第39話 恋人のフリ

 透は葵に紹介した弁護士から連絡を受けた。1日だけ、新しい恋人のふりをしてほしいと、葵から頼まれたという。そうすれば、一度透に追い払われている元夫は、葵を諦めるのではないかと言うのだ。他に知り合いもいないし、クラブの関係者には、弱みを握られたくない、と言うのが葵の言い分だった。

 透の元同級生の弁護士は恐妻家で、とてもそんな依頼を引き受けるわけにはいかないと、勝手に透のアドレスを葵に教えてしまった。


 透は、なんだか胡散臭い話だとは思ったが、子供の為に今の仕事を続けなければならず、それを元夫が邪魔をするので、収入が不安定になってしまい、家賃が払えなくなってしまって困ると、葵からラインで泣きつかれ、仕方なく引き受ける事にした。元夫がストーカーのように、ずっと付き纏ってくるのだという。赤ん坊だった匠が泣いているのに気づいて、家に連れ帰った透としては、子供が辛い目に合うと思うと、見捨てておけなかった。


 透は葵に指定された居酒屋で待ち合せをし、中に入った。見回すと確かに隅の目立たない席に、葵を引っ張っていた男がいた。男には聞こえないように、透は葵の子供の話や、仕事の話を聞きながらしばらく、酔わないようにノンアルコールのビールを飲みつつ、食事をした。葵は職業柄、アルコールに強いのか、相当飲んでいる。透は葵の話を聞いていて、子供に対する思いが希薄だと感じた。ただ、世の中には子供にあまり関心が無い親がいる事も、学校関係者の間ではよく聞く話だった為、そういう人なのだと思った。むしろ、関心があまりなくても、育てていこうとするだけ、放置するよりも、まだしも救われるかと思い直した。


 葵は透にこの後、一緒にホテルに行ってほしいと言い出した。透が断ると、元夫に後をつけさせて、そう言う仲だと思わせればそれでいいと言う。元夫は気の小さい男だから、この間、透に腕を捻りあげられ、その人物が葵の相手であれば、もう手出しはしてこないだろうと言うのだ。一理あると思ったが、透はレイラに愛ではないが、忠誠を誓っている。

「ここで、もう葵さんに手を出すなと、言ったらどうだろう?」

「それでは、人に頼んだだけだと思われてしまうからダメです。既成事実を突きつけないと。お願いです。一緒に行ってくれるだけでいいんです」

透は仕方なく、引き受けることにした。ここは学校からも離れているし、目撃される事もないだろうと透は考えた。このあいだから、何かというと知人に目撃されている為、それが心配だった。人助けであり、レイラを裏切るようなことは何もない、と透は自分に言い聞かせた。人助けのはずなのに嫌な気分だった。透はレイラが悲しむような事は、何一つしたくは無かった。


 店を出ると、葵が腕を組んできた。透はレイラと腕を組んだ時は、それだけで身体中が温かくなり、軽くなったのだが、なんとなく、組まれた腕が重いような気がした。透がチラッと葵を見ると、心なしか嬉しそうだ。跡をつけられやすいように、ゆっくり歩く。そっと後ろを見ると、さっと隠れる男が目に入った。行動が分かり易すぎる。透は何かが引っかかってしょうがなかった。ホテルに入り、チェックインし、部屋まで行ってから、すぐに透は聞いた。

「もう帰ってもいいですか?」

「朝まで一緒にいて下さい……寂しんです……」

葵がしがみ付いてきた。透はそっと葵を離すと、

「ここまでで、勘弁してください。私には誓いをたてている相手がいるので。見つからないように外に出ますから」

「誰にも言わないから。バレないようにすればいいだけじゃない。ね、一晩だけ」

葵は羽織っていた厚いカーディガンを肩から落とした。薄い化繊のブラウスから、下着をつけていない素肌が透けて見える。透が目を逸らすと、葵が近づいた。


「ごめん……」

その言葉が誰に向けられたものか、わかるより先に、葵は意識をなくしていた。

透は葵をレイラの時と同じように昏倒させ、ベッドに運び、カーディガンをそっとかけ部屋を出た。自分を守ってくれそうな人を離したくなかったのだろうか、考えながら。

 そういえば、健斗がレイラの城にいるのはどう言う事だろう、と透はまた思い出した。寂しくなって、なんてことはないだろうか、と不安になった。いつまでも返事をしないでいる事で不安にさせているのは、わかっていた。


 透が部屋を出た途端に、先程つけてきた葵の元夫が目に入った。スマホを構えているのが目に入り、反射的に走ってその男を捕まえた。スマホを取り上げてみると、葵と自分が腕を組んでいる写真や、ホテルに入っていく写真があった。そして、通信履歴を見るとその写真が健斗に送信されているのがわかった。健斗は今頃、写真をレイラに見せているかもしれない、と考えると、透は血の気が引く思いがした。健斗はレイラの城に滞在している。そして、透はレイラと連絡を取る事が出来ない。

