5、太陽の影




「……ふふ、そう警戒しないでくれ鮮花」


穏やかな男の人の声に背中がぞくりと泡立った。


ベトニアチェルの茨の隙間から顔を出すと、昨日の畏まったような聖衣とは違う、ラフな白い服に身を包んだ聖王がそこにいた。

その濃緑の瞳と目が合うと、聖王は私にゆったりとした笑みを向けて気さくに手を振ってくる。


「……聖王様?」

「やあ、昨日ぶりだね。花枝 マリア」


聖王は穏やかに微笑みながら私の名を呼んでくれた。

だけど思考は混乱し、心中はぞわぞわと穏やかではいられない。私はとっさにお辞儀をするふりをして彼から目を逸らす。

何故か目を合わせてはいけない気がした。


「おやおや、そう畏まらないでよ。今日は私、オフなんだからさ」


聖王はゆったりとした服の裾を広げて無害を装ってみせた。しかしどうにも気に食わないベトニアチェルが余計に苛立ちを強めて聖王に向かって咲き誇る。


『休日にまで自ら監視とは感心なことですね。せっかく警戒してもらったところ悪いですが、ここに面白いものなどありません。安心して教会で祈りでも捧げていらっしゃいな』


ベトニアチェルは聖王を皮肉交じりに追い返そうとする。しかし彼はその皮肉も何もないように飄々とこちらに向かってきた。


「鮮花。私は君の大切なお昼を邪魔しに来た訳じゃない。私のことは気にせず、さっきみたいに伸び伸びとしていてもらって構わないよ」

『結構です。あなたが居るとせっかくの晴れ間も翳ります。立ち去りなさい』


ベトニアチェルの剣幕に反して聖王は青い空を見上げてのほほんとしている。


「大丈夫、曇りはしないさ。実は私は太陽王とも呼ばれていてね。晴れ男として自信はあるんだがーー」

『あなたが居ると私の心が大嵐なんです! いっそ頭の芯から能天気にして差し上げましょうか』


不穏めいた文句を吐きながらベトニアチェルは伸び上がり臨戦態勢に入ろうとしている。

これは、一触即発の雰囲気!


