3章 13話 板付
雪など初めから降ってはいなかったと思わせるほどの快晴の中、ぬかるむ地面を走っていると、多田篠公園の池に架かる橋に辿り着いた。
ケイが住む屋敷はこの橋を渡った先の森の中。目的地はすぐそこだ。
そう喜んではいられない。何故なら怪しすぎるほどに人が多すぎるからだ。どこから現れたのか前後左右、勿論橋の上も人で溢れかえっている。
祭りでもあったかのようだ。
それでも進むしかない。
そうしないと犠牲に意味が無くなる。
そうしないと犠牲を何度も繰り返す事になる。
人混みをかき分けながら橋を渡っていると、何かを頭に被せられた。
それは帽子だった。
「始まったか」
すると前方の人混みが僅かに開け、その間から男が糸で纏められた数本の竹の棒を持って現れた。
男が急ぎ足で近づいてくると、糸が外れて竹がしなり、帽子を弾き飛ばした。
「ご、ごめんなせえ。事故なんだ。許してくれ」
男は無駄のない動きで両手両膝を地面につけると頭を下げる。
もはや自然な導入など考えていないらしい。
敵の狙いに検討はつく。これは落語の『たがや』だ。回避するには無視をするしかない。
「無礼者!」
声が聞こえた方を見ると、その主は品川だ。
やっぱりか。
口を塞ごうと手を伸ばすよりも早く、男が『たがや』を進めようと口を開く。
「家には両親が待っているんだ。腹を空かせているんだ。手討だけは勘弁してくれ」
「許してやれよ」「悪気があったわけじゃねえだろ」「度量が小せえ野郎だな」
周囲から次々と声が上がる。矛先は俺達だ。群衆の声に押されて男が立ち上がる。
「これだけ謝っているんだ。許してくれてもいいだろうが。血も涙もねえ野郎だな。斬りたければ斬ればいいさ。やってみろってんだ。さあ、来いよ。首を斬るか? それともケツから斬るか? ほれ斬ってみろよ」
男は開き直って啖呵を切った。
『たがや』は俺が何もしていないのに次から次へと進んでいく。
ならば次に動くのは……、品川だ。
品川はどこから持ってきたのか、刀を抜いて男に斬りかかろうとすると、男は品川の腕に噛みついた。
「痛い」と声を上げた品川の手から刀が落ちると、男はその刀を拾い上げた。
「危ない! 委員長」
浦島が俺を庇うように前に出ると、男は橋の上に這いつくばったかと思うと、顔を上げてニヤリと笑い、刀を振り上げる。
刀は浦島の腹を裂いた。
血飛沫が周囲を赤く染め、そこに浦島が倒れ込み、動かなくなった。
これで3人目だ。
「やはりお前もグルだったのか。品川……」
品川を睨み付けると、「すまないねえ。委員長」とだけ言って顔を背けた。睨み続けても仕方が無いから、再び男を見る。
「これは落語の『たがや』だな。後は武士に見立てた俺の首を飛ばすだけ。俺の負けか」
「その通りだ。我々の、勝利だ。人間風情に苦労させられた」
男の表情は勝利への確信に満ちている。実際にその通りであり、『たがや』をひっくり返して終わらせる手段は無い。
それにフューレも安長も浦島も犠牲になった。
「最後に聞かせてくれないか」
「冥途の土産を持たせる意味を感じられないな。加えてどうして俺が話をしてやらねばならない」
「意味ならあるさ。この世界には幽霊がいる。後悔を残した者が幽霊になりやすいのなら、何も知らずに死んでいく俺の後悔はきっと幽霊にしてくれる。
幽霊にしっかりとした意識があるのかは知らないけど、お前達にとって幽霊の俺は邪魔じゃないのか?」
「一理ある。まあ、いいだろう。俺はそこまでケチじゃないし、気分が良い。戯言に付き合ってやるのも一興か。何が聞きたい?」
「お前達は落語から生まれた存在なのだろ。そんな存在に俺が狙われた理由を知りたい。俺が何をしたって言うんだ。平和に3年間を過ごしたいだけだったのに」
「貴様は世界を繋ぐ特異点になっているからだ。
貴様が言うように我々は落語という崇高な文化が、落語家や素人によって研究され、披露された結果生まれた存在だ。
だから文化そのものであり神聖な存在なんだ。文化に雑多はいらない。今を残すのが文化を守るという事。
山の頂は知性の無い者が触れるべきではないのだ。我々はそれを守る責任と、それが出来ると言う自負がある。
興味もない奴に間を取り持たれて、興味の無い奴らが我々の領域に入るのは文化を壊す事になる」
選民意識というやつか。
どうやらこいつの所属する世界、いや組織には自分達が数ある者の中で上位だという思いが強いのだろう。
「お前達の世界では、全員がそう思っているのか?」
「くだらないままごと的発想を持つ者もいる。だが我々には逆らえない絶対の思いと力がある。この品川もそちらの者達との繋がりが危惧されていたが、今回の事でその疑惑が払拭されただろう。
良くやってくれた」
男は品川の肩に手を置くと、品川は苦笑いを浮かべた。
