5.漫画家の庭


 気難しい人だから気をつけろ。

 先輩編集者の言葉を思い出しながら、成宮は目の前の女性を改めて見つめる。

 彼女はファミレスのメニューをテーブルに広げ、楽しげに指で辿りながら注文に迷っていた。ページをめくる度、フェミニンに巻かれたセミロングの茶髪が春らしい桜色のカーディガン上で揺れる。上品なピンクゴールドの眼鏡は洒落たアンダーリムで、柔和な顔つきの彼女によく似合っていた。

「決めました、ミラノ風ドリアと豆腐サラダ、デザートはチョコレートサンデーにします」

 やんわりと微笑んで嬉しそうに料理名を口にした彼女は、おおよそ気難しそうになど見えなかった。

「わかりました。ボタン押しますね」

 店員を呼んで料理を頼んだ後、成宮は「改めて」と彼女に向き直った。

「春幻社の成宮晶です。今回、『部屋はひねもす』の担当になりました。よろしくお願いします」

「漫画家の大瀞ことろです。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」

 成宮の名刺をさらりとした仕草でバッグに仕舞い、大瀞は顔の前で軽く手を合わせ、小首を傾げて嬉しそうに言った。

「私、エッセイって初めてなんです。成宮さんは、エッセイの担当経験ってどんな感じですか?」

「……『よんプル』の担当から聞いているとは思いますが、現場に出たての新人でして。単独で担当させていただくのがそもそも初めてなんです。以前は赤垣のれん先生の担当の補佐をさせていただいていたんですが、赤垣先生は専ら……」

「時代物の推理漫画、ですもんね」

「はい。非常に勉強させていただきました」

「言葉ヘンになってますよ。緊張してます?」

 くすくす、と笑われて、成宮は「はい、まあ」と苦笑を返した。大瀞は春幻社の中でも一二を争う人気漫画家であり、一昨年には著書『クォーター・プルーフ(1/4の証明)』通称『よんプル』がアニメ化され爆発的にヒットした。今も第二クールが放送されており、既に第三期の製作も決定している。二十一歳にしてこの売り上げは、業界の中でも早熟な方である。自社の超新星を前にして、新人編集者が緊張するのは必然だった。

「今回はエッセイ風のファンタジーということで、先生がSNSで描かれていたラフの漫画を綺麗にして隔週連載、という流れになります」

 先程大瀞は「エッセイ」と言ったが、今回の企画、『部屋はひねもす』は日常系ファンタジーだ。ごく普通のマンションに住む漫画家が、少しだけ不思議な日用品を使って生活を送る姿が淡々と描かれる。元々大瀞が趣味としてブログに連載していたライトな四コマ漫画で、大瀞ファンからは密かに好評だったのだが、アニメ『よんプル』を切っ掛けにインフルエンサーが拡散して連載の話が持ち上がった。

「既にかなりストックがあるので、来月から寄稿していただきたいと思っています。メールでもお伝えしましたが……」

「はい、原稿こちらに持ってきてあります」

 生成りのトートバッグから茶封筒が出てくる。クラウドでのデジタル入稿も多い昨今だが、大瀞はアナログ原稿を直接提出するスタイルを崩さない。目の前で原稿チェックをしている担当の反応を確認したいのだそうだ。今回は初回ということで食事でもしながら、と大瀞からファミレスを指定されたが、次回からは出版社か大瀞の自宅で原稿チェックをすることになるだろう。

「食事が終わったらチェックお願いします。細かい部分は改めてで構わないので……あ、来ましたね」

 原稿を成宮に渡した大瀞は、豆腐サラダとスープを持った店員を目敏く見つけて手を拭き始めた。成宮も慎重な手つきで原稿を仕舞い、自分で頼んだスープときのこ雑炊をゆっくりと食べた。