「ベート、待って待って! そんなことしたらダメだから!」


私は聖王に向かって何か噴き出さんとしているベトニアチェルを両手で抑え込む。


『おどきなさい、マリア! 』

「だって、どいたら暴れるでしょ!」


じたばたとのたうち回るベトニアチェルと私を見て聖王があからさまに困ったような顔を向ける。


「やれやれ、鮮花は物騒だね。じゃあマリア、連れない鮮花は放っておいて、私と一緒に昼休みを過ごしてくれないかい?」

「へぁ?」


聖王の唐突の申し出に素っ頓狂な声が出た。

光栄……というより困惑の方が先に立つ。

ベトニアチェルもこの調子だし、どうにかしてお断りしたいのだけど、断るなんて選択肢があるのだろうか。

私が「あうあう」と口ごもっていると、ベトニアチェルが私を後ろに引っ込めた。


『身分を弁えなさいな。仮に王と呼ばれるものが一般生徒と一緒にお昼だなんて迷惑でしょう。私のマリアをそんな無作法に付き合わせないで下さい』

「残念ながら、私は格差撤廃を掲げていてそういう時代錯誤な思想は持ち合わせていないんだよ。それに学生の昼休みに教師が一緒に居るのなら私だって構わないだろう」


聖王は敬礼を保ったままの雨宮先生を顎で指した。

しかし聖王のその態度が気に入らなかったのか、ベトニアチェルは茨の棘に鋭さを込めて本気で苛つき始めた。


『いい加減にしなさいな。率直に目障りだと言わなくては分からないのでーー』

「べ、ベートそんなに怒らないで、落ち着いてよ。聖王様も、ご用件があるなら伺いますからベートを煽らないでください」


加熱していく二人の応酬に耐え切れなくなった私はベトニアチェルの茨を抱き留めながら聖王に頼み込む。

すると聖王はやれやれと両手を広げてみせた。


「煽るなんて、そんなつもりはなかったんだよマリア。私はただ昨日の非礼を謝りに来たんだから」

「昨日の、非礼ですか?」

「そう。ジョージが無礼を働いたことや、色々と怖い思いをさせただろう。私たちは君を害したい訳じゃないと示したくてね」


聖王は申し訳ないとばかりに顔を伏せる。


「怖かったです。けど、ベートも居てくれたし、結果的に何もなかったから、大丈夫です」

「そうかい? 君がそう言ってくれるなら良かった。だけど今日どうしても謝っておきたかったんだ。ジョージにも今度謝りに行くように言っておくから」

「そ、そんな、結構です」


私が必死に手を振ってお断りすると聖王はくすりと笑った。そして聖王は未だにいきり立つベトニアチェルにちらりと視線を向けると「さてと」と話を切り出した。


「本当は鮮花とも話がしたかったのだけど機嫌を損ねてしまったからね。今日は挨拶だけ。また来るからその時はぜひ相手をしておくれ」

『ええ、その時は全力でお相手いたしましょう。死にたくなければ二度と現れないでくださ――』

「ちょ、ベートっ! あー聖王様、お気遣いありがとうございました」


私がベトニアチェルを遮って無理矢理に話を終わらせようとすると聖王は困ったような表情で笑ってみせた。


「君は元気だね。次は聖王なんて堅苦しい役職名じゃなくて気軽にアルと呼んでくれ」

「え、ええっ。それは……無理です」

「はは、是非そう呼んでおくれよ。じゃあもう行くね」


聖王はお辞儀をする私の髪を梳くようにして頭を撫で「またね」と手を振って去って行った。

突然のことでびっくりしたが、私は「ははぁ!」とかしこまりながら深々と頭を下げて彼を見送った。



……そしてしばらくの後。

緊張を解いた私と雨宮先生は同時に「ぶはあ」と息を吐くと、ベンチにどっかりと腰を下ろした。


「はぁあー、びっっくりした!」

「俺もだよ! 花枝お前、鮮花に聖王って、どんだけ大層なご友人拵えるつもりだ」

「それは全て不可抗力です、って、わあっ」


威嚇するように繁っていたベトニアチェルがどさりと私の頭めがけて落ちてきた。


『ああマリア。私、あの男が大っ嫌いです。思い出すだけでぞっとする。生理的に無理です!』


泣き言を言いながらぐりぐりと花弁を押し付けてくる様子はまるで駄々っ子だ。


「ベート、重い重いって。大丈夫、聖王様は忙しい人だから、きっともう来ないって」

『いいえ、絶対来ますもん、奴は何故かマリアに一方ならぬ興味を持っているようですし、今日来た目的だって果たしていませんし』

「謝りたかっただけって言ってたよ。もう用事はまた来るなんて社交辞令だよ」


嫌々と花を振り乱すベトニアチェルを宥めていると、雨宮先生も望み薄だと首を振る。


「いやあ、俺も鮮花と同じ意見だな。鮮花が警戒したらすぐに話題を変えたように見えたし、たぶん本題は……」

『契約でしょうね。あー嫌らしい、だいたい言わんとすることは分かっています。でもあんな奴と契約なんて散っても嫌、枯れたって嫌です!』


ベトニアチェルは断固として否と叫び、わんわん泣き喚きながら私にべったりと凭れてくる。

私はちょっと湿った花弁を撫でてやりながら、雨宮先生にどうしたものか相談した。


「先生、あのベートがこんな言ってますけど、私どうしたらいいですか?」

「どうって言ってもな、どうやってもあちらの方が役者は上だし。鮮花の言うようにいざ契約なんてことになったら、お前は黙ってた方が上手くいくかもしれんな……まあ、こんなに嫌がってるが」


