第38話 変わらない? 日常
◇
「花沢先生、いらっしゃいますか?」
ドアをノックしながら、僕は花沢を呼んだ。
行方不明になっていた花沢を、僕が偶然見つけてから数日。僕は長い休暇を終え、花沢はまたボロボロのアパートでも執筆に戻った。
まるでこの一週間の事など、何も無かったかのように、僕たちは今まで通りの日常に戻っていく。
それが良いことなのか、悪いことなのかはわからないけれど……。
ゆっくりとドアが開いた。少し錆びた蝶番がギギギと音を立てる。
顔を出した花沢を見て、僕は思わず息を呑んだ。
「……何よ? 言いたいことがあるなら言えば?」
不機嫌そうにそう言う花沢は、いつもの野暮ったいジャージ姿では無く、綺麗に身なりを整えていた。
いつもボサボサに伸び放題だった髪は後ろにまとめられ、顔には薄らと化粧が施されているようだ。女性モノの服には詳しくないが、服装も薄紫色のカットソーは彼女によく似合っていた。
「いえ……どこかに出かける所だったのですか? タイミングが悪かったのなら出直しますが」
「……別にそういう訳じゃ無い」
しばらく互いに無言で見つめ合う。
少し気まずい。彼女は一体、僕に何を求めているのだろうか。
やがて花沢はしびれを切らしたように顔を背けると、僕を部屋に招き入れた。困惑しながらも、彼女の部屋へと入る。
部屋に入って、僕は再び驚いた。
何と、花沢の部屋が綺麗に片付けられている。本人なりに頑張って整理した、とかのレベルではなく、まるでプロに頼んだかのように几帳面に整頓されていた。
驚く僕の様子を見て、花沢は不服そうに頬を膨らませた。
「……そんなに驚かなくても」
「いやいや、驚きますって。ハウスキーピングでも頼んだんですか?」
僕の問いに、彼女は首を横に振った。
「お母さんが昨日来てて……」
なるほど、だいたいの事は理解した。
「すると、その格好も?」
「うん、年頃なんだから見た目にも気を遣いなさいって」
不服そうな顔でそう話す花沢を見ていると、何だかこみ上げるものが抑えきれず、思わず吹き出してしまった。
クスクスと笑う僕を、花沢はジロリと睨み付ける。
「何笑ってんのよ」
「いや、失礼しました。僕としたことが」
そして、僕と花沢は仕事の話を始める。
あの日、大学の部室に何故花沢がいたのかはわからない。あの後も、僕は彼女にその事を尋ねなかったし、失踪していた期間にどこにいたのかもしらない。
だが、それはどうでもいい事だ。
今彼女はここにいて、こうしてボロボロのアパートで小説を書いている。
何の問題も無い。
これ以上、彼女のプライベートに踏み込む必要もない。
僕たちの関係は、あくまでビジネスライクなものなのだから……。
あらかた仕事の打ち合わせが終わった時、ふと花沢が僕を見つめた。
その瞳は深く澄んだ色をしており、思わず引き込まれるように見つめ返す。
「……ねえ、先輩はアレから小説を書いているの?」
恐る恐るといったように、花沢は僕に尋ねてきた。何故だか僕は少し気恥ずかしくなって眼を逸らす。
「えぇ……書いてるっちゃ、書いてますけど……」
そう、アレから僕はまた小説が書けるようになっていた。
十年間書けなかった事が嘘のように、今では自然に物語を綴る事ができる。
僕の答えを聞いて、花沢は満足そうな顔をして頷いた。
「そう……よかった」
何が彼女のお気に召したのかはわからない。
しかし、彼女は僕が小説を書いている事が嬉しいようだった。
「完成したら、また私に見せてね……約束」
◇
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