「お若いのに足ります?」

 幸せそうにドリアをつつきながら、大瀞が問うた。

「胃弱気味で」

 成宮は茶を濁す様に曖昧に笑った。嘘では無いが、単独では初めての仕事だ。食事を楽しむ余裕など無いだろうと、胃の負担が軽そうな物を選んだのだ。

「私の担当さんって、いつも細やかそうな方が選ばれるんですよね」

 大瀞は口元を拭きながら注文ボタンを押した。気付けば目の前の皿は綺麗に空になっていた。

「ところで成宮さん、私のエッセイ、読まれましたか?」

「……はい、大瀞先生の過去作と一緒に、ブログにも全て目を通しました」

 あくまでもエッセイ、というスタンスに引っ掛かりながらも、成宮は淡々と返事をする。

「あはは、ちょっと恥ずかしいな~」

 デザートお願いします、と店員に声を掛け、大瀞はさして照れた様子も無く笑った。

「でも、そうですか。それだと、初見の反応は見られませんね」

 大瀞が笑顔を陰らせ、一瞬だけ遠い目をする。が、本当にほんの一瞬で、すぐニコニコした表情に戻った。成宮の脳裏に、先輩の「気難しい人だから」という言葉がちらつく。

「あれ、成宮さんにはファンタジーに見えましたか」

「ええ。ローファンタジーとして凄く素敵だと思いました……あの、予習しない方が良かったですかね?」

「いえ、仕事への心意気を感じて嬉しいです。でも、その……」

 ここまで柔らかくも快活な口調だった大瀞が、初めて言葉を濁した。口をつぐんだ大瀞に、チョコレートサンデーが運ばれてくる。大瀞は無言のままサンデーの大柄なグラスにパフェスプーンを突き立てた。

「……こちら、拝見させていただいても?」

 チョコレートサンデーと交換に空き皿が持ち去られ、広くなったテーブルに、先程渡された原稿を立てて大瀞の様子をうかがう。大瀞がこくりと頷くのを見て、成宮は原稿用紙を取り出した。

 修正跡の少ない綺麗な原稿用紙だった。慎重にめくる度、あたたかみと精密さが同居した美しい画面が展開される。鉛筆で描かれたラフな漫画が元とは思えない、画集の様な作画コストの原稿だった。朝のワンシーン、日光に混ざったシャボンを集めて洗顔をする、ただそれだけの風景が、三ページも費やされて丁寧に美しく描かれている。ひとつひとつの所作を丁寧に描きつつ、あっという間に二十九ページが過ぎていく。最後のページには、付箋に『仮 副題・朝』と書き付けたものが張られていた。

「いい顔しますね。ありがとうございます」

 成宮が顔を上げると、大瀞が静かに微笑みながらこちらを眺めていた。先程までの柔和な表情とは違って、自分の作品を成宮の反応ごと慈しんでいる様な、そういう顔だった。

「どうでした?」

「……すごく、素敵でした」

「よかった」

 ブログに載っていた漫画自体にチェックを入れてゴーサインを出しているので当然ではあるが、誤字脱字や不自然なカットは見当たらなかった。それどころか、コマを割り直しているにも拘わらず、四コマの淡々とした雰囲気がきちんと残っている。これ以上無い原稿だった。

「これが完成稿で大丈夫です」

「ありがとうございます。次回からは一応、コマを割り直したラフで提出するようにします。初回なので自由にやらせていただきましたが、本当はあんまり良くないですもんね」

 大瀞は、いつの間に頼んだのか、ホットコーヒーをすすって言った。

「で、なんですけど」

「はい」

「成宮さん、お口は固い方ですか?」

「……言うなと言われれば言いません」

「時間外労働はお嫌い? 例えば、休日に作家と取材に行くとか」

 質問の意図が読めない。再び脳裏に先輩の「気難しい」がリフレインする。

「作品に、必要であれば」

 恐る恐る返す成宮に、大瀞はうんうんと頷く。

「よろしい。最後になりますが、秋ちゃんから私について、何か言われましたか?」

 秋ちゃんというのは、恐らく『よんプル』の担当である秋本のことだろう、と成宮は内心苦笑した。体育大出身の鍛え上げられた身体を持つ強面な先輩に、秋ちゃんという愛称はいささか可愛らしすぎる。

「気難しい人だから気をつけろ、と」

「正直な人ですね。いいでしょう──成宮さん」

 大瀞は、ここまでで一番の笑顔で言った。

「今度の日曜、空いてますか?」



「私、普段はハイファンタジーばっかり描いてるじゃないですか」

「そうですね」

 約束の日曜日、成宮は大瀞の自宅でお茶をいただいていた。

 ハイファンタジーとは、簡単に言うと、まるごと架空の世界を舞台にしたファンタジーである。怪物が跋扈し、勇者がお姫様を助けに行くような物語なんかが当てはまる。反対に、現実の世界にファンタジー設定が組み込まれたような物語をローファンタジーと言う。『部屋はひねもす』はローファンタジーだ。