雨宮先生はベトニアチェルの泣きじゃくる姿を困ったように眺めながら言った。

しばらく花に潰されていると、ベトニアチェルは何かを決意したように私から自立し、すんと背筋を伸ばす。


『決めました。あの生意気な小僧、私に契約を持ち掛けてこようものなら地雷をこれでもかと仕掛けてあげましょう』

「な、何するつもり? 物騒なことはやめてね」

「あー俺は知らんぞ。鮮花が突っ走らないようにちゃんと手綱を引いておけよ」

「そんなぁ、無理だよー」


そうして話は一段落。

私は雨宮先生とベトニアチェルの意味不明な会話を眺めつつ、残っていたサンドウィッチを詰め込んだ。

最初に食べたときはあんなに美味しかったのに、まだ緊張してるのか、味なんてちっとも感じなかった。

ココアも冷めてほっと一息出来ないまま食事は終了。



そして昼休み終了の予鈴が鳴り、私たちは教室へと戻っていった。







<<


花枝 マリアと鮮花のもとを離れてしばらく。

聖王は日当たりの良い芝生の庭から校舎裏の渡り廊下を一人で歩いていた。


かつ、かつ、と一人分の足音が静かな廊下にこだまする。


昼休みだというのに渡り廊下には生徒の姿が見当たらない。

恐らく誰かが気を利かせて人払いをしているのだろう。


異様に静まり返った渡り廊下の先。

遠くから注がれている護衛の視線。

聖王はあからさまに「はぁ、」と溜息を落とす。


「せっかくのオフなのにな……」


その呟きは誰の耳にも届かずに消えていく。

聖王はふと立ち止まると自分の足元を眺める。

日陰でぼんやりと広がる虚な影、その曖昧な輪郭がざわりと蠢いた。


「ああ、もう出て来ていいよ」


聖王が足元の影に向かって声をかけた瞬間、足元の影がぞわぞわと濃度を増した。そしてスッと四方に分かれるとむくりと人の形をとって現れる。

顔のない四つの影は聖王に深々と頭を下げて片膝を付く。


『アル様、お怪我はありませんか!?』


顔のない四つの影のうち、左の影が心配そうに聖王を見上げた。

しかし聖王は心配する人影に何の興味もないかのように廊下の先を眺めている。


「見ていたのなら分かるだろう。左袒の妹(ゴーシェ)」

『そ、そうですよね。私ったら、つい。申し訳ありません』


ゴーシェと呼ばれた左側の影は肩を窄めて恐縮しながら地面に張り付いてしまった。

すると前方の影がその様子を見てけたけたと笑う。


『あはは、ゴーシェ、あんたってほーんと不器用よね。アルがあんな雑草に遅れを取るわけないじゃない。ねえ、主の右腕(デストラ)だってそう思うでしょ?』


前方の影が右側の影に問いかける。


『ん? 俺か? そうだな、あんな立派な鮮花を見るのは初めてだったが、俺たちなら勝てるだろう! な、後見の兄(ナザード)』


快活そうな右の影が後ろの影に同意を求めて振り返る。すると後ろの影は静かに首を振った。


『お前ら、あの鮮花をなめすぎだ。あれはまだ本来の姿じゃない。鮮花が力を取り戻せば我らでも倒すのが難しいことくらい無前の姉(ヴォール)、お前だって分かっているだろう?』

