第13話 残業時間チート
五月中旬。
各駅停車しか止まらない駅が最寄りである住宅街に、二階建ての賃貸アパートがある。
決してリッチな外観ではないが、ボロいというわけではない。
交通の便は決して悪くなく、むしろ良い方であるが、最寄り駅が主要駅ではないためか、あるいは市の中心部ではないからか、家賃は高くない。
安月給で働くビジネスマンにとっては、うってつけの物件といえるかもしれない。
そこの一階に自宅がある重坂が、今日も深夜残業を終えて帰宅してくる。
彼はアパートにある一室の扉を開けて中に入る。
入った後、扉の下部を見ると、郵便受けに封筒が入っている。
彼は郵便受けから封筒を取り出した。
――給与明細書だな。
彼は封を開け、中身を取り出す。
中身は、やはりT社から送られてきた給与明細書だった。
彼は、それを見て愕然とした。
休日出勤も含め、百五十時間は残業したのに、十五時間分しかついていない。
「どういうことだ! これは?」
思わず声を出してしまった。
彼は台所を通過し、部屋に入る。
部屋の広さは八畳。
壁側にテーブルがあり、その上に16インチのノートパソコンが乗っかっている。
彼はノートパソコンを立ち上げ、勤務表のファイルを開く。
T社では、表計算ソフトで読み込める勤務表のフォーマットを、社員達に渡しており、彼らは帰宅したら、パソコンを立ち上げ、勤務表のファイルを開いて勤怠をつける。
勤務表を確認しても残業時間は百五十時間。間違いは無い。
彼はパソコンのメールソフトを立ち上げ、T社の総務宛てにメールを打つ。
『先月の残業時間は百五十時間なのですが、給与明細書には十五時間分しかついていません』
しかし、T社総務からの返事は無かった。
催促を入れても「調べてみます」という返事しか返って来なかった。
勤務中、社内LAN上のドライブにあるN社の勤務表も確認してみた。
D社に常駐しているN社のスタッフは、D社から許可を得て、ネットワークドライブに勤務表のファイルを置いており、表計算ソフトで開いて入力するようになっている。
彼らはT社の社員だが、N社に派遣されているので、T社の勤務表の他に、N社の勤務表もつけている。
これも問題なし。T社勤務表と同等の内容だったが、結局、先月の残業代は十五時間分しか振り込まれなかった。
時は四月下旬頃まで遡る。
D社の椎尾社長が、N社の鍋見に電話をかける。
『はい、エヌデストウルです』
「もしもし、ディスクリミネーションソフトの椎尾ですが、鍋見さんでしょうか」
『はい、鍋見です。どうされましたか? 椎尾様』
「今月、御社従業員達の残業時間が百時間を超えそうになっています」
『な……』
電話の向こう側にいる鍋見の驚きようが、容易に想像できる。
「このままですと、今月末には残業時間が百五十時間くらいになりそうですし、この状況は十一月まで続きそうです」
『……』
鍋見は絶句したままである。
「だからといって、残業時間を減らそうものなら、納期までにプロジェクトを完遂する事ができません」
『……』
鍋見は椎尾社長の話を黙って聞いている。
「ところで、弊社に常駐されている御社従業員達の中には、外部から派遣されている方もいらっしゃるわけですよね」
『……お察しの通りです』
「そこで、彼らの残業時間及び残業代を、十分の一という事にしていただきたいのですが、いかがでしょうか」
『いいんでしょうか。私文書偽造罪や電磁的記録不正作出に問われますよ。私も椎尾様も』
弱々しい口調から鍋見の不安が伝わってくる。
「問われたとしても我々は目標を達したい。そこで、鍋見さんも協力していただけませんか?」
『気持ちはわかりますが、いくら何でも、それはマズイです』
「鍋見さん」
『はい』
「もし、鍋見さんが協力しないとおっしゃるのなら、御社との取引をやめますけど、それでもよろしいですか」
鍋見の顔が青くなる。鍋見の口が開くまで、少しだけ時間を要した。
『……わかりました。協力いたします』
「ありがとうございます。それでは、よろしくお願いします」
こうして、椎尾社長と鍋見のやり取りは終わった。
鍋見はT社の営業に電話をかける。
『はい、テキヤシースです』
「もしもし、エヌデストウルソフトウェア開発部の鍋見ですけど、河骨さんでしょうか」
重坂達の勤務表は、総務に届く前に一度、上司である河骨に通される事になっている。
『はい、河骨です』
「御社から派遣されて、今、ディスクリミネーションソフトに常駐されている方全員の残業時間についてですけど、百時間を超えそうになっていまして、このままですと、今月末には百五十時間に達してしまいます。しかも、ディスクリミネーションソフトの椎尾社長がおっしゃるには、この状況が十一月まで続くそうです」
『!!』
「そこで、御社から派遣されている方々の残業を十分の一という事にしていただきたいです。これは椎尾社長からの依頼でもあります」
『いいんでしょうか、そんな事をして』
「河骨さん、協力していただけないと、御社との取引をやめますが、よろしいでしょうか」
『……それは、ご勘弁ください』
椎尾社長からの電話を受けた鍋見と同様に、河骨の顔が青くなっている様子が、想像できる。
「私共も同じ事をディスクリミネーションソフトさんから言われているんですよ」
『はい……』
「そういうわけで、よろしくお願いします」
『承知しました』
こうして、鍋見は椎尾社長から依頼された事と同じ事をT社の河骨に依頼した。
D社にはT社からの派遣だけではなく、K社からの派遣も常駐し始めている。N社のスタッフとして。
鍋見は同様な事をK社にも依頼した。結果はT社と同じだった。
五月上旬。先月の勤怠締日である四月末日の次の営業日。
総務部のオフィス。複数のデスクをくっつけた島があるが、企画開発部とは異なり、一つしか無い。
総務部は企画開発部と異なり、大幅な人数増加が無い。
繁忙期に派遣社員やパートを雇ったとしても、十人を超える事はまず無い。
現在、総務部の従業員数は四人。
そんな総務部の座席の一つに、新人の下総が座って、慌ただしく作業をしている。
勤務表のチェックや処理のため、下総のみならず総務部全体が忙しい。
突然、下総の目が丸くなった。
彼女の目はデスクトップパソコンのディスプレイを注視している。
ディスプレイには企画開発部社員の勤務表が表示されている。
残業時間が軒並み百時間を超えていて、そのほとんどが百五十時間に達している。
「大丈夫かしら……紺倉さんと須分くん」
「下総君」
勤務表を見て心配そうな顔をする下総の背後から声がした。
声の主は後退した額を持つ五十代の男性で、眼鏡を掛けている。総務部部長の
「部長」
下総が象蓑の方に振り向く。
「すまんが、その勤務表をコピーして、別途、残業時間を十分の一にしたものを作ってくれ」
「えっ」
下総は固まった。象蓑の言葉をにわかに受け止める事が、できなかったようだ。
「聞こえなかったのかね。これとは別に、企画開発部全員の残業時間を十分の一にした勤務表を作ってくれ、と言っているのだ」
「部長……そんな事していいんでしょうか? 犯罪になりませんか?」
「わかっておる。だが、これは社長命令だ」
「……」
下総は押し黙る。
「下総君! 返事は!?」
「……できません。いくら何でもひどいです。沢山残業させられた上、給料を減らされる企画開発部のみなさんが可哀想です」
「……わかった。この作業は私がやるから、君は便所を掃除してきたまえ。女子のだけでいいから」
「……わかりました」
下総は勤務表を閉じて、席を立ち、女子便所に向かった。
女子便所は、ひどく汚れているというわけではない。
だが、汚れが皆無というわけでもない。
下総は蛇口にホースを付けてハンドルをひねり、タイル床に水を
水を撒き終えたらモップ掛けを行う。
彼女のモップ掛けは丁寧だった。
彼女は他の総務部社員達が作業を終えるまで女子便所を黙々と掃除していった。
「結局、私が悪役をやる事になるのか……」
下総が便所掃除をしている間、象蓑はコピーした企画開発部の勤務表を改ざんしながら愚痴をこぼした。
五月下旬。
企画開発部のオフィス内にて、重坂達がコーディングの作業をしながら何かを話している。
「川鳩君、四月分の給料だけどさ、残業代、きちんとついてたか?」
「いいえ、十分の一しかついていなかったです」
「やっぱり」
重坂は、ため息をついた。
「川鳩君、先月の勤務表だけどさ」
「はい」
「エヌデストウルの分、渡されてないよな。石窓さんは、忙しすぎて今回は無理だと言ってたけど……」
普段なら、N社の勤務表は、控えとして紙に印刷されて、重坂達に渡される事になっている。
ところが、今回は渡されていない。
「けど?」
「どうも、残業代がピンハネされているらしい。だから、渡してないんだと思う」
「やっぱり」
「川鳩君、ウチの勤務表はもちろんだけど、交通系ICカードの履歴とか、そういうのも保管しといた方が良さそうだな」
「そうですね」
引戸と紺倉も何かを話している。彼らの場合はCGを描きながら。
「紺倉さん」
「何でしょうか、引戸さん」
「先月の残業代だけどさ、どうもピンハネされているみたいだ。十分の一しかついていなかったでしょ」
「はい、誰かが間違えたのかと思いました」
「勤怠のメモ取っているか?」
「いいえ、取っていません」
この会社ではネットワークドライブ上に勤務表ファイルがあり、N社のものと同様に、表計算ソフトで開いてから入力する。
だからか、紺倉はメモを取っていなかった。
「俺もそうなんだけどさ、これからはメモ取ろうな」
「はい、わかりました」
「須分君も、勤怠のメモ取っておいた方がいいよ」
「はい」
引戸も考えは重坂と同じようだ。
「須分の場合は、これでちょうどいいけどな」
鞭岡が周囲に聞こえるような声で言った。
その声が耳に入った須分は、キーボードを叩いてコーディングをしながらも、肩身が狭そうにうつむく。
「鞭岡、その言い方はないだろ!」
引戸が鞭岡に注意すると、鞭岡は「はいはい、わかったよ」と、うんざりしたような口調で返事した。
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