 透は男を引っ立てて、部屋へ戻り、ドアフォンを鳴らす。葵は何が起きたのかわからなかったようで、カーディガンを羽織って、よろめきながら出てきた。男を見ると、慌ててドアを閉めようとしたが、透が男を突き飛ばして中に入り、後ろ手にドアを閉めた。


「どう言う事ですか?」

透は、男のズボンのベルトを外し、男の手を後ろ手に縛りながら葵に聞いた。

「何を言っているか、わからない……」

葵は男と透を見比べながら、後退さりする。

「誰に頼まれた?」

透が男に問う。男はふん、と鼻で笑った。透が男の指の一本を、限界まで反対側へ反らした。男は悲鳴をあげた。

「このままいくと折れますよ。答えるまで一本ずつ行きますよ」

男がすぐに悲鳴を上げたところを見ると、一般人の様で、筋金入りのヤクザやチンピラではなかったようだ。

「大村だよ」

「葵さんとは?」

「一緒にあんたを嵌めるように頼まれたんだよ」

「元夫というのは嘘ですね?」

男は頷く。透はスマホにそのセリフを録画した。


 後退りしていた葵の背が、壁に当たった。もう後がない。葵は大村に頼まれただけで、透が学校関係者だと言うこと以外は、どんな人物かよく知らなかった。

「知らない、私は知らない。この男が嘘をついているのよ」

透は男に逃げられないように、男を縛ったベルトを掴んだまま引きずって、葵の方へ近づく。

「嘘をつかないで下さい」

「子供が、子供を人質にとられているの!」

透が男の方を見る。男は首を横に振っている。葵は目に涙を浮かべて、透に取りすがろうとした。透は避けた。

「借金があるのよ。騙されて売られたのよ」

「だから?」

透の声は突き刺さるように冷たい。


 葵は抱えていたハンドバッグに手を突っ込んだ。手にバタフライナイフが握られている。透は後退りしながら、男が逃げないようにスタンドのコードで足を縛って、横に転がした。

「落ち着いて、ナイフをしまって下さい。葵さんを傷つけたりしないから」

「残念ながら、傷つくのはあなたの方。この計画が失敗したら、その顔を切り刻むか、二度と立ち上がれないようにしないと、借金は帳消しにならないのよ」

「その為に弁護士を紹介したんですよ。彼は顔が広いから、あなたを助ける事が出来るかもしれなかった。でも、あなたは私を引っ張り出す以外の相談はしなかった。そんなものを振り回すと、怪我をしますから、しまって下さい」

「大人しく誘惑されていれば、こんな事しないで済んだのに」

葵は上目遣いで透を見つめた。大村は完全に、透を見誤っていた。透の容姿は優男であっても、優男ではない。葵もナイフを見せれば、脅せると思っていた。しかし、透は動揺するどころか、溜息をついてスマホを出した。

「私を騙したと、大村に言われてやったと、これに向かって真実を言って下さい。言ってくれれば、この事については不問にします」

 葵は返事の代わりにナイフを持って、突進してきた。透は軽く避けて、左手でスマホを持ったまま、ナイフを持っていた葵の手首を掴んだ。ナイフが落ち、葵が呻いた。透はナイフを部屋の隅の方へ蹴った。力が抜けてしまったのか、葵は座り込んだ。

「言って下さい。そうでないと、困るんです」

葵が透の顔を見る。本当に困っているようだった。

「奥さんに見せるの?」

「奥さんではありませんが、疑いを晴らさないと、彼女が物凄く不機嫌になるかもしれないので……」

「それだけ? 馬鹿みたい……」

透は言われた通りだと思った。自分を騙そうとした相手に、真実を話して欲しいとお願いする馬鹿は、いないかもしれない。レイラと再会してから、恥ずかしいと思う事が増えている。

(それに、不機嫌どころか、血迷って健斗に危害を加えたりしたら、国際問題になるかもしれない。もしかしたら、レイラは泣いてしまうかもしれない)

透は、レイラを泣かせる様な事は絶対に避けたかった。何故か、あのヒーロー然としたレイラの華麗なアクションの事は、すっかり頭から抜け落ちている。


「なんか、馬鹿馬鹿しくなってきた……。言うわよ……。大村に頼まれて、築地さんを騙して、ホテルまで連れてきました。でも、計画がバレてしまったので、何もありません」

「有難う」

透はちゃんと取れているかどうか確認すると、葵の手を離した。透は部屋を出てドアを閉める前に、葵に向かって言った。

「あの弁護士は、きっとあなたを助けてくれますから、もう一度、ちゃんと連絡してみて下さい」

 透は急いで、ホテルを出ると、すぐにアントンに録音した映像を送った。

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