『分かってるわよ! ナザードって本当にあーだこーだ後ろ向き発言しかしないんだから』

『俺は前向きだ。いつも後ろを向いているのはヴォール、お前の方だろう」

『おっ、ナザード。いま上手いこと言ったな!』

『なあっ! デストラまでそういう事言っちゃうの? いっつも後ろ向いてる根暗はゴーシェの方でしょう!』


前の影から飛び火をもらった左の影が弾かれるように地面から飛び上がってきた。


『え、ええっ、私、まだ根暗ですか? そんな、ヴォールとデストラの影響でだいぶ明るくなったと思うんですけど』

『二人の陰湿な明るさを見習ってもな……。第一、俺たちは影なんだから明るく在る必要はないと思うが』

『はぁ、陰気クサいこと言わないでよナザード。あー、その発言で頭にカビ生えそう』

『影にカビは生えない!』

『ですが、生えたら面白いですね。ふふ、いつか後ろからこっそりと実験してみましょう』

『壮大な陰謀論だな』

『あり得ない。絶ッ対にやめてよね。ゴーシェ、あんたマジで陰険だわ』


静かな廊下で四つの影がわあわあぎゃあぎゃあと陰口を叩き合う。

その中心に立つ聖王は特に話に混じる事も無く自身の手のひらを眺めていた。


その手には一本の亜麻色の髪の毛。

聖王は懐からかさりと白い紙を取り出すと、その髪の毛を挟んで何かを折り始めた。

そして出来上がったのは紙飛行機。


聖王は紙飛行機を空に向かってすうっと飛ばす。

それは風と重力に逆らってどこかへと飛んでいった。


「……さて、」


と、聖王は一区切り済んだ様子を見せる。

しかし四つの影は未だにぎゃあぎゃあと影を踏み合ったり殴り合っている。

聖王はやれやれと呆れたような顔でパンパンと手を叩いた。


「無前の姉(ヴォール)、主の右腕(デストラ)、左袒の妹(ゴーシェ)、後見の兄(ナザード)。お喋りはそれくらいにしてくれないか」


優しくも緊張感のある声。

四つの影ははっとして聖王に注目した。

が、空気の読めていない右の影が聖王の肩に寄りかかって話の続きに引き込もうとする。


『なあアル! アルはこの中で影が薄いのは誰だと思う?』

「誰が一番なんてないよデストラ。君たちの影が濃いも薄いも私次第だ」

『ああ、そうだな!』

「それより、もう次の仕事に行く時間だ。みんな準備をしてくれ」


聖王の言葉に前の影がうーんと退屈そうな伸びをする。


『えー、もうそんな時間なの? でも早く行かなきゃジジイがキレるわね』

『私、あの人は嫌いです。何か話す度に唾が飛んでくるもの』

『俺もあいつは気に食わないな! 俺たちより存在感に影がある!』

『確かに気味の悪い老人だが、邪険にするな。ああ見えてこの国の陰の功労者だ』

『でもウザいし』『気持ち悪いです』『面倒だな!』


影たちは再びわいわいと愚痴を言い始めた。

四つの影は仲が良いのか悪いのか、聖王はやれやれと首を振る。


「いい加減にしてくれ」


彼がパチンと指を弾くと周囲に眩い閃光がいくつも弾けて四つの影を消し去った。『きゃっ!』『うおっ!』という悲鳴も影と共に消えてしまう。


そしてしばらくの後、

やがて光が弱まると足元に縮こまっていた影がカタツムリのようににゅっと姿を表した。


『こら! 眩しいぞアル!』

『アルハーゼン、それはやめてくれと言っただろう』


右と後ろの影が物申す。

しかし聖王は腕を組み浅い溜息を落とした。


「はぁ、君たちがどうにもお喋りだからだよ。早く支度をしてくれ」

『でもいいの? 影送りなんてしたらまた護衛たちが慌てちゃうわよ?』

「付いて来れない者は置いていくだけだ。それにこんな面倒事、私は早く終わらせたい」


前の影の憂慮も聞かずに組んだ腕を指でとんとん叩きながら影たちを急かす聖王。

後ろの影が聖王と同じ体勢を真似ながら溜息を落とす。


『はぁ、アルハーゼン。お前は大人になっても子供だな。……まぁいい。お前たち、影送り、籠目の術式、行き先は舎密(セイミ)局。準備はいいか?』


『はぁーい』『分かりました』『了解した!』


後ろの影の指示で影たちは手を繋ぎ、聖王の周りを囲むように回り始める。


『『籠目、籠目、翳の鳥……』』


すると聖王の足元がじわりと陰り、その姿がズブズブと沈み始めた。

やがて聖王の姿が頭まで地面の影に溶けていく。


『後ろの正面……』


渦巻く影も薄まって詠唱の声も遠くなる。

そして人影は影も形も無くなって、廊下は再びしんとした静けさに包まれていった。


 



