少年は憧れる ①
結局、何とか生存に必要な最低限の母乳を与えられていた生後数ヶ月以外は満足に食事をしたことがないアーウェンは、数口だけであっても満腹になった幸福感と今までほぼ使ったことのない『味覚』が経験した情報を脳みそが消化し続けたために疲れ切って眠り込み、伯爵家に来た初日だというのにまともな食事を取るには至らなかった。
しかも軽すぎるその身体を持ち上げられても意識を呼び覚ますことなくぐったりと身体を預ける様に、秘かに少年執事が眉をひそめたのにも気づかない。
そのままアーウェンは伯爵夫妻が整えた子供部屋に運ばれたが、義兄につられて午睡に落ちたエレノアは目を覚ますとその部屋に押しかけ、軽い夕食を乳母であるラリティスに食べさせてもらってから「いつ起きても一緒に遊べるように」と待ち続けた。
さすがに三歳の子供に夜更かしすることなどできず、自分の部屋への戻ることを促されたが、そのまま義兄の眠るベッドに入ると、離れがたいと抱きついて眠りについたのである。
アーウェンが目を覚ましたのは、いつもの時間──父も母もまだ起きてこず、通いの家政婦が来ても来なくても台所で朝食の準備を始める、空が白みかける頃だった。
「……ここ……」
見慣れぬ天井は剥き出しの梁ではなく柔らかな白い布がドレープを描いている。
身動きすればいつもの薄い毛布ではなく、ふかふかの掛布団が分厚く自分を包んでいた。
おまけに──
「……え…エレノア、おじょうさま………?ど、して……?」
いつの間に着替えさせてもらったのか、やはり真新しい白い長寝間着のアーウェンが薄目を開けると、真横に金色の髪を乱し大の字ですやすやと寝息を立てている女の子がいる。
一瞬これがどういう状況かわからず混乱したが、『貴族のお嬢様』が自分の横に寝ていることを理解したアーウェンは一気に眠気を吹き飛ばして起き上がった。
おかしい──自分はこの家で下働きを──お嬢様の子守りをしている女性よりも遥かに下で働くはずの自分がこんなすごいベッドで寝かされ、しかもご主人様のお嬢様と一緒にいるなどとは、追い出されるどころか命すらなくなってしまうのではないか──
小さな頭でグルグルと悩み、とりあえずベッドから降りてお嬢様が起きるのを待とうとしたが、エレノアの小さな手がアーウェンの寝間着の袖を掴んでおり、目を覚まさずに指を外すことは難しそうだった。
「ど、どうしよ……お、おじょうさま……あの……お、おきて……おきて……こ、こまりま……」
「……大丈夫ですよ。おはようございます、アーウェン様」
「ひゃっ?!お、おひゃっ……」
起こしたくはないが、起きてもらわねば動けない。
誰かがこの立派な部屋を見に来て、床ではなくこんな立派なベッドで寝ているところを見られようものならば、どんなひどい仕置きが待っているのか──そう思って焦っているアーウェンに、そっと誰かが声を掛けた。
それは昨日アーウェンを世話してくれた従僕であるが、いつの間に部屋の中に入ってきてそっと小声で話しかけてきたことに驚き、思わず大声を出しそうになったアーウェンは慌てて両手を口に当てる。
「エレノアお嬢様は、いつも同じ時間に寝起きされます。昨日は長めにお昼寝されましたが、就寝はいつものお時間でした。ですので、あと一時間ほどはお目覚めにならないかと……」
口をふさいだままコクコクとアーウェンが頷くと、従僕はベッドのそばに膝をついて自己紹介をした。
「私はアーウェン様の義兄上に当たられますリグレ様の専属執事で、ロフェナと申します。昨日は名乗らずに大変失礼いたしました」
「え……?あ…に……?」
アーウェンの『兄』に『リグレ』という名の者はいない。
ひょっとしたら自分の横で眠る『お嬢様』の『兄上』のことを、間違ってお呼びしたのではないだろうか──たとえサウラス男爵家の四人の兄だろうと上級使用人として働いている者が名前を間違えることなどありえないのだが、幼いアーウェンにはわからない。
だがきっとそうだろうと思い、コクンとひとつ頷くと眠る幼女の指から逃れられないながらも姿勢を正して、丁寧に頭を下げる。
「あの……アーウェン、です……あ、あの……さいしょのおしごとは、なんでしょうか?」
これがサウラス男爵家なら、前日に家政婦が共同井戸から汲んで貯めておいた水がめの水を使って厨房の掃除をする。
どんな貧しい家でもネズミや害虫がわずかな餌を求めて入り込み、糞や食べ散らかしがないとも限らないからだ。
しかし──
「いいえ」
未だ自分の身分を理解できていないアーウェンが小声で尋ねると、同じように声を顰めながらもしっかりとロフェナはその問いを退けた。
「あなた様はエレノア様のお兄様として、ターランド伯爵家ご当主であられるラウド様と奥様のヴィーシャム様のお子様として、そして王都立貴族小等教育学院に通われているご嫡男のリグレ様の弟様として、ターランド伯爵家のご養子となられました」
「ようし……」
「はい。昨日、アーウェン様のお父様がサインなさった書類を以て、近日中に国王陛下と教会で正式な戸籍変更の手続きが行われます。それによりサウレス男爵家からアーウェン様のお名前がなくなり、ターランド伯爵家の家系図にお名前が記載されるのです」
「で、でもっ……」
聞いていた話と違う。
いや父が話していたことのすべてを理解していたわけではないが、アーウェンは『身なりを整え』、『ターランド伯爵様に会い』、『気に入れられたら父たちにお金が払われる』のだから、立派なお邸に着いたら一言もしゃべってはいけないと言われていたのだ。
そうはいってもターランド伯爵その人が直接アーウェンに話しかけてきたのだから、返事をしないわけにもいかなかったが──
「ぼ、ぼく……このおうちで……きにいられるように……」
「ええ。大丈夫です。旦那様は大変アーウェン様のことをお気にいられました。将来はぜひ騎士様になれますように、伯爵家直属の部隊の者たちと共にしっかり運動いたしましょうね」
「き、きしさま……?」
実父が来る時に馬車の中でブツブツと「まあこいつは下男がせいぜいだろうが……上手く取り入って騎士団の下っ端ぐらいに潜り込めたらしめたものだ……」と呟いていたのはこう言う意味だったのかとアーウェンなりに理解し、わずかに表情を緩めて頷いた。
そうか。ぼくはきしさまになるために、『とりいる』っておしごとをするんだ。
「では、本来なら今朝から訓練に参加されるようにする手はずでしたが、昨日は奥様がアーウェン様をお引き留められましたので、今日は隊へのご挨拶と見学に参りましょう」
それぞれ勘違いしたままのアーウェンとロフェナが小声で話していることなど気にすることなく、エレノアはぐっすりと眠り続け、そっとアーウェンの寝間着から指を外されても身じろぎしただけで眠り続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます