非日常的日常

明夜 想

第1話 夢で逢えたら

 武蔵野の鬱蒼とした木々に囲まれた病院の、病室の2階のバルコニーにかけられた梯子を、レイは足取りも軽く登っていく。これが階段であれば、一段飛ばしで駆け上がりたいところだが、面会時間はとっくに過ぎている為、静かに音を立てないように登っていく。

 ふと見上げると、薄赤い満月の晩だった。昨日までは、月を見上げては、同じ月を見ているのだろうか、とレイは思いを馳せる事しか出来なかった。けれど、今日は……。

(やっと、やっと、透に逢える。この日をどんなに夢見た事か)

レイは護衛に「顔を見てくるだけ」とは言ったものの、それだけで済ませるつもりはなかった。

 病室の窓の鍵は面会時間のうちに、見つからないように護衛に開けさせておいた。透が覚えているかどうかはわからないが、予告として、高校の時と同じ、青い花のブーケを病室に置いてこさせてあった。


 下で待つ、護衛二人はぼやいた。

「バルコニーと言えばロミオとジュリエットだが、あんな事をされては困る」

「見てみろ、梯子を昇っていかれる様子は、羽が生えている様ではないか。お元気になられて良かった。ロミオとジュリエットは悲劇だが、これはただの……」

「ただの、何だ?」

「何だろうな……」

「もし、相手が高校の時の面影もなく、性格も全く変わっていたらどうなるんだろう?」

「それはそれで、後が大変だ……あの方にとってあの病室にいる人は一種の宗教のようなものだから」

「宗教? 改宗されたのか?! それは不味い」

「そうではない。心の支え、という意味では、宗教よりも強固だ」


 問い合わせのメールの返事を読んだレイは、数年ぶりに、嬉しいという感情が湧き上がり、心臓が爆発しそうだった。

<お久しぶりです。メールを頂いたことに驚いておりますが、お急ぎのようですから、手短に、質問に答えましょう。

 築地 透 氏 あなたと同学年だったので、今年三十歳 身長は推定180センチメートル。あなたもお世話になった父である修氏が、二年前に突然病で亡くなり、あなたも通われた静実学園—幼稚園から大学院までの理事長を引き継いでいます。

 今のところ、独身です。高校で教えていたせいもあり、静実高の生徒、特に女子生徒からは、人気があります。昨日の今日ではお付き合いされている方がいるかどうかは、調べようもありません、云々……>

 

追伸のメールを受け取った時には、レイはもう日本に向かう飛行機の中だった。

<残念ながら、3日前から、盲腸で八塩病院に入院中。お見舞いに行かれるのであれば、部屋番号は201、個室です。>


 

 数時間前。

 盲腸で入院3日目の透が検査から戻ると、テーブルの上に青い花のブーケが置いてあった。しかし、部屋の中に見舞客はいない。透はリハビリも兼ねてナースステーションまで行き、誰か訪ねてきたかを確認したが、誰も来ていないと言われてしまった。

「今は、お見舞いにお花も果物もダメなのですが、築地さんは個室だから、良い事にしておきますね」

と優しそうな看護師が、透の耳元で囁くように言った。

 部屋にあったブーケの香りから、透の脳内に、少し癖のあるプラチナブロンドが浮かび上がったが、それが誰であったのか思い出す前に、シャボン玉が割れた様に消えてしまった。


 透は日頃の激務と、開腹手術をした疲れもあり、21時の消灯時間にはもう意識がなくなっていた。幼稚園から大学院まである静実学園の理事長であった父の修が急逝してから跡を継ぎ、色々と把握したり、改善したりする事に手間がかかり、あっという間に二年経っていた。透は理事長として若過ぎると侮られない為にも、寝る間も惜しんで働いた。学園の先生達の業務量を減らすようにと、事務員を入れたりしていたにも関わらず、自分の業務量に関しては、減らす努力をしていなかったのだった。


 梯子を登ってきたレイは、軽々とバルコニーを越えて、病室に入った。月明かりを受けて、背中の真ん中まである少し癖のあるプラチナブロンドの髪が、背後でクリスタルの様に輝いている。黒いTシャツに黒の細身のパンツという、暗闇で目立たない格好をして来たレイは、そっとベッドに近寄り、ベッドの柵に書いてある名前を確かめ、眠っている透の顔を確かめた。

