第11話 地獄の始まり

「これを3D化すればいいんですよね」

 D社企画開発部の新人である紺倉は、隣の席に座っている引戸――CG制作チームのリーダー――に尋ねた。

「そうだよ」

 引戸は快く答えた。

「わかりました。これ、烏峰明春先生の原画ですよね。感激しました! あの烏峰先生の絵を扱う仕事に携わる事ができるなんて! 私、ファンなんですよ」

 紺倉は烏峰の漫画が好きで、掲載されている雑誌は毎週買っており、単行本もそろえている。

「俺も気持ちは同じだけど、さっさとやっていかないと間に合わないよ。開発規模の割に納期短いし」

「はい」

 パソコンのディスプレイに表示されている画像は、烏峰がデザインしたキャラクターの原画。烏峰の仕事場からD社に送信されてきたのだ。

 紺倉は原画を3Dモデル作成ツールに取り込み、3Dモデルの作成を始めた。

 引戸の向かい側にいる堀後は、パソコンのディスプレイと対峙たいじしながらも、両手をせわしなく動かして、黙々と作業を進めている。

 黙々と作業しているのは堀後だけではない。請負として常駐しているN社のスタッフ――他社からN社に派遣されている者も含む――のCG担当もまた同様である。



「須分! 何だ! このコードは!」

 システム開発チームのリーダーである鞭岡が、新人の須分を怒鳴りつけた。

 目の前で雷が落ちたような激しさだった。

 あまりの声の大きさに須分のみならず、周囲の人間も驚いてビクッと体を震わせた。

 須分が鞭岡から頼まれたソースコードを一通り書き上げたので、そのレビューを、席が隣同士である二人が、向かい合いながら行っている。

「何だ、と申しますと……?」

 須分が、おどおどしながら尋ねる。

「『何だ、と申しますと』じゃねえ! この変数いらんだろ! メモリの無駄だ! それと、このコメント文、おかしくねえか!? 他の人が見たら絶対に勘違いするぞ! 後、マジックナンバーは使うな! 修正がくそ面倒になるだろ!」


 変数とは値を入れておく箱のようなものである。

 例えば、ヒットポイントを100とし、それを示す変数をhitpointとするならば、hitpointに100を代入する。

 これが変数の使い方であり、こうする事によって、コンピュータ処理上でのヒットポイントは100となる。

 変数というものは、その時その時で変わるから変数である。

 例えば、hitpoint = 100の状態で5ポイントのダメージを受けたのならば、hitpointから5が引かれて、hitpoint = 95となる。

 須分のコードでは変数を用意して、そこに計算式を代入してから使うという方法を取っているが、その変数は代入後、一回しか使われていない。

 ソースコードの可読性向上のためにそうしているのかというと、そうでもない。

 また、変数を用意する事によって、わずかかもしれないが、メモリを消費してしまう。

 だから、鞭岡は「この変数いらんだろ!」と言った。

 こんな処理をするくらいなら、計算式をそのまま使えばいい、というのが鞭岡の考えである。


 次に、マジックナンバーとはソースコード上に直接書かれた数値の事である。

 例えば、円の面積を計算する時、面積を示す変数をsurface、半径を示す変数をradiusとし、円周率を示す定数をPIとした場合、計算式は、surface = radius * radius * PI、となる。ちなみに、*は掛け算を表す記号である。

