第38話 変わらない? 日常



「花沢先生、いらっしゃいますか?」


 ドアをノックしながら、僕は花沢を呼んだ。


 行方不明になっていた花沢を、僕が偶然見つけてから数日。僕は長い休暇を終え、花沢はまたボロボロのアパートでも執筆に戻った。


 まるでこの一週間の事など、何も無かったかのように、僕たちは今まで通りの日常に戻っていく。


 それが良いことなのか、悪いことなのかはわからないけれど……。


 ゆっくりとドアが開いた。少し錆びた蝶番がギギギと音を立てる。


 顔を出した花沢を見て、僕は思わず息を呑んだ。


「……何よ? 言いたいことがあるなら言えば?」


 不機嫌そうにそう言う花沢は、いつもの野暮ったいジャージ姿では無く、綺麗に身なりを整えていた。


 いつもボサボサに伸び放題だった髪は後ろにまとめられ、顔には薄らと化粧が施されているようだ。女性モノの服には詳しくないが、服装も薄紫色のカットソーは彼女によく似合っていた。


「いえ……どこかに出かける所だったのですか? タイミングが悪かったのなら出直しますが」


「……別にそういう訳じゃ無い」


 しばらく互いに無言で見つめ合う。


 少し気まずい。彼女は一体、僕に何を求めているのだろうか。


 やがて花沢はしびれを切らしたように顔を背けると、僕を部屋に招き入れた。困惑しながらも、彼女の部屋へと入る。


 部屋に入って、僕は再び驚いた。


 何と、花沢の部屋が綺麗に片付けられている。本人なりに頑張って整理した、とかのレベルではなく、まるでプロに頼んだかのように几帳面に整頓されていた。


 驚く僕の様子を見て、花沢は不服そうに頬を膨らませた。


「……そんなに驚かなくても」


「いやいや、驚きますって。ハウスキーピングでも頼んだんですか?」


 僕の問いに、彼女は首を横に振った。


「お母さんが昨日来てて……」


 なるほど、だいたいの事は理解した。


「すると、その格好も?」


「うん、年頃なんだから見た目にも気を遣いなさいって」


 不服そうな顔でそう話す花沢を見ていると、何だかこみ上げるものが抑えきれず、思わず吹き出してしまった。


 クスクスと笑う僕を、花沢はジロリと睨み付ける。


「何笑ってんのよ」


「いや、失礼しました。僕としたことが」


 そして、僕と花沢は仕事の話を始める。


 あの日、大学の部室に何故花沢がいたのかはわからない。あの後も、僕は彼女にその事を尋ねなかったし、失踪していた期間にどこにいたのかもしらない。


 だが、それはどうでもいい事だ。


 今彼女はここにいて、こうしてボロボロのアパートで小説を書いている。


 何の問題も無い。


 これ以上、彼女のプライベートに踏み込む必要もない。


 僕たちの関係は、あくまでビジネスライクなものなのだから……。


 あらかた仕事の打ち合わせが終わった時、ふと花沢が僕を見つめた。


 その瞳は深く澄んだ色をしており、思わず引き込まれるように見つめ返す。


「……ねえ、先輩はアレから小説を書いているの?」


 恐る恐るといったように、花沢は僕に尋ねてきた。何故だか僕は少し気恥ずかしくなって眼を逸らす。


「えぇ……書いてるっちゃ、書いてますけど……」


 そう、アレから僕はまた小説が書けるようになっていた。


 十年間書けなかった事が嘘のように、今では自然に物語を綴る事ができる。


 僕の答えを聞いて、花沢は満足そうな顔をして頷いた。


「そう……よかった」


 何が彼女のお気に召したのかはわからない。


 しかし、彼女は僕が小説を書いている事が嬉しいようだった。


「完成したら、また私に見せてね……約束」




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る