4.あと、百日。

 思えばそれは、水曜日を象徴する様なうさぎだった。


 日課の早朝ランニングで火照った身体をクールダウンさせるために、紅葉狩りも兼ねてゆっくりと散歩している最中のことだった。ほの明るく白んできたペールブルーの空には高い雲がたなびき、川は穏やかにせせらぎ、橋の上にはうさぎが鎮座していた。

 うさぎ。うさぎである。

 一瞬、こんな像がここにあっただろうか、と自分の記憶を疑った。私は思わず歩を止めて、そのうさぎに近付いた。橋の欄干、擬宝珠――俗に言う玉ねぎの上に、丸々と大きな白ウサギがどっしりと座っている。ほぼ動いていないが、風に吹かれた毛はふわふわと乱れ、時折耳やら鼻やらがぴくぴくと動いた。本物だ。生きている。ぱちぱちと瞬く小さな目は、微かな朝日を受けて愛らしくきゅるんと光っていた。

「……え、えぇ~?」

 口が嘘っぽい驚嘆を漏らす。あまりに突飛すぎて、いまいち実感が湧かない。

 どうしよう。

 見てしまった以上どうにかしてやらなければと頭を巡らせる。

 見たところ毛艶は良く、ほとんど汚れていない。私が近付いても逃げる素振り、どころか不動の姿勢を貫いているところを見るに、かなり人慣れしている様子だ。あくまでも予想だが、つい最近まで人間に世話をされていたのだろう。

 つまりこのうさぎは脱走、あるいは捨てられてここに居るのだ。橋の欄干はそれなりの高さで、玉ねぎだって多少平たいとはいえ先が尖ってる。うさぎ自身が敢えてこの場所を選ぶとは思えない。おおかた飼い主が人目に付きやすかろうとこの場所を選び、置き去りにされたうさぎは身動きがとれなくなってしまったのだろう。

 ビュウ、と強く耳を掠めた木枯らしにハッとする。

 うさぎがあまりにもふてぶてしい顔で座っているので失念していたが、今は十月上旬。腕時計は六時五分を示していた。冷え込みが厳しくなってきた時候の早朝である。今のところうさぎに震えなどは見られないが、もたもたしていたら凍えてしまうかも知れない。私は首に巻いていたタオルをはたいてから二つ折りにして、恐る恐るうさぎに差し出した。

「……来ますか?」

 うさぎは眠たそうにタオルを一瞥して、寝かせていた耳を片方だけぴょこんと上げた。いかにも「よきにはからえ」といった風である。思わずぺこりと小さく会釈してから、タオルでうさぎを包んで抱き上げた。ボウリングの玉ほどの大きさをしている割には軽い。毛量が多いために大きく見えていたりするのだろうか。触感では痩せているという風でもなさそうだった。とくとくと鼓動がして温かい。紛れもなく命を抱えているのだという実感が今更湧いて少したじろいでしまった。

 私はそのまま、うさぎを抱えて自分のアパートに戻った。多くのアパートがそうである様に、我が『コーンハイツ』もペット禁止である。私はめいっぱいきょろきょろして無人であることを確認し、手早く自室に逃げ込んだ。見た目ほど重くないとはいえ、抱えているのは生きたうさぎである。憮然とした見た目に反して弱っているんじゃ無いかと心配になるほど大人しかったのでどうにかなったものの、この先ずっと隠して飼い続ける訳にもいかないだろう。幸い、アテは無いでも無い。仮住まいとして数日の安全を提供できれば、後はどうにかなるだろう。

 その場のインパクトに押されて連れてきてしまったが、私の生物飼育経験は小学三年生時のカブトムシが最後である。うさぎがどんな声で鳴くのかもわからない。騒音などは大丈夫だろうか。取り敢えず大家さん宛にざっくりした言い訳のメールを送った。情に厚く、自身も犬と猫を飼っている大家さんのことだ。一晩や二晩くらいは大目に見てくれるだろう。

 放し飼いというわけにも行かないので、押入れから一番大きな段ボールを取り出し、六畳一間の自室の中央に設置する。新聞とタオルを底に敷き、水やカット野菜と一緒にうさぎを箱へ入れた。少し懐が痛むが命にはかえられぬとエアコン・加湿器・電気カーペットを付けっぱなしに設定し、ようやく人心地がつく。ここまでずっと気にしていた腕時計は、七時十三分を指していた。どうにか間に合いそうで胸をなで下ろす。

 休日ならこのままうさぎの将来について頭を悩ませる余裕もあろうが、今日は水曜日である。

 私は急いでシャワーを浴び、ランニングに出る前に用意していたオニオンスープを温め直しながらトースターにパンをセットする。フライパンを温めてベーコンをカリカリに焼き、卵を落として蓋をする。

「水曜日はオニオンスープ……♪」

 中学生の頃に作ったメロディに乗せて口ずさむ。

「トースト、カリカリベーコンエッグ……♪」

 着替えを済ませて手早く朝食を摂り、化粧とヘアセットにとりかかる。

「靴下は赤、髪はシニヨン……♪」

 出勤用の大きめなトートバッグから手帳を取り出し、出かける前の最終チェックをする。

 仕事上がりに書き込まれた予定に、小さく胸が躍る。

「ハンカチーフはそらいろに、銀の刺繍のRABBIT&RABBITS……♪」

 玄関の全身鏡の前でくるりと一周し、変なところが無いことを確認する。

 よし、完璧。

 うさぎのことだけが心底気がかりだが、今のところ目立って具合が悪そうな振る舞いは無い。最寄りの動物病院を調べ、直近で予約が空いている明日の夕方に申し込みをした。うさぎ用の餌を売っていそうな場所にも目星を付けたし、無駄足だった時のためにネットでも牧草を注文した。

 万策は尽くしたつもりだ。どうしても今日の予定はキャンセルしたくなかった。

「うさぎさん」

 私は段ボールを覗き込んで手を合わせた。

「ごめんなさい。今日は帰りが遅くなります。帰ってきたら絶対にブラッシングします。ごはんもできる範囲で用意します。昼休みに警察にも届け出る予定でいます。貴方の新しい飼い主にも心当たりがあります。だからどうか、今日だけ許して下さい」

 一通り懺悔を終えた私は深々と一礼し、一抹の不安と期待を抱えて出社した。


 予定を組むのが好きだ。

 小学生の頃から、時間割や夏休みの計画表を書き込むのが好きだった。やることを決めて、決めたとおりに物事をこなすのが楽しかった。

 それに拍車がかかったのは、中学に上がった直後だった。私の髪は生まれつき色素が薄い。大人になって大分目立たなくなったが、幼い頃は目に見えて茶髪だった。それが切っ掛けで、一時期学校に通えなくなったのだ。たかが髪色ひとつに大袈裟なことだが、当時の私には大事だった。結局その騒動は一週間ほどで落ち着いて、私は無事に中学生活を満喫した。

 しかしその折、母が不安げに溢した一言が、私の将来を大きく変えることになる。

「やっぱり、栄養不足なんじゃ……」

 それまでの私は酷い偏食で、その上食べるのがとても遅かった。更に自分で『食事は一時間以内』と決めていたので、出された料理を残すことも珍しくなかった。

 ――そのせいで、こんな大事になってしまった。

 当時の私はそう思ったのだ。そこから栄養学を学び、毎日のメニューを組み、台所に頻繁に立つようになった。髪の色に食生活がさほど関係ないと知るまで時間はかからなかったが、母が安心するなら越したことは無いと思った。それに何より、料理は楽しかった。段取りを組むことに楽しさを見いだせる私と料理は、非常に相性が良かったらしい。

 以降、私は毎月頭に献立表を作っている。その内献立に限らず、着る物や家の掃除、消耗品の消費量、テレビ番組や本などの嗜好品まで、あらゆる視点で可能な限り予定に組み込む様になった。常時携帯しているマンスリー手帳、週間バーティカル手帳、一日一ページ手帳の三種類には、それぞれびっしりと文字が並んでいる。

 普通の人間はそこまでしない、病的であるという自覚はある。しかし私は、この習慣のおかげですこぶる生き易くなった。取捨選択は最低限で良い。余計なことを考えないから、その分常に百パーセントで行動できる。しかし予定に雁字搦めにされているわけでは無い。予定はあくまで地図であって、実際の交通規制は反映されないことを、私はよく知っている。旅にトラブルは付き物だ。だから、より信頼できる地図が欲しいのである。

 また、余計なことを考えない為に、手帳の他にも対策していることがある。

 それが、『対外用の好み』だ。

 私には嫌いな物が少ない。幼い頃は好き嫌いを幾らでも言えたが、今となっては懐かしいほどに何も浮かばない。

 しかし、人生には様々な『問われる』場面がある。

 甘党か、辛党か。

 猫派か、犬派か。

 好きな色は何色か。好きな数字は何か。

 好きな食べ物は何か。嫌いな食べ物は何か。

 何が好きか、何が嫌いか……差し障りがない範囲でなら、人間はいくらでも深掘りできる。好みはその人の人間性だ。わかると安心するし、あまりに不明だと気味悪がられる。

 なので私は、それらになるべく答えられる様に、あらかじめテンプレートを作るようにした。嫌いで無いものの中から適当に選び出したものを、好きだと公言することにしたのだ。

 私は、辛党で猫派で紫と4が好きでラーメンを好みパクチーを嫌う人間として、自分をプロデュースしている。嘘は言っていない。パクチーは味を知らずに一生を終えようと思っている。食わず嫌いも立派な『嫌い』だ。

 こういうものは、言っている間に本当になっていく物である。人に何某を好んでいると宣言することで、自分の周りにその何某が集まってくる。自然とそちらにアンテナを伸ばす習慣がつき、結果的に何某への愛着が生まれる。私の好みは作為的だが、だからといって偽物になるわけではない。

 そんな私の好みの中に、『RABBIT&RABBITS』、通称ラビラビというブランドがある。リアルなうさぎをモチーフにしたブランドで、マスコットキャラの『ラビチュ』を主役に立てた子供向けアニメが十年以上続いている。広い層に根強い人気を誇っており、今では様々な分野とコラボしている超大手だ。ラビラビのコラボグッズだけで生活しようと思えばできてしまうほど、広範囲のジャンルをカバーしている。ぱっと見て分かる物から、知らなければブランド品とわからないような意外性のある物まで多種多様だ。

「それ、ラビラビですか?」

 同期の神崎君は、入社して間もなく、私の眼鏡拭きに気付いて声を掛けてきた。黒ベースにエンボス加工で大きなうさぎがプリントされているだけの、広げて全体を見なければうさぎモチーフにすら気付けない玄人向けグッズである。気付いたのは彼が初めてだった。

 それをきっかけに神崎君と打ち解け、プライベートでも頻繁に会うようになっていく。彼はラビラビに限らず、動物をモチーフにしたグッズに目がないコレクターだった。実際の動物には嫌われやすいらしく、気付いたらリアル調のグッズがどんどん増えていったのだという。

 動物について語る神崎君は少年の様な眩しさがあり、会う度に惹かれていった。私は五回目の食事で告白し、私達は晴れて恋仲になった。

 ――今日は、付き合って百日目の記念日だった。


 午後七時四十三分。普段通り会社近くのスーパーに車を止めて待っていると、こんこんと窓がノックされた。

「おまたせ」

 仕事終わりの疲れを感じさせない声で、神崎君が笑う。私もつられて頬を緩め、一緒に食材を買って神崎君の家に向かった。

 神崎君は古い一軒家に一人で暮らしている。元々は七人家族だったらしいが、ご両親が早くに亡くなり、おじいさんとおばあさんもご高齢で最近鬼籍に入ったという。双子の妹さんは東京でシェアハウスをしながら大学生をやっている。無駄に広い古民家を、神崎君は一人で管理しているのだ。