 ところが、PIを用いず、計算式を、surface = radius * radius * 3.14、と書いてしまう場合がある。

 この3.14が、マジックナンバーである。

 マジックナンバーの厄介なところは、該当箇所に変更が生じた場合、何箇所も書き直さなければならないところである。

 例えば、円周率を3.14から3.14159に変更する場合、円周率として3.14と書いたところを全て3.14159に修正しなければならない。

 ところが、円周率を示す定数としてPIを用意すれば、PIの初期設定値を修正するだけで済む。

 定数は初期設定以降、プログラム中で変更する事ができない。そう、足したり引いたり、新規に代入したりする事はできないのだ。

 だから、定数と言う。


「……すみません」

 須分は弱々しい声で謝った。

「あ、そうだ」

「何でしょうか?」

「ここの長ったらしい処理は、関数にしとけ」

 ここで言う関数とは、特定の処理を行うプログラムを一つの塊とし、それを好きなところから呼び出して使えるようにするものである。

「はい、わかりました」

「以上。では、俺が言ったところを直してこい!」

「はい」


 レビューを終えた須分は、暗い表情をしながら、パソコンの方を向いてソースコードの修正を始める。

 プログラムが正しいかどうかだけではなく、他人が読みやすいかどうか等も含め、審査するコードレビュー。

 この後も須分は鞭岡と何度かレビューを行い、その度に鞭岡から怒鳴られて泣きそうな顔になる。

 その様子が耳に入ってきた紺倉も顔が青ざめる。自分もこういう目に遭うかもしれないと思ったのだろう。

 ようやく鞭岡からOKをもらえると、須分は一瞬、ほっとした表情になったが、しばらくすると、また暗い表情になった。

 ――これからも、こういう事を繰り返さなければならないのだろうか。

 須分が書いたソースコードは動作確認済み。

 須分はソースコードをコミットした。

 リポジトリと呼ばれるファイルの保管場所が、専用のサーバにある。そこにソースコードを記述したファイルを送信して保存する。これがコミットである。

 コミットしたので、ソースコードのバージョンが上がった。


 ――鞭岡さんがここまで怒鳴り散らすところ、初めて見た。

 T社からN社に派遣され、D社企画開発部に常駐している重坂は、鞭岡と須分の様子を見て、何かが今までと違う、と感じていた。

 鞭岡が他人を怒鳴りつけたのは、これが初めてではない。

 須分が配属される前、何人かの派遣社員が鞭岡の元で働いていた。

 鞭岡は派遣社員達の仕事が上手くいかないと、怒鳴りつける事があり、その様子を重坂は見た事がある。

 しかし、ここまで激しく、しつこく怒鳴りつける様子を見たのは、初めてだった。

 ――後輩ができたからだろうか?

 鞭岡が怒鳴った相手は、後輩にあたる須分。

 D社の正社員であり、後に他者――後輩や派遣社員達――に指示する立場の人間になるだろうから、あえて厳しく言っているのかもしれない。

 けれども、それを考慮しても厳しすぎるのでは、と重坂は思う。

「あそこまで激しい鞭岡さん、初めて見ました」

 隣の席に座っている川鳩が、重坂に耳打ちした。

「……後輩だからこそ、あえて厳しくしているのかもしれないが、今回のプロジェクトがきついから、苛立っているというのもあるかもしれないな」

「そうですね」

「……!」

「どうしました?」

「後ろ」

 重坂の言葉に促された川鳩が振り向くと、鞭岡がこちらを睨み付けている様子を見て取る事ができる。

 殺気を感じた二人は、パソコンの方に向き直り、自分達の作業に戻った。



 時刻は午後十時を過ぎている。

 庶務を担当する岩蟻は、とっくに帰宅したが、それ以外の者達は、未だに残って作業を続けている。

「眠い……」

「もう少しだ、頑張れ」

 疲れて眠そうにしている紺倉を引戸が励ます。

「引戸さん」

「何だい? 紺倉」

「いつもこんな感じで遅くまでやっているのでしょうか?」

「確かに、こんなふうに遅くなる事もあるけど、以前は、序盤から深夜残業が続く事は無かったな」

 引戸は以前のプロジェクトの事を思い出しながら話した。

 開発も大詰めで、納期が迫っている時、このように遅くまで残業した事があるのだが、プロジェクトの序盤からこんな状態なのは、今回が初めてである。

「そうですか。今回は異例なのですね」

「そうだ。こんなプロジェクトは初めてだ」

 この状況はあくまで例外であると知り、紺倉は安堵するが、直後、しょっぱなから大変なプロジェクトに参加する事になってしまった、という落胆が入り混じり、複雑な気持ちになった。


「須分、コーディングは、どんな感じだ?」

 鞭岡から聞かれた須分は、コーディングの進捗状況を話した。すると……

「ここまでしかやってねえのかよ! 遅くねえか!?」

 また、鞭岡が怒鳴った。レビューの時と同様に、須分も周囲もビクリとする。

「すみません……」

「こんなんじゃ、いつまでたっても終わらんわ。お前、大学では電子情報工学科だったろ? 学生時代、ちゃんと勉強してたのかよ……」

 大学時代、須分はプログラミング等、情報工学に関する講義を受け、課題もテストもこなし、単位をしっかりと取得してきた。成績も決して悪くない。

 だが、鞭岡が要求するレベルは、新人である須分にとって、あまりも高すぎる。

「まあまあ、鞭岡君、そんなに責めなくてもいいじゃないか。須分君は新人なんだし」

 二人の様子を見かねたのか、菊軽が鞭岡の所にやって来た。

「部長……」

 鞭岡は菊軽の姿を間近で見た途端、大人しくなった。

「須分君、今日は、きりのいいところまでで構わないから、後、ほんの少しだけ頑張ろう」

 菊軽は穏やかな口調で言った。

「わかりました。部長」

 菊軽の言葉に安堵したのか、須分は落ち着いた口調で返事した。


「毎日こんな状態が続くんですかね……」

 川鳩がパソコンのキーボードを叩きながらぼやいた。

「たぶんな」

 同様にキーボードを叩きながら重坂が答えた。

「残業時間、やばくないですか?」

「そうだな。四十時間超えそうになったら、石窓さんに相談だ」

「はい」

 36協定という、労働基準法36条に基づく労使協定がある。

 これによると、一ヶ月あたりの時間外労働は四十五時間まで、一年あたりで三百六十時間までである。

 繁忙期を理由に特別条項を付ければ、一ヶ月あたり百時間未満、一年あたりで七百二十時間まで、二ヶ月から六ヶ月の平均は八十時間以内まで、一ヶ月あたり四十五時間を超えるのは年六回まで――という条件で延長できる。

 N社正社員である石窓の指示で働いている重坂と川鳩は、残業時間が四十時間を超えそうになったら、石窓と相談するように言われている。

 理由は言うまでもなく36協定である。



 彼らの残業は終電ギリギリまで続いた。

 最後の社員がオフィスを出て行ったのは、午前零時半頃だった。

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