第67話 薄明かりのビール
花沢のアパートに戻るころには、缶ビールの中身は空になっていた。
普段は缶ビール一本程度で酔うことも無いのだが、疲れていたのだろうか、アルコールが全身に巡り、少し酔っているような感覚を感じている。
ふわふわと重力を感じない危なげな足取りで階段を上り、目当ての部屋までたどり着くと、花沢から渡された合鍵でドアを開ける。
部屋の中に入ると、出かけるときにはぐっすりと眠っていたはずの花沢が起きていた。
「お帰り……夜の散歩は楽しかった?」
「あぁ、ただいま。ごめん、起こしちゃったかな」
「気にしなくていい……私、ずっと不眠症気味だから。あんまり熟睡できることってないの」
不眠症。そのことは知らなかった。
しかし、言われてみれば彼女の眼の下にはいつも濃いクマがあった。
部屋の電気は暗いまま。カーテンの隙間から差し込んだわずかな月光だけが室内を照らしている。
「……電気、つけないの?」僕が尋ねると、彼女は首を横に振った。
「暗い部屋が好きなの……こうやって薄暗い部屋でジッとしていると、感覚が研ぎ澄まされるような気がするから」
花沢の言っている感覚は、僕には理解できなかった。そして、理解する必要もないのだろう。
「わかった。僕も付き合うよ」
どうせすぐには眠れそうにない。
「……何買ってきたの?」
花沢が指さしたのは僕の持っているコンビニ袋。僕は無言で飲み終えた缶ビールを彼女に見せた。
「私の分もある?」
特に彼女の分として買ったわけではないのだが、確かに余分に酒は買ってある。
僕はコンビニ袋からビールを2本取り出すと、一本を彼女に渡す。
電気もついていない、薄暗いアパートの一室。特に何を話すでもなく、僕と花沢は無言でビールを飲んでいた。
何かつまみになるようなものでも買ってくればよかったかもしれない。しかし、つまみもなく会話も無い深夜の飲み会は、不思議と心地が良かった。
僕がビールを缶の半分ほど飲んだ頃、花沢が聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でつぶやいた。
「私……アンタの書く小説が好き」
「……僕はお前が誰かの小説を褒めるとこなんて初めて見たよ」
驚いた。
花沢は、基本的に小説に対して辛口だ。
誰かの作品を褒めることなんてしないし、それどころか自分の書いている作品にすら満足していないようだった。
そんな彼女が、僕みたいな凡人の作品を褒めるなんて、思いもしなかった。
「アンタ、大学のサークルで猫の話書いたでしょ? 覚えてる?」
彼女の言っている作品を思い出すのに、少し時間がかかってしまった。
記憶の糸を一本一本手繰り寄せ、ようやく思い出す。
確か、新入生を募集するために作成した文芸サークルのコピー本で、僕は猫の小説を書いた気がする。
自分の死期を悟った飼い猫が、飼い主の夢の中に現れて最後の会話をするという短編小説……。
彼女に言われるまで、その小説を書いたことすら忘れていた。
「あぁ、今思い出した。そういえば、そんな小説を書いた気がする。それで……その小説がどうかしたのか?」
僕の問いに彼女は答えず。無言で立ち上がると、何やら棚の奥をごそごそと探って何かを僕に持ってきた。
それは、薄暗い部屋の中でもわかるくらいボロボロにすり切れた一冊のコピー本だった。
かつて大学の文芸サークルで、新入生を呼び込むために部員が作成したもの……。
「その小説が、私の原点……私が、小説を書き始めたきっかけ」
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