「透……あまり、変わっていないな、良かった。想像していた以上にかっこ良くなっている」

レイは期待を込めて、しばらく眠っている透を眺めていたが、目を覚ます気配は全く無い。眠る透を眺めているうちに、欠伸が出てきた。

(盲腸は確か、お腹あたりか)

レイは眠っている透のお腹を避けて、胸に耳を当てた。重なり合って心臓の音を聞いているうちに、レイもまた、日頃の疲れが押し寄せ、折り重なったまま眠ってしまった。


 透は胸の上に何かが乗っている気配に、ぼんやり眼を覚ました。手も何かに絡め取られている様に動かない。

(胸の上に何か乗っていて、手も動かない……もしかしたら、金縛りか?)

恐る恐る薄く眼を開けると、月明かりを受けて銀色に光る髪が目に入った。

(幽霊か。にしては温かいな。それに、何だか、いい香りがする。テーブルに置いてあった青い花と同じ香りか。前にもこんな事があったような……)

はっきり眼を開けて見ると、絶世の美女が自分の胸の上で眠っているのが目に入った。しかも、その両手を透の手に絡めている。動かなかったはずだ。

(ここは病院だったはず。この人は、誰だ? この状況は一体……)

透は、握られた手を外し、そっと起こそうと頭を撫でてみた。その人物は、ハッと目を覚まして起き上がり、月明かりの射す部屋の中でも分かるほど赤くなった。

「ごめん、あまりにもぐっすり眠っていたから、つられて眠ってしまった。透、久しぶり」

身を起こした人物は、昔と変わらぬ笑みを浮かべて言った。透は手術後の痛む体を起こした。

(絶世の美女だと思ったが、美男の間違いだったな。まぁ、彼であれば間違えても、仕方ないか)

透は溜息をついた。彼が花びらのように美しい口を開いた。

「今日の月は綺麗だね」

 透は、思わず侵入者の顔を凝視した。意味がわかって言っているのだろうか、と。「月が綺麗ですね」とは、愛の告白を表す。彼は高校の数ヶ月間しか日本にいなかったが、日本語は堪能だったはずだ。とりあえず、無難な返事を返す。

「そうだな。久しぶり、レイ。随分、髪が伸びたな」

「僕の名前、覚えていてくれたんだ。嬉しいね」

やはり、さっきの言葉は、ただ月を描写しただけだったのか、と透は安堵した。レイはにこやかに笑いながら、そっとベッドの足元の方に腰掛けた。レイは昔よりも、瞳に翳りがあるように見えた。

「レイは高校一年の時、一緒に生徒会をやったし、先生たちからも、女子からもアイドルのように人気があったから、印象的だったし、忘れられるはずがない」

 高校の時、レイはプラチナブロンドを少し長めのショートカットにしていた。欧州からの留学生で、勉強もスポーツも際立っていた。女子たちが自主的に作ったファンクラブもあった。

「それだけ? 透も人気があったじゃないか」

透はレイの言葉を無視した。

「私が骨折して入院した時、君は同じ様に窓から入ってきた」

透の脳裏を一瞬、拉致された自分が浮かんで消え去った。

「どうかした?」

いつの間にか、レイが目の前に座っている。透はナースコールの方をチラッと見た。レイの紫の瞳が近くに、ある。

「押さないよね?」

「何もなければね。あの時レイが病室に入ってきてからの記憶が、無い」

 レイが窓から入ってきた日、朝目覚めると、普通に病院のベッドに眠っていた。拉致された映像は、ただの悪夢だったのかもしれない。


 レイは首を傾げている。

「覚えていないだけじゃない? 少し話をしただけだったと思うけど」

「今日もそうだけど、夜にわざわざ窓から入って来て?」

「高校生って、冒険したい年頃じゃない? 秘密の話でもしたのかな?」

「今夜も? どうして、今、私が入院していると分かったんだ?」

「昔の知り合いが教えてくれた。今夜は、僕の事を思い出して欲しくて、窓から入ってきた」

 透は学園に在籍している甥の合唱コンクールを見に行った会場から、救急車で運ばれ、そのまま入院となってしまった為、入院しているのを知っているのは今のところ静実学園の関係者だけのはずだった。


