘密を教えてくれるのを心待ちにしていた。彼女が描いたアルタミラの牛たちを眺めながら。


それが僕と彼女と出会いだった。

そして今日彼女が秘密を教えてくれる。

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