[G]白い部屋、花びらの波。


 ――眠った先の「無かった」話。



 真っ白な部屋に立っていた。

 正方形の床はだいたい四畳半の小部屋と同じ面積で、四方の壁も天井もおおよそ同じ広さに見えた。まるでサイコロの中に閉じ込められた様だった。

 こぢんまりとしたスペースの筈なのに、全面が真っ白なせいで、がらんと広く感じる。

 握りしめたはずの手の感覚が無い。足だけが酷く冷たい。肌に触れている真綿の様な病衣は軽やかで、身体は自由に動くはずなのに、肝心の僕が抜け殻みたいに不自由だ。どこにも行ける気がしない。

 向かい側の壁に溶け込む様に、扉があることに気付く。

 白く塗り込められたドアノブに手を伸ばす。初めて視界に入った僕の手は、水かガラスの様に透き通っていた。

 ドアを押し開く。

 ずるり、と、重さと液体を感じる音がする。あまり開かない。ドアと枠の隙間に身体を滑り込ませて外に出る。

 ドアの向こう側は、真っ白な廊下だった。廊下、と言って正しいかは定かで無い。背後の部屋と同じ幅、同じ高さの白い壁や天井が、地下道かトンネルの様にずっと遠くまで真っ直ぐ伸びている。

 視界を呵む白の中で、ドア付近の床だけが、真っ赤な液体に濡れていた。僕が出てくる為に僅かばかり開いたドアは、もたれかかっていた肉っぽい塊の重みで再び閉まった。肉っぽい何かは、どこかで見たことがある様な気がした。肉っぽい、以外に何の情報も無いのに、なんでだろう。強いていえば人の形に近い様に見える。

 触って確かめてみようかなと思ったけれど、気持ち悪かったのでやめた。

 赤い液体の中には、人の欠片のようなものが沢山浮かんでいた。やっぱり気持ち悪い。

 水溜まりを踏むときと同じ音をさせて、廊下を進んでいく。

 赤い床を見下ろすときに、自分の足が目に入った。手と同じく透明でうるうるしているが、歩く度、床の赤い液体が混ざって色づいていっている様子だった。赤色がリボンの様にほどけて、薄ら黄色い上澄みがふわりと消えていく。その内真っ赤な部分が増えていって、病衣から覗く両脚が真っ赤に染まった頃に赤い床を抜けた。

 もう一度振り向く。

 遠くに、ドアへ寄りかかった人の姿が見えた。

 黒髪がぼさぼさで、割れた眼鏡を掛けていて、鼠色のスウェットを着ている。土手っ腹に大きな楔が刺さっている。よく見ると両掌と太腿にも同じ楔が打ち込まれていた。脚は無い。長い前髪から覗く目は大きくて虚ろで、穴が二つ開いているみたいだ。

 今の僕は眼鏡を掛けていないのに、それが厭にくっきりと見えた。

 ――置いていくのか。

 その人の口が笑う様に歪み、そう象った。

 僕は、気持ち悪いなあと思いながら、汚れていない方へ歩き出した。

 どのくらい歩いたか分からない。

 振り向いてもさっきの人は見えなくなった。

 進む内に、両側の壁へ埋め込まれた筒状の水槽が並ぶ様になった。中身は空だ。何も入っていない。大体の水槽は、ヒビが入ったり大きく割れたりしていた。時折割れていない水槽を覗き込むと、中には『白いモノ』が入っていた。

 飲みかけの牛乳が入ったマグカップ、口が破られた封筒、歯、カラーの花、小鳥の骨、包帯の切れ端、エアコンのリモコンに付いてるカバー、パズルのピース、陶器のサラダボウルの破片、コンビニとかで貰えるプラスチックのスプーン。

 白い折り紙で折られた怪獣を見つけ、水槽におでこをくっつけて「器用な人が折ったんだなぁ」と感心していた時、遠くからぴいんと音がした。

 昔聞いた、焼き物に貫入がはいる音に似ていた。

 顔を上げると、白い廊下の先に光が見えた。凄く明るくて、その先に何があるのか全く見えない。ただ光っている。その光を見て、ようやく、自分が居た場所が存外薄暗かったことに気付いた。あんなに真っ白で明るく感じていたのに。

 僕は取り敢えず、これまで通り歩いた。背後から「捨てていくのか」と聞こえたような気がしたので、怖くて振り向けない。俯くと、真っ赤に光を透かす両脚が見えた。

 白い廊下を抜ける。

 眩しい光の中で、強い風が吹いた。髪が煽られる。

 思わず閉じた目をゆっくり開く。

 ――外だ。

 空は抜ける様に青く、白い雲が流れ、あたり一面赤やピンクの花が咲き誇っていた。ダリアもチューリップもナデシコもサルビアも、ホウセンカもアネモネもグラジオラスもスイートピーも、いろんな花がごちゃごちゃになって咲いている。ずっと風が吹いていて、常に花びらが舞っている。

 再び強い風が吹いて、舞っていた花びらが津波の様に僕を押し流した。僕の透明な身体が、花びらを飲み込んで赤く染まっていくのが分かった。

 花びらの波が通り過ぎる。視界のはるか遠く、白い椅子に座った人が見えた。

 僕はそちらに足を踏み出す。赤い液体で満ちた脚が、踏みつけた赤い花びらを毟り取ってその中に孕んでいく。

 すこしずつ、その姿が見えてくる。

 黒い髪を丁寧に撫でつけて、夜会巻きに結った女だ。真っ白な礼服を着ている。白いけれど、あれは喪服だ、と思った。僕が葬式に出る時いつも着ていた、あの喪服だ。白いとなんだか品が無い。

 金縁眼鏡の向こう側で、黒く大きな瞳が嬉しそうに細められる。

 気持ち悪い。

 自分の意思とは関係なく、僕の脚は花びらを貪食しながら女の元へ向かう。女は椅子から立ち上がるが、履いているパンプスが椅子の脚と癒着していて歩けないようだった。

 美しい造詣の椅子だった。昔、幼馴染みの家の庭にあった椅子と同じかたちをしていた。たしかあの椅子は、雨晒しで劣化していて、いつの間にか壊れちゃったけど。

 そういえば、水槽の中に入っていた白いモノ達も、全部見たことがある。全部壊れたり無くしたりしたものだ。

 あの怪獣を折ってくれたのは誰だったっけ。

 礼服の女が両腕を僕に差し伸べる。笑みが深まる。真っ黒な瞳と真っ白なかんばせが僕の身体に近付いて、ほんのりと赤く染まる。

 ――あ、終わる。

 ぱしゃん、と僕の身体が音を立てた。

 しぶいた僕の身体で紅く彩られた唇は、歓喜に震えて開かれる。

「待ってた!」



 ――起床。

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