 レイは高校一年の途中、透の入院中に帰国してしまった。透が入院するまで毎日顔を合わせて、一緒に行動していたにも関わらず、一言も告げずに突然帰国し、連絡先も知らせず、音信不通になった。当時、透はレイを特別な親友どうしだと思っていたのは自分だけで、レイにとって自分は連作先すら教える価値のない人間だったのかと、ショックを受けた。

「久しぶりの再会なのに、嬉しくなさそうだね」

「あまりにも久しぶりで、唐突だから、驚いているだけだ」

 忘れるはずがないとは言ったが、不思議なくらい、レイとの記憶は今のいままで思い出すことが無かった。透は、その記憶が忘れようと、封印していた記憶だった事を思い出した。ショックの度合いが大きかった事も原因の一つだった。レイが現れたおかげで、封印していた箱がジリジリとこじ開けられていく。

 しかし、透は「連絡先すら教えてくれなかったじゃないか」とは言えなかった。自分だけが勝手に特別な親友だと思っていた事が、知られてしまうのが悔しかったし、そんな事を言うのは子供じみていると思ったからだ。


「僕は再会できて、嬉しいよ」

 レイは心の底から嬉しそうな笑顔を透に向けた。大輪の花が鮮やかに開いていくような笑顔。透の心を甘苦いものが掠めた。忘れようとしていた感情も蘇ってきた。

「確かレイには婚約者がいて、式を上げるために国に帰ったのではなかったっけ?」

透が退院して高校に戻ると、誰かがそう教えてくれたのだった。

「そういう者はいたけど。今は関係ない」

「関係ない?」とは、仮にも婚約者だった人物に対して、やけに素っ気無い言い方だと透は不思議に思った。

「もしかして、婚約者のこと、気にしてた? もう、何も邪魔する者はいないよ」

透は不覚にも、脈拍が上がったのを感じ、レイから目を逸らした。

(どういう意味だ? それに、レイは男じゃないか)

「僕の本当の名は、レイラ」

レイが透の耳元で囁く様に言い、そっと、透の背中に腕を回した。甘い青い花の香りがする。抱きしめられて夢を見ているような感じがした。透は触れた体が、思いの外柔らかい事に気づいた。

「レイ、ラ?」

透は驚いて、レイラから身を離した。


「透はずっと気が付かなかったのかな? 僕は女だ」

 透は頭を抱えた。高校の頃の悩みは何だったんだろう……。最初は、レイに対する気持ちは特別な友情だと思っていた。そう思い込もうとしていた。しかし、どう考えてもレイに対する気持ちが、恋だと気づき、透は悩んだ。まだLGBTという言葉は誰も知らなかったし、ゲイは差別の対象だった。しかも、それに、はっきり気がついた時には、レイは帰国してしまった後だった。相手がいなくなってしまった事で、その気持ちはうやむやのままだった。


 教育者たちは生徒に対しては寛容になろうとするが、同業者に対しては全く寛容ではないことを、透は知っていた。特に父である理事長は生徒に対しては、どこまでも受け入れる事ができたが、自分の子供は別だと感じていると気づいていた。そのせいもあって、レイへの想いは気持ちに蓋をして忘れた。


「僕は存在を隠す必要があったから、性別を偽っていた。あの学校の規則や、先生たちは適当な事情を話せば、無理にプールに入れと言う事もなかった。体育の着替えも宗教上の理由とか言って、一人だけ別室で着替えてたし。もしかして、……透は僕が男の方が良かった?」

「いいや……ちょっと混乱している」


 透が異例の一年生で生徒会長になった時に、レイは副会長として選ばれた。初めて生徒会室にレイが入って来た時、透はその眼差しに心臓を射抜かれた。そんな事は初めてだった。目が合った瞬間に、同じ瞳を持っている事に気づいたのだ。深い傷を心の奥に押し込めて、隠している、という事に。透の瞳に動揺が走ったのを見た次の瞬間、レイは陽気に笑いながら、透に手を差し出して、「よろしく」と言った。

