閑話 クウォーター・プルーフ

 船首に吊った夜光虫篭の蒼光が、広い地下水路を流れる水にちらちらと反射する。ぎぃ、ぎぃ、と小さな木船を漕ぐ音と、豊かな水音だけが煉瓦造りの水路に響く。

「……アンタ、猫人か?」

 無言でひたすら櫂を漕ぐ子供に、ただ一人の同乗者が声をかける。蓮っ葉な口調の女は、口元だけでニィと笑い、分厚い革ローブのフードから覗かせた赫灼の目で子供を睨めつけた。

 子供は、安い火蜥蜴革で出来たぶかぶかのローブを着て、フードの影から微かに見える顔は包帯に巻かれていた。同じく火蜥蜴革の長手袋と巻きゲートルが四肢を覆い、麻の服と革の隙間から除くのは、顔と同様に薄汚れた包帯だけだ。モカシンを履いた足からは、革の擦れる音物音一つしない。

 薄暗い地下水路でそれだけの事が見て取れたのは、女が夜目の効く蝙蝠人であった為である。

 かつて『川守り』と呼ばれた哺乳類を祖先に持つこの種族は、代々この都市の水路を守って来た。殆どの船漕ぎは顔見知りの蝙蝠人なので、女は不審に思ったのだ。

 蝙蝠人の子供に比べ、船漕ぎの子供は頭が大きく背が波打っていた。ニッカポッカとゲートルで巧妙に誤魔化してはいるが、左足に比べ右足が微かに太い。長い尾を隠しているのだろう。

「……」

 子供は応えない。賢明だ、と女は思った。

 女は亡命の最中であった。蝙蝠人は基本的に水路の管理を本職とするが、金次第では様々な仕事をする。密偵の仕事がバッティングし、二重スパイとして双方からギャラを取りつつ双方と敵対した女は、事が露見する前にこの街を去ろうとしていた。その道程、乗り継ぎの一つ。戯れに交した会話から火の粉が降り掛かって来たら堪らない。女もその辺りは心得ているので、ここまでは一度も言葉を発しなかった。利害に生きる蝙蝠人は、同族との距離感と礼節を重んじる。ここまでの船漕ぎは、全員が見知った蝙蝠人だった。

 だからこそ、女はこの子供が漕ぐ船に乗ってから一度も警戒を解いていない。

「ヒョードルの旦那の紹介だ、ガキだ猫人だを理由に勘繰るつもりは無い。無事に運んでさえくれれば、それでいい」

 女は言い捨て、再び黙った。

 ──猫人か。

 女は子供の背をじっと見つめながら、物思いにふける。

 この街では、猫人は非常に珍しい。文献で得た知識から推察してみたものの、女が猫人をその目で見たのは、幼少の頃の一度きりである。

 その猫人は、金の瞳の黒猫だった。まだ少女と呼べる年頃の女が仕事でしくじり、追手に怪我を負わされたところを助けてくれた。その時に貰ったペンダントと、「またいつか、生きていたら会えますよ」という彼の言葉に、これまで何度助けられてきたことか。

 ──この子供に訊けば、彼の所在が分かるだろうか。

 自分の未練に気付いて、女は自嘲気味に失笑する。今まさにこの街を出ていかんとする人間が望んで良いことでは無かった。少なくとも五年は戻れないだろう。それまで自分が生きている保証もない。

「……猫人は、成人しても小柄なんですよ」

 不意に声がした。物腰柔らかな、妙齢の男の声だった。女は咄嗟に蹲踞の姿勢を取り、腰に挿した短剣の柄を素早く握る。

「尤も、蝙蝠人が極めて大柄なだけだと、僕なんかは思いますがね」

 目の前の子供──否、猫人の男は手を止めて、振り返ってフードを外した。

 女の目が見開かれる。

 黒い耳と金色の眼が、薄明かりを艷やかに反射した。

「お久し振りです。覚えていますか、お嬢さん」

 包帯をはらりと緩め、彼は優しく微笑んだ。


   ◆ ◆ ◆


 地下水路を漕ぎ進む船を背景にEDテーマがフェードアウトしていき、画面がゆっくりと暗転する。

 次の瞬間には、ポテトチップスのCMが陽気にテーマソングを歌いだした。

「っ、は〜〜〜〜!」

 息を詰めてテレビに齧り付いていた大瀞ことろは、大きく息を吐いて脱力した。手探りでリモコンを持ち上げ、ぶつんと画面を落とす。

 そのまま流れ作業でスマホを手に取り、用意していたイラスト画像に用意していた文言を添えてツイートした。


『「クウォーター・プルーフ」第一期完結です!素敵なアニメを作り上げてくださった関係者諸氏、ご視聴と沢山の応援をくださった視聴者の皆様、ありがとうございました!』


「は〜……良かった……」

 最初にアニメ化の話が来た時は少し不安だったが、こんなに原作を大切にしたアニメを作って貰えるなんて。漫画家冥利に尽きる。

「おっしゃー!」

 余韻に浸っている場合ではない、と、ことろはペンタブに手を伸ばした。

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