「どうも、ローファンタジーを考えるのって苦手なんですよね。読むのは大好きなんですけど、描いてて「産んだ!」って感じがしないので」

 喋りながらお茶と茶請けを用意する大瀞を尻目に、成宮はこっそり部屋を見渡す。

 大瀞の家は、郊外にひっそり佇む一戸建ての平屋だった。まるで白い箱の様な外観をしていて、案内されたダイニングは明るい木調のシンプルな部屋だった。中央の広い角テーブルと二組のカウチソファの他に、目立った家具は見当たらない。唯一特徴的なのは、広く取られたガラス戸だろうか。ほぼ部屋の壁一辺が、丸々ガラス張りの引き戸四枚でできている。しかし、折角のガラス戸から見えるのは、味気ない隣家の壁や駐車場だった。隣家に庭でもあれば違ったのだろうが、美しい眺めどころか明かり取りとしても大して役立っている様には見えない。

「はい、おまちどうさん」

「あ、えと、どうも」

 茶化した口調で出されたお茶は、なにやらハーブティーらしかった。胃弱のせいで漢方やハーブティーに詳しい成宮だが、嗅いだことのない匂いだった。

「何のお茶ですか?」

「そこら辺の草です」

 成宮は思わずお茶を吹き出しそうになった。

「ごめんなさい。嘘とか冗談とかじゃ無いんですけど、大丈夫な『そこら辺の草』なので許して下さい。胃弱にも効きますよ」

 アップルミントだろうか、と成宮は首を捻った。繁殖力が強くて野生化しやすく、胃腸に優しいハーブである。しかし、香りや味は全くの別物だった。

 不味くはないが不思議な味のするそれをすすりつつ、成宮は先程の大瀞の言葉を繰り返した。

「ローファンタジーが苦手なのは、過去作品を見ていても何となく分かりましたが、じゃあ、どうして『部屋はひねもす』を描いたんですか?」

「それなんですよ。今日は成宮さんに、そこをお伝えしたくて」

 大瀞は成宮の向かいに腰を下ろし、テーブルにノートを広げた。開かれた白無地のA4ノートに描かれているのは、ブログで公開されているラフな『部屋はひねもす』だった。

「トイレットペーパーの回です。読みましたか?」

「はい」

 主人公の漫画家がトイレットベーパーを切らしていたのを思い出し、庭に生えた木に生るトイレットペーパーを収穫する話だ。トイレットペーパーの芯が花心になっている紙の花が咲き、散ると同時に少しずつロールが厚くなっていって、最終的に市販のトイレットペーパーと同じ物が実る。それを小さな剪定ばさみでごろんごろんとウィローのかごに落としていくのだ。成宮のお気に入りの話である。

「今日、丁度収穫の日なんです」

「……えっと……」

 言葉に困る成宮はそっちのけで、大瀞は立ち上がり、ガラス戸のカーテンを閉めた。元々の日当たりが良くない上に室内照明もあるとはいえ、巨大なガラス戸が閉め切られて部屋が少し暗くなる。

「このカーテンは借り物なので作中に出せないんですが、カシニワのカーテンっていうんです」

「……お高いんですか?」

「えっ?」

 きょとんとした顔で大瀞が振り向く。

「カシミヤでカーテンでレンタル品って、凄く高そうだなと」

 分厚いコーヒー色の遮光カーテンからは、カシミヤらしい光沢は見られない。しかし成宮には、それ以外に思い当たる物がなかった。

「あはは、カシミヤですか。確かに似てますね」

 成宮が半ば混乱しながら自分の耳と目を疑っていると、大瀞はくつくつと笑ってから言った。

「庭を貸すと書いて『貸し庭のカーテン』です。ド○えもんのど○でもドアと似た感じの、不思議アイテムですよ」

 しゃっ。

 大瀞がカーテンを一気に開け放つ。

 そこには、目に染みるような緑が広がっていた。

 様々な植物がひしめく様に生い茂っているが、成宮の知る植物は一つも無い。真円の葉を付けた大樹やら、薄ら青く発光する花を咲かせた低木やら、そこかしこに蜂の巣をぶら下げた密色の木やら、一見しただけで変だと分かるような木々が文字通り林立していた。その足下にも、異様に長いツルが渦巻く様に重なった植物や、緑色の艶やかな花を沢山付けた芝の様な何かや、とにかく見覚えの無い草花がびっしり生えている。

「これは……」

「びっくりしました?」

 成宮には、こくこくと頷くことしかできなかった。

「知り合いが管理しているキジュの植物園です。七十七歳の記念じゃ無いですよ? 奇妙な樹木と書いて『奇樹』です」

 さあ、と大瀞に促され、成宮は植物園に足を踏み入れた。室内用のスリッパのまま迷い無く進む大瀞について歩いていくと、元いた部屋のガラス戸はたちまち後方へ消えて見えなくなった。迷ったら一生出られないのでは無いか、とぞっとしながらも、濃すぎる緑の中を散歩する様に進んでいく。

「ほら、上見て下さい」

 言われるままに見上げると、ドーム状に枠組みされた透明な天井があった。レンズの様な天井に歪められて、青空と真っ白な雲が見える。

「すごく広いので、私もまだ全部は見られてないんです。今度探検しましょう」

「今度……?」

「ほら、着きましたよ」

 大瀞の指差す先には、『部屋はひねもす』で見た通りの木が立っていた。ごろごろとトイレットペーパーが生る、少し背の低い常緑樹。その足下には、これも作中で見たウィローのかごが無造作に置かれ、畳まれた脚立が幹に立てかけられている。

「……夢の中みたいですね」

「良い感想です」

 大瀞はかごを手に取り、片手で器用に広げた脚立によじ登った。

「作中では、剪定ばさみが必要でしたが、実際はこうです」

 ふうっ、と大瀞が思い切り息を吹きかけると、トイレットペーパーは小さく震えてからぼろっとかごに落ちた。

「手は疲れませんが、二ダースも収穫する頃には軽く息切れします。手伝って下さい」

 成宮の手伝いで、あっという間にかご二杯分のトーレットペーパーが収穫された。

「面白いでしょう? 『部屋はひねもす』は、こんな感じで全部が実話に基づいているんです」

 大瀞が躊躇いなく木陰に寝転ぶので、成宮も半ばやけっぱちな気持ちで隣に寝転んだ。ぷんと草の匂いが鼻孔をくすぐった。

「でも、全部そのまま、というわけじゃないんですね」

「ええ」

 成宮が見たところ、紙の花や実りかけのトイレットペーパーなんて一つも無かった。全てが全て、完全に市販のトイレットペーパーだった。

「紙の花の設定、あえて付け足したんですね」

「フィクションでがっかりしましたか?」

「……」

 がっかりもなにも、元々ファンタジーだと思って読んでいたのだが、それを言うのは野暮だろうと成宮は言葉を飲み込んだ。

「……確かに、納得感は薄いかも知れません」

「現実はそんなものなんですよ。不思議な物は最初から最後まで不思議で、理不尽です。『部屋はひねもす』においては、設定だけが捏造で、全部後付けです」

 だから、確かにエッセイとは言えないのかも知れませんね。

 目を閉じて呟く様に言った大瀞の横顔には、木漏れ日が落ちて静かに揺れていた。

「読者が求めてるのは、真実じゃ無くてリアリティなんです。もっともらしい方が『ありそう』でロマンがあるでしょう。私の仕事は現実を切り取る仕事じゃ無くて、夢を描く仕事なんです。だから……」

「……大瀞先生?」

 成宮は、上体を起こして大瀞の顔を覗き込んだ。大瀞は目を閉じたまま、深く呼吸を繰り返している。

「……寝てます?」

「起きてます」

 ぱちりと目だけ開いた大瀞に、成宮はびくりと身体を硬直させた。

「うわびっくりした」

「すみません、あんまり気持ちいいから少し深呼吸してました」

 大瀞は寝転がったまま、成宮の目をまっすぐに見つめる。

「だから、成宮さん。私は、面白くないと思った話は絶対描きません。面白くするためなら、いくらでも嘘を吐きたいんです。でも、『部屋はひねもす』は実話ベースの話にしたいので、ちょっと困ってたんです。登場人物は二人が良いなって、ずっと思ってました。

 ――手伝って、くれますね?」

 言外に、ここまで見てタダで帰れると思うな、と言われている様な気がした。同時に成宮は、秘密を打ち明けたときの不安さを言葉尻に感じていた。まだ二十一の彼女には、一体どれほどの秘密があるのだろうか。ただの担当編集の自分に、どれほどのことができるだろうか。

 これから探していこう。そう思った。


「作品に、必要であれば」

「よろしい。――嘘です。ありがとうございます」

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