 透は戸惑いながらも、その手を壊れ物のようにそっと握り返した。レイは何を心の底に抱えているのだろう、と知りたくなったが、聞いてはいけないような気がして、結局、何度か聞こうとしたが、聞くことができなかった。

 レイを一目見て、心を攫われてしまったのは、透だけではなかったようだ。その年の生徒会の運営はものすごくスムーズだった。特に女子からの人気がレイに集中し、ほとんどの議題はすんなり通った。任意で開く集会も人が集まった。


「初めて生徒会室に入って、透と正面から目があった時、この人だってはっきり分かった。もちろん、その前に何度か透の事を見かけてはいたけれど。知ってる? 透は凄く人気があったんだけど、僕がライバルを片付けるために、片っ端から、女子を落としていってたって」

 透は体育館の横、人気の無い理科準備室などで、都度違う女の子と二人でいたレイをチラッと思い出した。大抵、相手の女の子は真っ赤になって俯いていた。

「もう性別を隠す必要がないなら、出来れば『僕』はやめてくれないか。混乱する」

 レイラは紫の瞳を揺らして笑った。本来なら、透にとって苦い思い出は甘い思い出になり、良かったはずなのだが、何かが抜け落ちている気がする。大事な記憶のはずなのに、思い出せない。何かが記憶にまだ蓋をして邪魔をしている。本能が警鐘を鳴らしている。


「透、突然だけど、私と一緒にきて欲しい」

「何処へ? 今は入院中だから、退院したら何処へなりと……」

レイラは透の言葉を遮った。

「そうじゃない。私を信じて、何も聞かずに来てくれるのなら、何処へ行くのか言える。そうでないなら、言えない。残念な事に、来ると決めたら、多分もう戻ってくる事は出来ない」

「物騒な話だな。何か問題でも起こったのか? 退院したら、手伝う事ができると思うけれど……。盲腸だから、一週間くらいで退院できる。それまで、日本にいればいいじゃないか」

「出来れば、そう、出来ればそうしたかった。でも、僕には時間がないんだ。高校の時みたいに、透に側にいて欲しいんだ。駄目なら、もう二度と会えないし、会わない。お願いだ、透……私を助けて」

心が揺れてしまうほど切ない眼差しで、レイラが透を見つめた。レイラの瞳には、今にもこぼれ落ちそうな涙が浮かんでいる。当時、周りの誰も気づかなかった陰を、レイラの瞳は以前より一層濃くしていた。思わず透はレイラを抱き寄せた。何かがあったのだろう。いつも明るく振る舞い、誰にも助けを求めた事のなかったレイラが、必死で助けを求めている。助けなければと、心の底から思った。 

 それと同時に、透の頭の中の警告音が大きくなる。言葉を発しようとした透の唇を、レイラの柔らかい唇が塞いだ。レイラの唇の感触に触発されて、透の脳内で忘れていた記憶の蓋が吹き飛んだ。

と、病室に近づく足音がした。レイラがそっと離れた。

「……レイ、ラ?」

「明日、返事を聞きに来る。鍵はかけないでおいて」

そう言いおくと、レイラはバルコニーから姿を消した。


 残された透は、夢を見ていた気分だった。夢でなかった証拠に、青い花のブーケがテーブルに乗っていた。日本にはない花だ。以前、レイが窓から入ってくる前に、同じブーケが同じ様に、テーブルに乗っていた。その花を見た見舞いに来た理科の教師が、日本にはない珍しい花だと言っていた。そして、透はその後の言葉も思い出した。あの青い花の香りは、多幸感をもたらす成分が含まれているのではないかと。



-------------------------------------------

目に留めていただき、有難うございます。


頭の中に浮かんだ映画の様な映像から、書き始めました。

書かないと繰り返される映像。拙い筆ではありますが、映像を再現できたらと思います。

伏線は徐々に回収していきますので、最後までお付き合いいただけたら幸いです。(最後まで書き切っています。)

感想、評価などいただけましたら幸いです。よろしくお願いします。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る