[G]めくらの死


 ──眠った先の、無かった話。




 じっとりと曇った土曜日の午後のことだった。


 私は普段通り、自室で読書に勤しんでいた。午前中から食事も摂らず物語の世界に耽っていたが、ふと、家の中の静けさが気に掛かった。


 普段ならば、料理好きの姉が鼻歌混じりに昼食を作っている時間だ。本を閉じて耳を澄ますが、包丁の音もコンロの音もしない。


 昼寝でもしているのだろうか。

 仕方ない、今日は私が昼食を作ろう。


 そう思って文机から立ち上がり、ドアノブを捻った。私の部屋はキッチンと隣り合っている。キッチンの引き戸も開いていたので、私の目には即座に『その光景』が飛び込んできた。


 まず目に付いたのは、グロテスクな化け物の巨躯だった。


 腐った肉の様なまだらの薄灰色をして、小学生が粘土で作った人型の様に歪だった。腕の様な三本の肉塊は異様に長い。下ぶくれの胴体には所々赤黒い瘤が脈動し、天井にこすっている目鼻の無い頭からは、奇怪な音が響いている。


 『化け物』としか言いようのない、気色の悪い生き物が、キッチンの隅に佇んで、ゆっくりと身体を揺すっていた。


 そして、キッチンの椅子には姉が座っていた。背筋はピンと伸び、手はテーブルに置かれ、顔はこちら側に向いている。


 頬には涙が幾筋も伝って、充血した目は憔悴しきったように腫れていた。


 姉は、私を見るなり目を大きく見開いて、何か訴える様に目をしばたかせた。半開きの口が、かすかに「う、お、う、あ」と動く。


 う、お、う、あ。

 ──動くな?


 言われるまでも無く動けずにいた私に、姉は更に言う。


 う、う、あ。

 来るな、か?


 私が何もできず立ち尽くしていると、化け物がゆっくりと歩き始めた。


 歩く、と言って良いのかもわからない。


 テーブルで隠れていた下半身には、長さの違う数本の脚らしいものがうぞうぞと蠢いていた。


 姉が口をつぐみ、歯を食いしばる。


 化け物は身体を台所のあちらこちらにぶつけながら、のろのろとこちら――キッチンの入り口へと向かってきていた。


 しかし、化け物に接触した物が倒れたり壊れたりすることは無かった。


 確かに当たって、ぐらりと動く素振りをするのだが、化け物が通り過ぎた後には元通りになっているのだ。

 まるで空間自体が歪んで、化け物を避けている様だった。


 途中、化け物の腕が姉に当たった。姉は更に歯を食いしばり、頑なに動かない。


 化け物が廊下に出る。

 それを確認するなり、姉は脱力して背もたれにしなだれかかった。そして私に、囁く様に言った。



「同じ部屋で、動いちゃダメ」



 途端、化け物がデュルンと巨躯を捻らせて消えた。そして再び姉の背後に立つ。姉は椅子にもたれかかった姿勢で再び硬直した。


 唇が再び動く。思わず、といった風に見えた。


 ──なんで?


 私が読み取ると同時に、姉がぶらつかせていた足に引っかけられていたスリッパが落下した。


 ぱたん。


 音がすると同時の、一瞬だった。


 姉の身体が化け物の腕に貫かれ、破裂した。


 姉の服だった布きれと、姉だった肉や体液が、キッチンの至る所に飛び散った。

 びしゃり、と私の頬に生暖かいものが張り付く。勢い余って飛んできた眼鏡が、足下に転がっていた。


 気付くとキッチンはもぬけの殻だった。化け物はおろか、姉の残骸も綺麗さっぱり無くなっている。


 残ったのは血まみれの廊下と、頬に姉の肉をくっつけた私だけだった。


 背後から、奇怪な音がする。

 私は、硬直する。




 ──どのくらい時間が経っただろうか。


 私は、背後から聞こえる奇怪な音に怯えながら、息を潜めていた。


『同じ部屋で、動いちゃダメ』。


 姉はそう言った。そして、図らずもそれが最期の言葉になってしまった。

 姉の死因は、あのスリッパの音だ。姿勢を崩しただけ、私への警告を囁いただけでは、化け物は姉を殺さなかった。


 しかし、きっと、あの化け物のことを口に出してはいけなかったのだ。


 私が運良く生き残っても、コイツにまつわることを一言でも口外すれば、こいつは再び私の前に──いつの間にか姉の背後に佇んでいたように、私の背後に現れるのだろう。


 ぬちょ、と生温いものが背に触れる。皮膚らしきものの中に骨の様なものが有るらしく、私の背をごりっとえぐる様に押した。


 長い時間立ちっぱなしにしていた私の足は、とうに限界を超えていたらしい。


 私は崩れ落ちる様に絨毯へ座り込んだ。恐怖で呼吸を忘れる。心臓の音ばかりがばくばくと煩い。


 ──しかして、化け物は私の体を貫こうとしなかった。


 私は恐る恐る化け物を見上げる。体は確実に私を向いているのに、化け物は巨躯をぐねりとうねらせるばかりだ。


 ──なあんだ。


 恐怖でおかしくなっていたのか、私の口元が勝手にへらりと笑う。



 きい。



 途端、唐突な浮遊感と衝撃が全身に走った。痛みを感じる隙も無い。音を聞き取る暇も無い。私の体は粉々に砕け散った。


 半開きの扉。私がくずおれた時の小さな振動が、それを小さく動かしていた。


 ──音か。


 眼球だけになった私は、それを最後に意識を喪失した。



   ◆ ◆ ◆



 何も見えない。何も感じない。自分の体が存在するかどうかすら、分からない。


 生きてるかどうかも、わからない。


 ただひとつ、ぼんやりと聞こえる音だけに縋って、私は存在するかも分からない足を動かす。



 私を呼ぶ声を、頼りにして。




 ──起床。

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