[G]僕は傘をさして歩く

 ────眠った先の、「無かった」話。


 僕は化学が苦手だ。

 だから放課後、一人で補習を受けていた。今日はその最終日だった。

 気前のいい中年の先生は、最後に何でも一つ、知りたいことを教えてくれると言った。僕は、神様みたいだね、と笑った後に、人の死後について尋ねた。先生は、どうだかね、と笑った。

 帰り道は雨が降っていた。

 先生に傘を借りて帰宅すると、祖父が英語の小説を持って待っていた。帰宅後に祖父とその小説を少しずつ翻訳するのが僕の日課だった。

 その日祖父は、雨が降っているにも拘わらず散歩に行きたいと言った。祖父は何故か片手に新聞を握り締めて放さず、仕方無いので僕が傘を持った。先生に借りた、あの傘だ。

 祖父は、少し様子がおかしかった。いつもの穏やかな笑みが嘘のように無表情で、能面のようだと僕は内心気味悪く思った。そう思う自分に違和を感じた。

 祖父は近くのバラ園まで辿り着くと、突然ああ、と呟いた。

 ああ、無い。無い。何故無いんだ。何処にもないじゃないか。

 そう言ってぼろぼろと涙を流した。涙は止まらず、僕は祖父を引き摺るようにして帰宅した。祖父の握りしめた新聞紙は、濡れてぼろぼろになっていた。無い、無いと呟く祖父は、昨日までの祖父と別人の様だった。

 帰宅後、祖母がいないことに気付いた。僕は祖母を探す為に、再び傘をさして外に出た。

 祖母は、祖父が立ち止まったバラ園の中のベンチに座っていた。僕が促すとゆっくり立ち、ニコニコとしながら、バラが綺麗だねぇと言った。傘の中に入れ、二人で帰宅した。他愛も無い話をした。会話は一度も噛み合わなかった。

 家のある通りに差し掛かると、玄関に母がいるのが見えた。母は電話をしていた。手には傘を二本持っていた。酷く苛立ちながら話していて、近付く度にがなる声が大きくなった。もうすぐ玄関に着く、という時になって、母が激しく叫び、傘を投げた。傘は、祖母の右横腹と左太腿に突き刺さった。鋭く投げられた傘が、嫌にゆっくり目の前を通過していった。祖母の白い服が赤く染まった。

僕も母も狼狽えた。その場にへたり込みそうになるのを必死に堪えた。母は電話を切り、そのまま119番に掛けようとした。しかし祖母は、大丈夫大丈夫と笑ってそのまま家に入っていった。僕は呆気にとられて暫く立ち尽くしたが、我に返って祖母の後を追った。母はよろよろと座り込んだ。

 そうして血溜まりを辿って行くと、座敷で祖母が血塗れの傘を二本抱えていた。腹からは赤黒いものが見え、左足は真っ赤になっていた。はいこれ、と渡された傘を、僕は思わず受け取った。自分の腹にも痛みを感じるような気がした。祖母はゆっくりと顔に笑みを広げて、ほら、平気よ、と言った。

 その後祖母は軽快な足取りで部屋を出て行った。母の隣を、ほら、大丈夫でしょう? 全く大袈裟なのよとぼやきながら素通りし、そのまま自室へ戻っていった。ぼろぼろと泣く祖父の隣に座り、穏やかな笑顔で話しかけていた。母は叫びながら電話を床に叩きつけた。僕は、明日は補習がない、と、ぼうっと思った。


 ────起床。

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