どうやら品川は完全にはあちら側、という訳では無さそうだ。それならば安心した。
「お前達は文化から生まれた者達なのだろ。文化は愛されるからこそ、愛されようと努力するからこそ残っている。
相互関係で成り立っているのに、片方の自尊心が強すぎると閉じた文化となって遅かれ早かれ消滅する」
「人間的発想そのものだ。文化に生かせてもらっているのなら、文化を尊重し敬うのは当たり前だ。そこに文化を守る意思が無い者が触れるのは、分を弁えていないと言わざるを得ないな」
「同じままで先に進められるわけはない。今更原始の生活には戻れない」
「先に進める必要などない。文化はその最善の状態を後世に残すものだ」
「今がその最善だと言うのか」
「その通りだ。革新は進退窮まる者が取る術。我々はそのような状況になるほど脆弱な文化ではない」
「革新なんて強い言葉を使う必要は無い。俺は歩み寄るべきだと言っているんだ」
「歩み寄るだって? 文化が最善から薄れてしまうだろ。まったく。これだから話を理解していない部外者と付き合うのは疲れるんだ。黙って文化を敬えばいいのだ」
「お前達の文化は、大衆の文化だろ。そんなに踏ん反り返って、大衆の目が向かなくなったら終わりじゃないのか。
閉じた世界に籠って消えていった文化は、過去に幾らでもある」
「下らない。大衆は我々から目を背けない」
話が通じる気がしない。少しでも理解をしようと、話し合いをした俺が馬鹿だったようだ。
「品川は閉じた世界にいて楽しいのか。この世界が楽しいと言ったのは嘘だったのか」
「あたしは居心地の良い場所に留まるだけ。
きつい言葉になりますが、この騒動を納められない委員長のもとに留まった先にあたしの安寧は無いでしょう。
だからあたしは残念に思っているっつう事しか言えないねえ」
力が無ければ、ただ縮小するだけの世界であっても住み続けならければならない。俺は品川に試されていたようだ。
これだからあのクラスは嫌なんだ。常に試されているような視線がある。俺はただの高校生だぞ。
ここで負けてやれば楽をできる。
そうしたいところだけど、頼られてもいるから出来る限りで頑張りたい。
それに死ぬのは嫌だしな。
「それならば力を見せてやるよ。鞍馬! 出番だ」
俺が叫ぶと同時に強風が吹き抜け、橋の下から羽団扇を持った着物姿の鞍馬が姿を見せた。そこにいた全員の視線が鞍馬に向くよりも早く、鞍馬は俺を空中に掴み上げた事で、男が刀を動かす間すら無かった。
「冷や冷やさせられました。もう少し余裕を持った戦いをしてほしいものだ。僕にも将来設計があり、委員長がいる前提の商売を考えている。それが無駄になってしまう」
「鞍馬はいつも通りだな。こんなピンチな時でも金の事ばかりだ」
「流石の僕でも絶体絶命の場面ならば、金稼ぎの順位を下げるさ。今はその時ではないと判断した」
「それもそうだな」
下を見ると刀を持った男が俺に向かって石を投げながら、何かを叫んでいるようだが気にしてやる必要は無い。
「鞍馬、さっそくだけど頼んだ」
「了解しました」
鞍馬は俺を掴んだまま飛んでいき、山の頂上で降ろした。
「ありがとう。空を飛ぶのがこんなに気持ちの良いとはな。俺も空を飛べるようになりたいよ」
「委員長が望めば、妖怪にはいつでもなれる」
「遠慮しておく」
「そうあってもらわないと困る。それでは手筈通りに進め。少し痛いけど我慢してくれ」
「慣れたさ」
鞍馬は襟元から1枚の紙を取り出す。
「夫婦の如きフューレにも言わなかった夢の内容を聞かせてくれ」
「俺は夢を見ていない」
「嘘をつくな。天狗を侮れば八つ裂きにするぞ」
「俺は何も見ていないんだ」
「ならば八つ裂きにしてやる」
鞍馬は右腕を上げると、その指の爪が鋭く伸びた。
「覚悟しろ」
鞍馬は腕を突き出して、俺の胸に爪を差し込んだ。
尋常ではない痛みで声すら出せない。そして血が溢れ出ていく。次第に視界がぼやけていき、意識が途切れた。
―――――――――――――――
目を開けると胸の痛みはすっかり消えている。背中には冷たい感触がある。俺は堅い何かの上で寝かされているようだ。
いや、この感触は知っている。そしてこの場面、夜空に輝く4つの星。覚えている。
「目が覚めたんだね。よく眠れた?」
頭の上から声が聞こえる。そこには俺を見下ろすフューレの優しい顔があった。
「爆睡だった。だから授業の疲れが取れた」
「そうだろうね。委員長の寝顔はとても楽しそうだったからね。ところでどんな夢を見ていたんだい?」
「何の夢も見ていない。目を閉じてから気が付いたら今だった。と言う約束だったけど、事が済んだから教えるよ。今から現れる敵と、その手段を」
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