第35話 あの日、あの場所



 あまりの暑苦しさに目を覚ます。


 エアコンを付けずに寝ていたため、部屋はまるで蒸し風呂のような熱気に包まれていた。


 開け放たれた窓からは、元気の良い蝉の鳴き声が絶えず聞こえてくる。


 どれだけ寝ていたのだろう? 窓から差し込む陽光を見るに、まだ日は暮れていないようだが……。


 グッと伸びをしながらベッドから起き上がる。歯を磨かずに寝たせいで、口の中がネトネトとしていて不快だった。


 いつものルーティンでコーヒーメーカーのスイッチを入れ、洗面所に向かう。顔を洗い、歯ブラシを加える。時間をかけてゆっくりと歯を磨き終えると、幾分かすっきりした。


 冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取りだし、一気に中身を飲み干す。チラリと作業机に視線を向けると、昨日徹夜で書き上げた小説が置いてあった。


 窓から差し込む陽光を受けて、手書きの原稿はどこか誇らしげな顔をしているようにも見えた。


 コーヒーが出来上がるまでの間、何となく机の上の原稿を眺めてみる。


 お世辞にも綺麗とは言えない殴り書きの文字を見て、僕の頭に浮かんだのは、やはり花沢の事だった。


 小説を書き上げたからといって、何が変わる訳でも無く、この出来上がった小説を、どこかの新人賞に応募するような事も無いだろう。


 僕のレベルでは小説家としてやっていくことは出来ない。それは、出版社で働いてきたプロとしての冷静な判断だ。


 しかし、実際に自分の書き上げた手書きの原稿を見ていると、無意識のうちに口角が上がってくるのを感じていた。


 部屋にコーヒーの良い香りが漂ってきた。どうやらコーヒーが完成したらしい。


 僕はマグカップにたっぷりの氷を入れると、出来たてのコーヒーをそこに注いで即席のアイスコーヒーを作った。


 マグカップを作業机まで運び、腰掛けるとゆっくりとコーヒーを飲む。


 よく冷えたコーヒーが体に染み渡り、思考がクリアになってゆく。何気なく原稿を捲った。手書きの文字をゆっくりと読む。


 こうして少し時間をおいて見てみると、やはりというべきか、作品の出来は酷いものだった。


 ストーリーの構成はメチャクチャだし、文章も稚拙で読めたものではない。


 しかし、こうして冷えたコーヒーを飲みながら原稿を読んでいると、こんな酷い出来の小説も、何だか悪くないような気がしてきた。


 悪くは無いという評価は少し不適切かもしれない。


 この小説は、手書きの原稿は、僕の物語だ。


 良いも悪いも無い。


 ただ、書かずにはいられなかった。


 他の誰でも無く、僕自身がソレを否定することは許されない。


 最後まで読み切った後、頬を一筋の涙が流れて落ちた。この感情を何と呼ぶのか、僕は知らない。止めなく流れては落ちる涙が、何だか暖かだった。


 僕は立ち上がり、物置から使い古したバッグを取り出す。バッグの表面に付いた埃を手で払い、穴など空いていない事を確認する。


 机の上に置いてあった原稿用紙の端をクリップで止め、僕は原稿をバッグの中に入れた。


 チラリと壁掛け時計を確認する。時計の針は、午後の17時半を示していた。もうすぐ日が暮れそうだ。


 財布をポケットにねじ込み、バッグを背負う。自分の行動に少し戸惑いながら、それでも迷いの無い動きで、僕は家を出たのだった。



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