ーー


陰鬱とした林の中にのさばる一軒の建物。

増改築を繰り返したのか、継ぎ接ぎの壁は新旧劣化の次第も様々に林の風景に奇妙な彩りを添えていた。


その建物の近くに生える細い胡桃の樹が風もないのにざわりと揺らめく。


すると樹の根本から黒い影がゆらりと立ち上り、それはぼこぼこと泡立つように影が湧き立つと、そこから聖王が姿を現した。


『『だーれだ』』


『やったぁ! 今日は私が後ろの正面です!』

『またゴーシェ? 幸薄いあんたがここで運使ってどうするの』

『ゴーシェ良かったな! ヴォールはこれで十連敗だ』

『うっさいわよ!』


影たちが騒ぐ中、聖王は目を瞑ったままその場に立っていた。

後ろの影が聖王の肩をトントンと叩く。


『おい、着いたぞアルハーゼン』

「ん、ああ。ナザードか。ありがとう」

『お前、大丈夫か?』

「心配ないよ、ただ目が眩んだだけだから」


聖王は気を取り直して雑草の生い茂った藪を歩き出した。後ろの影は『そうか……』と心配そうに後をついて行く。


聖王はどこが表口かも分からないような壁から迷わず扉を見出す。

サビの浮いた扉には掠れた文字で【舎密(セイミ)局】と書かれている。


広大な退魔学園の敷地にひっそりと建てられているこの舎密(セイミ)局、ここは大戦以前から存在する魔道化学の粋が集まる国家研究所の一つだ。

表向きは公開用に小奇麗な実験を行って見せてはいるが、一歩陰に入れば常軌を逸した非人道的な実験が行われている。

その影の部分を担うのがこの辺鄙な場所に建てられた舎密(セイミ)局だ。


ドアベルの代わりにギキキギキと不気味な音を立てて開く扉。

聖王は薄暗い舎密(セイミ)局の中へと入っていく。


狭い廊下に緑の間接照明、ヒヤリとした空気と消毒のにおい。徐に明るくなったかと思えば何の実験中だったのか、作業台には置き去りの目玉がこちらを向いていた。


『ひぃっ! 嫌だ、目がこっち見てます』

『あーキモっ、ここはいつ来ても気色悪いわね』


女性陣の反感を聞きながら聖王は勝手知ったる研究所内を進んでいく。


そしてたどり着いた応接間。

普通の応接間といえば熱帯魚の水槽だろうが、ここに置かれているのは実験体が漂う水槽。

クラゲのような手のひら、髪の毛のような海藻、目が泳ぎ、ガラスに唇が張り付いている。

かなり衝撃的な内容に影達が真っ青に青褪めていく。


『気味が悪いな!』

『マジで趣味が悪いわ』

『趣味だとしたらタチが悪い』

『私、具合が悪くなってきました』


口々に悪評を並べながら影達は水槽の周りであーだこーだとはしゃいでいる。

聖王は内装にあまり興味がないのか、ソファに腰を下ろしながら影たちの批評を聞き流していた。


しかし、いつまで経っても部屋の主が現れない。

いつしか聖王も横目で水槽の中で蠢く得体の知れない肉塊たちを眺めていた時、応接間の扉がギイっと軋みを上げ、年老いた研究員が応接間に入ってきた。


「さっきから聞いておれば、この頭の悪い影どもめ! 私の芸術を馬鹿にするなよ!」


入って来たのは腰の曲がった白衣の老人。

挨拶代わりの一喝に飛び散った唾が左の影の上にペチャっと落ちた。


『ひいっ! また私の影に唾がぁぁ』

『うわ汚っ、私に近づかないでよねゴーシェ、ってコラァ!』

『ご愁傷様だなヴォール!』

『落ち着け、俺たちは影だからツバは付かな……うわっ、やめろ、穢れる!』


影たちの子供じみた行動に聖王はやれやれと立ち上がるとパチンと指を弾いて影たちを足元に集めた。

一気に静かになった応接間に聖王の溜息が落ちる。


「はぁ、遅いぞ。あまり待たせるな」

「おお、太陽の御子 アルハーゼン聖王猊下。これは失礼を、ちと手が離せなかったものでな」


白衣の老人は聖王に仰々しい礼をすると黄ばんだ歯を見せてニヤリと笑った。

聖王は老人から目を逸らしながらソファに座り直す。


「それで、結果はどうだったんだ?」


話を進めようとする聖王の向かいに腰掛けた老人は聖王を見て目を細めた。


「王よ、そう事を急ぐでない。久々にいらしたのだから、もう少し儂と積もる話しでも……」

