第13話 桜爛に勝つ

 肩で息をする伊織がふとうしろを振り返る。わずか一メートル背後、コートを囲むフェンスがそびえている。このまま下がっていれば間違いなくフェンスに激突するところだ。

「…………」

 伊織はしばらく呆然と足元に転がったボールを見つめていたが、やがてラケットで二度ほど突き、バウンドさせて拾う。

 それから大神のもとへ歩み寄り、ひどく沈痛な面持ちで、

「────奢りかァ」

 とつぶやいた。

 しかし大神は断った。

 勝負の条件である三十分という時間を越えてからのミスであることと、自分がストップをかけなかった場合に伊織が返球できた可能性がゼロではなかった、という理由である。ふつうならばあれほどボールとフェンスが近ければまず難しいだろうが、この野生児ならばフェンスを足場に返せるかもしれない──と内心でおもっての意見だった。

 彼女は足に巻いたテーピングを荒々しく剥がし、汗だくのためブレザーは手に持つかたちで帰り支度をととのえる。大神が時計を見る。まもなく十八時をまわるところだ。

「あいつらの練習ももう終わるころだな。俺たちもこのまま直帰するぞ」

「あーお腹すいた。惜しかったなァ、あと一歩で今日のご飯もおごり飯やったのに」

「なんだ、味楽でも金払って食ってんのか」

「そんなんちゃうけど。でもほら、味楽で夕飯食べるとなると十割の確率で中華になんねんやんか。おごり飯やったらマクドでもファッキンでもいけたのに」

Fuckinファッキン’──?」

 あまり好ましくねえ店名だな、と大神は眉をしかめた。

 なんでやねん、とすかさず伊織がツッコむ。

「ファーストキッチンの略に決まっとるやろ、もしかして知らんの?」

「どうせジャンクフードだろ。身体によくねえものは摂り入れない家系なんだよ」

「ハァー! アメリカに暮らしとった高校生がナマ言いよるわ、憎たらしい。杉っちとか倉持くんとかといっしょに行かへんの」

「ああ──あいつらはよく行ってる。いつも誘いを断っているから頻度は知らねえが」

「アカン。そういう付き合いは一回行っとくもんやで。みんなで全国優勝っておっきな目標あるならなおさらや! 大阪おったころにな、良くしてもろたおっちゃんたちも言うててん。人間関係の円滑化には呑みニケーションが一番やて。未成年やから、お酒はアカンけどな」

 伊織はコートに一礼し、フェンスの外へ出た。

 気がつけば夕陽は遠くの山間に顔を隠しはじめており、夕暮れを告げるように数羽のカラスが頭上を羽ばたく。あとにつづいてコートを出た大神はめずらしく制服のネクタイをくつろがせ、伊織を見る。

「よくしてもらったって、お前とどういう関係だ」

「親のテニス仲間。愛織が部活で家におらんとき、よういっしょにテニスの練習付き合うてもろてん。基礎から試合の動きまで、うちのテニスはぜんぶ荒っぽいオヤジたちに仕込まれたものなんや」

「なるほどな。どうりで、お前ら姉妹のテニスが違うわけだ」

「なははは!」

 と笑いとばす伊織を横目に、大神は先日おこなった愛織との試合を思い出した。

 たしかに七浦愛織のテニスはうまい。回転のかけ方やストロークの安定性は確実に伊織より勝っているし、コースや相手の心情を読んだゲームメイクも彼女の頭の良さがよく出ていた。が、このわずか三十分のラリーを終えた大神のなかでの結論はひとつだ。

(こいつは──化け物かもしれねえ)

 七浦愛織が言った意味がよくわかる。

 伊織のテニスは、あまりにも自由だった。時にじゃれつき、牙を立て、コロコロと表情を変えるそれは、対戦せずに傍観したとしても目が離せないことだろう。強いかどうかは試合をしてみなければわからない。試合と練習ではメンタルからくる影響が大きく異なるからだ。強さとは、あらゆるプレッシャーのなかで発揮される技術やメンタル、スタミナを総合した結果なのである。

 なんにせよ、大神は確信した。

(こいつと試合をすれば、如月の言った意味が見える)

 全国大会まであと五ヵ月。

 そこへたどり着くためにはまず、今月末におこなわれる県大会と一月開催の関東大会を突破する必要がある。その関東大会には──まちがいなくあの桜爛も出場するだろう。

 大神はちらと伊織を見た。

「おい」

「んぇ」

 とぼけた顔で彼女は大神を振り返る。

「俺と試合しろ」

「え?!」

 瞬間、その顔色が曇った。

 やはり彼女は『試合』というワードに拒絶反応を示している。まったく、テニスのなにが楽しいって試合でのやりとりが至上であろうに。ましてあれほどの腕を持っていればなおさらだ。

 伊織は首を振りながらゆっくりと後ずさる。

「い、イヤや」

「負けるのが怖ェのか」

「そんなんちゃう。だ、ダブルスやったらええで」

「シングルスに決まってんだろ。……だがまあ、まだいい。飯で釣って試合を強要させるのは簡単だともおもったが、そうしたところで愛織に対するように手加減されちゃかなわねえしな」

「手加減?」

 だれが、と言いかけた伊織のくちびるに大神が指を立てる。

 

「──俺は桜爛に勝つ」


 大神は前を見据えた。

 伊織がハッと口をつぐむ。

「そのためには、テメーと試合しなきゃいけねえらしい」

「……如月が言うたってやつやな」

「初めはそうだった。が、いまはちがう。俺自身が、俺のためにテメーと試合をやりてえんだよ」

「…………」

「だからまあ、これから俺が、テメーが自然と試合したいと思えるように仕上げてやる。じっくりとな」

「し、仕上げるて」

「ククク、才徳テニス部は楽しいぜ。いずれはテメーの口から試合させてくれと言わせてやる。そして──テメーとの試合を俺の糧として、桜爛に、全国に勝ってやる」

 大神はにやりと笑い、ふたたび歩き出す。

 沈みゆく夕陽が煌々とその背を赤く染めた。凛と伸びた背筋と、勝利への覚悟を背負うそのすがたがとても美しくて、おもわず伊織は閉口した。

 全国大会まで、あと五ヵ月。

 切符を手にするための予選試合まで、あと二週間──。

 

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