「ただいま~」

「ただいま」

 暗い無人の家に向かって声を掛けるのにもすっかり慣れた。神崎君いわく、これは家に挨拶しているらしい。

 勝手知ったる神崎家で、私はさっさと食事を作りにかかった。月、水、金と土日は、こうやってお邪魔して何かと世話を焼いている。気分は通い妻である。

「飲むー?」

「買ってある~」

 台所に面した茶の間に声を掛けると、気の抜けた声が返ってくる。私はにんまりして幸せを噛みしめる。

 こういうやりとりが好きだ。

 作った料理をテーブルに並べる。作る端から神崎君が茶の間に運んでいく。気付けば、シャンパンとシャンメリーの瓶が並んでいる。私は運転して帰るので飲酒できないが、ザルの神崎君はいつも私の飲み物と似た味のお酒を揃えて、一緒に飲んでくれる。

「今日のお酒、豪華だね」

「記念日だからね、ちょっとだけイイヤツ」

「良いね~」

 二人揃ってこたつに潜り込む。普段は付けっぱなしのテレビが、今日は付いていない。並んだ料理の真ん中に、小さな赤いキャンドルが置かれていた。ささやかな火がゆらゆら揺れている。

「……クリスマス?」

「俺もちょっと思った。でもおめでたい感じしない?」

「する」

 今日の百日記念日は、神崎君が発起人である。私にはそもそも、交際期間を区切って祝うという発想が無い。神崎君に言われて初めて、もう百日も経つのだと知った。

 神崎君は、私ほどスケジュール管理に厳しくない。なのにこうやって暦を数えて気に掛けていてくれたことが、本当に嬉しかった。

「じゃあ、百日記念に乾杯」

「乾杯」

 戸棚から引っ張り出してきたワイングラスを軽く合わせ、口を付ける。シャンメリーの炭酸が心地よかった。いつもより食事が美味しい気がした。お喋りも心なしか軽やかだ。やっていることはいつもと変わらないのに、ちょっとした演出と記念日という言葉だけで、こんなにも幸せな気持ちになれるものなのか。我ながら単純だが、単純で良かったと心から思った。

「美味しかった、ごちそうさまでした」

「おそまつさまでした」

 食事を終えて、余韻を楽しむ暇も無く皿を洗い始める。普段ならテレビを見つつだらだらと喋ったり、ボードゲームをしたりするのだが、今日は勝手が違う。スーパーからの帰り道で、うさぎの件はもう話してあった。明日に予約を入れた動物病院にも一緒に行って貰うことになっている。その後は神崎君が引き取る手筈だ。

「うさぎ、俺で大丈夫かな」

 隣で皿をすすぐ神崎君が、不安げに溜息を吐く。

「嫌われるっていっても、流石に一緒に住んでれば慣れるんじゃない?」

「それもだけど、ちゃんと世話できるかなって」

「そこは一ミリも心配してない」

 確かに神崎君は飼い主経験こそゼロだが、動物好きを拗らせて『エア動物』を飼っていた実績がある。リアル調のぬいぐるみを動物に見立てて一週間世話をするという、高度すぎるおままごとだ。定期的に行ってはブログにアップしている。設定がかなり詳細に決まっており、なかなか面白い。実際にその動物を飼っている人達からも好評らしい。

 私は神崎君が楽しければ別に良いと思ったが、本人としてはかなり覚悟を決めてカムアウトしてくれたのだという。実際「知識がリアルすぎて気持ち悪い」だの「狂人の遊び」だの、ブログのコメントは散々だ。もちろん褒め言葉の裏返しもあるのだろうが、普通とは言い難い趣味であることに変わりは無い。

 丁度良い機会を得た、とばかりに私も手帳を見せた。毎月頭の習慣を説明して、気持ち悪いかと問うてみたが、彼のリアクションはごく薄い物だった。

 お互い、ちょっと変な趣味を持っているが、それでも好きに変わりは無かった。

「何にやけてんの? 俺不安なんだよ?」

「ごめんごめん、ちょっと思い出し笑い。大丈夫だよ神崎君なら」

 軽く笑って返す。神崎君は少し黙って、呟くように言った。

「その、神崎君っての、やめない?」

「あー、最初から神崎君だっただからなー。今更変えるの、変じゃない?」

「だって、同じ名字になったら困るでしょ」

 皿を洗う手が止まる。一瞬、意味を理解できなかった。

「……えっと」

「結婚、するでしょ、俺と」

「……えっ、え、ええ?」

 プロポーズだ。

 これプロポーズだ。

「しない?」

「……する、けど」

 危うく取り落としかけた茶碗をしっかりと握り直し、再び手を動かす。

「なんで皿洗ってる最中に……プロポーズ……」

「ご飯中に名前呼ばれなかったから」

「切り出し方、決めてたわけね……」

 一周回って、静かに笑いがこみ上げてきた。声を殺して笑いながら泡だらけの茶碗を渡すと、神崎君は「そんな笑わんでもいいじゃん」と子供のように唇を尖らせた。

 記念日だから祝おう、と言われたときから、実は少し期待していた。

 私は今日、初めて彼を名前で呼んだ。


 左手の薬指に指輪を光らせて帰宅した私を、あのうさぎは微動だにせず待っていた。

「……食べてない」

 朝に見た位置から、うさぎも野菜も動いていない。糞も見当たらない。水を飲んだ形跡も無い。急に点いた部屋の明かりにも無反応だ。

「ちょっと失礼しますね」

 私は怖がらせないようにと声を掛け、数回背中を撫でてから抱き上げた。今朝と変わらず、小さな重みと拍動とぬくもりが腕の中にすっぽり納まる。弱っているようには感じない。うさぎについては神崎君――もとい賢人にいろいろ教えて貰った。脈も正常、目も鼻も口元も汚れていない。耳を痒がる気配も無い。腹部が張っている感じもしなければ、飢えてガリガリという感じもしない。

「……どうしよう」

 口に出してみたものの、こればかりはどうしようもない。明日、動物病院できちんと見て貰うしか無いだろう。素人の私にできることなどたかが知れている。

 やはり動く気配の無いうさぎを、買ってきたブラシでブラッシングする。そのまま段ボールに戻し、再び優しく撫でてから、照明を小さくして寝支度を調えた。賢人に貰ったペレットを平皿に出し、カット野菜と取り替える。これならもしかしたら食べるかも知れない。

「安心してください、明日ちゃんと見て貰えますからね」

 寝しなに声を掛け、また撫でる。私の朝は早い。暗い内に電気をつけて起こさない様に、段ボールには毛布をかけた。

 大丈夫。この子は賢人のところへ行くのだ。

 きっと大事にされて、幸せに暮らせる。

 自分にそう言い聞かせながら、私はベッドに潜り込んだ。

 ――眠りに落ちる間際、「世話を掛けた」と声が聞こえた気がした。


 翌朝。四時ぴったりのアラームで起床する。イヤホンからの音漏れを気にしつつ、段ボールをそっと迂回してランニングに出かけた。結局電気は付けなかった。

 六時三十二分に帰宅し、ようやく異変に気付く。

 段ボールに毛布が掛かっていない。

 毛布どころか、中身が無くなっている。

 私は小さく悲鳴を上げ、大慌てで部屋中を確認した。そして、何もかもがおかしいことに気付いた。

 昨日出したはずの毛布が未使用のまま仕舞われている。うさぎを包んだはずのタオルが洗濯機に掛けてある。水を入れたはずの皿が食器棚に積まれている。冷蔵庫の野菜が減っていない。貰ったはずのペレットがどこにもない。

 もしかして、とスマホを確認する。

 動物病院の予約が消えている。大家さんに送ったメールも見当たらない。警察にかけた電話の履歴が無い。牧草の注文履歴はおろか、うさぎについて慌てて調べた検索履歴すら跡形も無かった。

「そんな……」

 狐に、否、うさぎに化かされたような心地である。一体どうなっているのか。

 驚きのあまりスマホを持って硬直していると、画面にメッセージ通知が表示された。

 賢人だ。

『話したいことがある』

『金曜の夜、この場所で』

 手短なメッセージに続いて、名刺の様な画像が添付された。喫茶店のショップカードらしく、簡易的な地図が付いている。店名は『喫茶 神楽草』。検索してみたがヒットしなかった。住所を調べると、かなり遠い。本当にその店があるのだとしたら、山奥にぽつんと建っていて、商売になるのだろうか。

 一度に情報が入ってきて何が何だか分からないが、取り敢えず言われたとおりに行くことを決めて、木曜日の歌を口ずさみながらルーティーンをこなす。戸惑っていても時間は過ぎていく。今日も元気に出勤せねばなるまい。

 どうにか出勤すると、賢人がどうしているか知らないかと上司に問われた。どうやら、体調を崩したので休むと電話があったらしい。

 それから金曜まで、賢人からは音沙汰が無かった。家に行ってみても明かりは付いておらず、チャイムを鳴らしても返事が無い。

 私にはどうしようもなかった。

 どうしようもなく不安だった。

 金曜日の夜、私は縋る様な気持ちで約束の場所へ車を走らせた。


 職場からほど遠い山道を走り、到着した喫茶店は、喫茶店というより植物園の様な外観をしていた。様々な植物が月に照らされてそよそよとさざめいている。平生であれば感動して写真でも撮りたくなる様な美しさだが、私は足早に石畳を駆けて店に入った。

 店、というより、古民家に近いような造りの喫茶店だった。細々としたガラス細工の置物や絵画が雑多に配置され、妙な調和を生んでいる。シックな木調の店内には、三人の男がいた。

「いらっしゃい」

 その内の一人が、奥のカウンター越しに私へ声を掛ける。長い髪を一つに結ったバーテンダー風の青年だ。一瞬悲しそうな顔で私を見て、繕うような笑顔で「どうぞ、座って」とテーブルを示す。

 そこには賢人と、お坊さんらしき人が座っていた。お坊さんが会釈する。賢人は私を見て軽く手を振った。

 私は頭に血が上って、思わず賢人に掴みかかった。

「何やってたの! どれだけ! どれだけ私が、心配したと……!」

「お嬢さん、落ち着いて」

 お坊さんの宥める声にも構わず、言い募ろうとして、はたと気付く。

 賢人は、こんな顔だったろうか……?

 間違いなく賢人である。髪型も、顔も、服装も、私の知る賢人と一致している。

 しかし、賢人のこんな顔は見たことが無い。

 いつも人当たりの良い笑顔と子供っぽくくるくる変わる表情を見せてくれる賢人の顔が、酷く冷たく見える。

 睨まれているわけでも無い。呆れられているわけでも無い。蔑まれているわけでも、鬱陶しがられているわけでも無い。ただ、表情に温度が無かった。賢人らしさ、人間らしさが、欠片も見いだせなかった。

「……落ち着いた? 座れるかな?」

 賢人は、賢人の声でそう言って、私の頭を軽く撫でた。彼に頭を撫でられたのは初めてだった。賢人はよくハグをしてくれたが、撫でられたことは無かったことに気付いた。

「誰……?」

「凄いな、やっぱりわかるんだ」

 賢人の姿をした誰かは、そう言って再び座るように促した。私は大人しく従う。

「ウジョウ、どうだ」

「今アンタが散らしただろう」

 ウジョウ、と呼ばれたお坊さんは、やれやれといった風に溜息を吐いた。

「家の供養が済んでるから、このお嬢さんに危害が及ぶことは無いよ」

「そうか」

 満足げに頷いた賢人モドキは、私に向き直って真剣な声で言った。

「一昨日は世話を掛けた」

 世話を掛けた。

 聞き覚えのある言い回しだった。

「私は、貴方に助けていただいたうさぎです」


 賢人の姿をしたうさぎが言うことには、賢人はもうこの世にいないらしい。

 うさぎ自身が、喰らってしまったのだ。

 賢人は、動物が好きだった。

 動物を、殺すのが好きだった。

 どうやら私が足繁く通っていたあの家には、大量の動物の死骸が埋まっていたらしい。あのブログは『エア飼育』なんかではなく、きっちり実体験に基づいていたのだ。動物を飼えないのではなく、飼った端から殺していたのである。動物に好かれないわけだ。ウジョウさん曰く、賢人は沢山の動物の怨念を背負って生活していたらしい。そらあ逃げるよ、死にたくなきゃあな、と、ウジョウさんは苦い顔で言った。神崎家のお祓いと供養は、ウジョウさんが入念に済ませてくれたらしい。

 うさぎは、自分をこの地域の古い神だと名乗った。もう名前も忘れられ、新しく山を守る神に引き継ぎも終わったという。余生を人間として送るべく、人里に降りてきたのだ。適当に邪悪な人間を喰らって成り代わることを目的に、あの橋の上で通行人を品定めしていたらしい。

 そこを私に拾われた。

「成り代わり候補に選ぶには善良だが、妙なものを憑けていたのでね」

 賢人の怨霊が私にも付いてきていたらしい。怨みではなく、助けを求めて泣いている怨霊ばかりだったのが気になって、私の家に来ることにしたのだという。

「君の恋人を奪ってしまって、悪いとは思っているよ」

 少しだけ眉根を寄せて、うさぎは言った。悲しげな顔をしたいのだろうか。感情豊かな賢人の顔なのに、表情がいまいち読みにくい。

「でも、この男の殺生を、神である私が許すわけにはいかなかった。理から外れた者は罰されなければならない」

 ウジョウさんが、気の毒そうな顔で私を見ている。バーテン風の男が近寄ってきて、そっと私の前にカフェラテを置いてくれた。

「……理屈は、わかりますが」

 私は、絞り出す様な声で言った。

「理屈じゃ無い部分で、貴方が、憎い」

 ようやくプロポーズをして貰った。結婚して、一緒になって、幸せな家庭を築くことを夢見た。

 彼が隠し通せなかったとしても、束の間だったとしても、その瞬間が惜しくてたまらなかった。

「……代わりに、なれないかな?」

 うさぎの声に顔を上げる。

「私は彼を喰らった。成り代わった。彼がこれまでどうやって生きてきたのか、全て知っている。今はこの身体に慣れなくて、ちょっと上手くいかないけど、その内完璧に彼の振りが出来るようになるよ」

 彼の記憶を持って、彼の様に振る舞う、人でないもの。

 確かにそれは、神崎賢人として生きていくのだろう。

「でも、あなたは神様なんでしょう? 神様として生きてきて、この先も、その価値観のまま一生を終えるんでしょう?」

「……君が望むなら、捨てても良いよ」

「それはいけません」

 嘘はいけない。自分が吐くのもいけないが、人に嘘を吐かせるのはもっと気分が悪い。

 できるだけ正直に、ありのままで、隠さずに受け入れられる自分で居たい。

 好きな人にも、そうあって欲しい。

「うさぎさん、貴方に予定はありますか?」

「予定?」

 うさぎは怪訝な顔をした。少しずつ表情が読めるようになってきたようだ。

「無ければ、私と百日付き合ってください」

 本物の彼を悼むことは、私にはできない。彼の罪を知ってしまった。それに目をつむって悲しみだけに寄りかかるのは、フェアじゃ無い。

 でも、だけれど、面影を追うくらいは、許してくれるだろう。他でもない神様が、受け入れてくれるなら。

「彼の声で、彼の顔で、彼の記憶で、人間として生きているところを、私に見定めさせてください」

「……わかった。そうしよう」

 うさぎが真剣な面持ちで頷く。私は、挑むような気持ちで彼を見つめた。

 見定める。見極める。

 私が失ったものが、この神様と比べてどれほどの価値を持っていたのか、確認する。

 期限は百日。一本勝負。


「これからよろしくお願いします、神崎さん」


 よーい、スタート。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る