「生憎、私には時間がなくてな。簡潔に済ましてくれ」


聖王の素気無い言葉に老人は前のめりの背筋を丸め、ぼさぼさの白い眉尻を下げた。

そして落胆の息と共に研究者として顔を上げる。


「はい、猊下の睨んだ通り、あの娘は鬼東キアズマで間違いありません』


しゃがれ声の老人が検査結果を示す書類を聖王に手渡しながら再び頭を垂れる。


「……へえ、本当にいたんだね」


聖王は花枝 マリアの検査結果を流し読むと、軽く吹き出しながらそれを老人に返す。


「ふふ、でもそれなら納得できるよ」

「はい、私も初めての結果に驚いております。滅そうとすれば種は淘汰に抗うものなのでしょうな」


二人が委細承知の顔で話を進めていると、聖王の足元からもぞりと小さな影が這い出してきた。


『……あの、アル様。そのキアズマとは何なのですか?』

鬼東キアズマは、大戦の時代に人間が造った魔性の血統のことだよ」

『魔性の血統ですか?』


聖王は右手で小さなゴーシェの影を拾い上げると機嫌良さげに話しかける。


「かつて、東の人種は悪魔と親しむと言われていてね。その性質に着目して交配を重ねた結果、優秀な調伏師を輩出するようになったんだ。大戦中は大きな功績を上げたけど、大戦後は反逆を恐れて全て廃棄した。……はずなんだけどね」

『何それ、人間ってエグいことするわよね』

『よく生きていたな!』


いつの間にか聖王の膝の上に乗っていたのはヴォールとデストラの小さい影。

聖王は右手に乗せていたゴーシェの影を膝に降ろすと老人の方へと視線を戻す。


「それでは、彼女の両親もその可能性が?」

「いえ、キアズマは超劣性遺伝であるため、数代に一度発現するかしないかというものです。百年前までは誰もがキアズマの検査を受けていましたが、数百年ものあいだ陽性の報告はなく打ち切りに。恐らく花枝 マリアは何らかの理由で発現に至ったのではないかと」

「ふうん、何かって何だろうね」

『化学反応だな!』

『万病の元はストレスからですよ』

『単純に隔世遺伝じゃないの?』

『変身だ!』『苦労したんですよ』『突然変異よ!』


「……で、どうなんだい?」


聖王は楽しそうな影たちを眺めながら老人へ質問を投げる。老人は真剣に思案している。


「ふうむ、詳細は分かりかねます。遺伝子変異のきっかけとしては肉体的、精神的な軋轢が原因となることが考えられますな。先天的か後天的なことすら分かりませんが、彼女は魔徐科の生徒ですし案外鮮花との契約が発端となったのかもしれませんなぁ」


老人が黄ばんだ歯を見せて笑うと聖王はふと笑みを消した。


「それにしても、人類が初めて手に入れた鮮花があの……しかもキアズマとは。ふひっ、ぜひ舎密局にいらして欲しいものですな」


そう言うと老人は気味の悪い笑い声を漏らす。

聖王はわずかに顔を顰め、場を切り上げるように立ち上がる。

膝からころりと影たちが落ちて足元の影に収まった。

出口の方へと向かう。


「ありがとう、おかげで調べることが増えたみたいだ。ああ、見送りは結構だよ」

「もう行かれるので? 猊下直々に動かずとも、代わりに調べる者は山ほど居りますでしょうに、何なら私めが……」


追い縋ろうとする老人を置いて聖王は応接間の扉を開ける。

そして付いて来るなとばかりに振り返ると視線で老人を縫い止めた。


「結構だ。……実は彼女自身にも興味があるんだ。自分で調べたい」

「それはそれは」


老人は心得たように笑いながら大仰に礼を取る。


「何か分かれば情報を送るから。研究の足しにでもなればいいけど」

「お心遣い痛み入ります。図々しいですが、もし娘と鮮花に飽きましたら私めにお譲りいただけるとふひひ、有難いです」


(ああ、嫌だなあ)


老人の下卑いた笑いにどうしようもない嫌気を感じながら聖王は作り笑いを浮かべる。

そして老人に背を向けると応接間の扉を音もなく閉め切った。


「……飽きたら、ね」


そして彼は狂気に染まった舎密局を出ていった。

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