第73話 画板と原稿用紙



 日が落ちてきて、手元の小説を読むのも難しくなってきた頃に僕はゆっくりと立ち上がった。


 長時間堅いベンチに座っていたため、体中がバキバキに凝り固まっている。


 首を二三度ぐるぐると回し、その場で軽くジャンプをして体をほぐしてから、僕は読んでいた小説と、途中で買い出しをした飲食物を鞄に片付け、帰路につく。


 今日は一日中神社にいたが、収穫はゼロ。カナエが来る様子は無かった。


 少し焦る気持ちもあるが、僕にできることはだたひたすらに辛抱強くあの場所で待つ。それだけだった。


 帰りに少し寄り道をする。前に万年筆を購入した文房具店。ちらりと腕時計を確認すると、時計の針は19時過ぎを指し示していた。個人経営のあの文房具店は、まだ開いているだろうか?


 目的の店にたどり着くと、どうやらまだ店は開いているようだった。店に入ると、「いらっしゃい」としゃがれた声が出むかえてくれた。


 買う物はもう決めてある。


 僕はいつもつかっている40×40字の原稿用紙と、外でデッサンをするときに使う画板を一つ手に取った。


 画板なんて、学生の時に美術の授業で使って以来だ。なんとなくノスタルジックな気分にひたりながら、僕は商品をレジに持っていく。


 頭の禿げかけた初老の店主は、僕をチラリとみるとニヤリと不敵に笑った。


「よぉ、万年筆の兄ちゃんじゃねえか。どうだい? 俺が選んだ万年筆の書き心地は」


「ええ、万年筆なんて使った事が無かったもので、最初は戸惑いましたが、今ではすっかり馴染んでいます」


 僕の返答に、店主は満足したように顔をほころばせた。僕が商品の精算を終え、立ち去ろうとした時、店主はぶっきらぼうな口調でこういった。


「インクが切れたらまた来い。良い万年筆ってのは一生もんさ、大切に使ってやんな」









 帰りにコンビニで適当な食料を買い込んで、僕は花沢の部屋に戻ってきた。彼女から預かったスペアのキーで鍵を開け入室する。やはりと言うべきか、花沢は狭い部屋の真ん中にちゃぶ台を置いて、一心不乱に執筆をしていた。それこそ、僕が帰ってきたことにも気づかぬほどに。


 邪魔しては悪いかとも思ったが、つい最近彼女に自分を勝手に天才というフィルターをかけて見るなと怒られたばかりだったことを思い出す。僕は恐る恐る花沢に声をかけた。


「……ただいま」


 花沢はこちらが驚くほど機敏な動作で振り返ると、一瞬呆けたような顔をした後、小さな声で返事をする。


「あぁ、お帰り。もう帰ってきたんだ」


「外も暗くなってきたしね。無理して僕が体を壊したら元も子もない」


「そりゃあ、そうだ。それはきっとカナエちゃんも喜ばないね」


 そう言って花沢は立ち上がり、ぐっと伸びをする。パキパキと全身の骨を鳴らし、体をほぐしていた。


 長時間あの体勢で執筆していたのだろう。ちゃんとした作業机と椅子を買うことを進めたこともあったが、彼女はちゃぶ台で執筆することを好んだ。


 まあ、執筆のスタイルなんて人それぞれだ。外野があれこれ口出しすることでもない。


「コンビニで飯買ってきたんだけど、食べる?」


「ありがとう。ちょうどお腹空いてたとこ」 


 そう言って、花沢はちゃぶ台の上から書きかけの原稿を雑にどかした。自分の作品はもうすこし丁寧に扱ってほしいものだが、言うだけ無駄だろう。


 適当に選んだ弁当を花沢に渡し、自分もちゃぶ台の前に座る。そして僕たちは、二人でちゃぶ台を挟んで無言で食事を始めた。


 そもそも、僕たちは二人ともあまりおしゃべりなタイプでも無い。それ故か、二人の間で会話というモノは必要不可欠ではなく、たびたびこういった無言の時間は訪れる。


 それは、靜香と僕の間には無かったことだ。


 靜香はおしゃべりが好きだった。僕と会う時は、常に彼女は何かをしゃべっていたような気がする。


 彼女は博識で、頭の回転も速く、彼女の話は僕を飽きさせなかった。


 花沢は違う。


 彼女は基本的に必要最低限の言葉しかしゃべらない。まるで、言葉とは物語を紡ぐためにあるもので、それ以外の用途では使うべきでは無いといわんばかりだ。


 いや、


 それはきっと僕の思い込みなのかもしれない。


 どうにも、僕は花沢を特別視する癖がついているようだ。なんという事だろう、これではいつか静香が言っていた、僕が花沢に対してぞっこんであるという言葉が真実味を帯びてきてしまう。


 それが恋愛感情では無いにしても、恋人のそんな動向は、静香にとって決してプラスでは無かっただろう。


 彼女が僕から離れていった理由も、少しずつわかってきた気がする。


 しかし、もう僕にはどうしようもない事だった。


 何となく視線を上げ、対面に座る花沢を見る。


 ガツガツと勢いよく弁当を貪る花沢。もしかしたら、起きてから今まで、何も食べずに小説を書いていたのかもしれない。


 不器用な女だ。


 生きるのが下手だと言い換えても良い。


 そして、多かれ少なかれ、僕も彼女の同類なのだろう。


 小さく微笑んで、僕は花沢に声をかけた。


「なあ、花沢」


「ん、なに?」


「僕さ……やっぱりカナエの事を書くよ」








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