アナザー・ライフ

山山羊

プロローグ


「うん、検査結果は全て異常なし。これなら予定通り、明日には退院することが出来るよ」



 精密検査を終え、結果を医師から報告された。

どうやら身体に異常はなく、無事に退院出来るようだ。



「だけど、君の記憶はまだ完全には戻って無い。何か思い出したことがあったり、身体に異変があった時はすぐに病院に来るんだよ」


「はい。その時はまたお世話になります」



 身体の方は全快したが、全て元通りになった訳ではない。


 俺はとある事故に巻き込まれ、それ以前の記憶を失った。

いわゆる記憶喪失というやつだ。

自分や両親の名前、通っている大学、家の場所、そして恋人のことなどの記憶は全て無い。


 ……俺に起きた出来事を考えると、それもなのだが。



「心配しなくてもきっと大丈夫さ。身体に異常ないし、記憶の方も日常生活を送っている中で、急に思い出すという例も多くある。だから過度に不安になる必要はないよ」


「…ありがとうございます」



 そう真摯に俺を励ましてくれる先生には悪い気持ちになる。


 俺は記憶喪失と診断されたが全ての記憶がないわけじゃない。

現に日常生活を送るには支障がないくらいの記憶は残っている。


 ただ、この身体の記憶が無いだけ。


 自分の身に何が起きて…、そしてどうしてこうなったかすらも鮮明に覚えていた。



「しかし医者としてこんなこと言っていいのか分からないけど…、よくあの状態から回復したものだと思うよ。正直、どう手を打ったらいいのか分からなかった」



 事故に巻き込まれた俺は昏睡状態で病院に運ばれてきたらしい。

そして、身体の怪我こそ大したことなかったが、事故の衝撃で頭を強く打ちつけ、意識不明だったみたいだ。


 しかし、ある日突然意識が回復して、検査をしても異常はなく、そこからはとんとん拍子で退院に至った。



「本当に奇跡としか言いようがないよ。神様に感謝しなくちゃね」


「…そうですね」



 そう…、俺には奇跡が起きた。


 不幸な事故に巻き込まれて、命を落としそのままこの世から消える運命だった俺は、ある神様のおかげでこうして一命を取り留めることが出来たのだ。


 それはとても幸運なことだと思う。

世の中には、どれだけ生きたいと願ってもそれが叶わない人もいる。

俺が巻き込まれた事故でも、命を落とした人も多くいたと聞かされた。


 だから俺は恵まれているのだろう。

一度命を落としたにも関わらず、こうしてこの世に舞い戻ることが出来たのだから。


 そして、医師の言う通り、死にたくないという俺の願いを叶えてくれた神には感謝するべきだ。

あまつさえ、文句を言うのは筋違いなことなのだろう。



「ちょっと早いけど退院おめでとう。時本くん」



 その名を聞くと、心に影が差す。


 俺はこの奇跡を素直に喜ぶことが出来なかった。

それどころか、その名を呼ばれるたびに、あの神を憎らしくすら思ってしまう。

  

 時本樹ときもといつき

俺の名だが俺の名じゃない。


 俺の名前は間違いなく君島誠也きみしませいやだ。

時本樹という名は、この身体の持ち主だった人物の名前。


 しかし、それについては他言してはいけない約束になっている。

それ以前に約束が無くても、こんな御伽話のようなことを説明しても信じてもらえるはずもない。

頭がおかしくなったと思われて入院期間が延びるだけ。



 ーーー君島誠也があの事故で命を落とし、神の奇跡によって時本樹の身体に転生したということなど説明するだけ無駄だ。

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