前日譚 最期の願い

前日譚 最期の願い

 もうじき雨のやむだろうその空は、いままさに夜明けを迎えようとしている。

 雲が切れて、東の空は鮮やかな朝焼けに染まっていく。

 ファリースは、子供たちの泣き顔を見ながら、薄く笑った。

 ああ、そうだ。

 あの日の朝も、こんなふうに見事な朝焼けだった。





     ◇     ◇     ◇





 真新しい寝具一式。枕はひとりにひとつずつ。

 目を閉じたまま、クールは思った。

 もしかしたら全部夢なんじゃないだろうか。

 目覚めるとそこは古い納屋の片隅で。ぼろぼろになった固いマットの上で、黄色く変色したシーツに包まっているのではないか。

 そんな恐怖を感じながらそろそろと目を開けると、見知らぬ天井が視界に飛び込んできた。

「…………」

 納屋の天井と違う。ああそうだ、ここは。

 ほっと息をつき、起き上がる。

 ずるっと寝巻きがずれて、右の肩が出た。

 引っ張りあげようと左手を掛布から出すと、長い袖に隠れて見えない。

 小柄なクールには大きすぎるほど大きいこのチュニックは、昨夜ファリースが用意してくれたものだった。

 とりあえずこれを着ろと渡されたチュニックはとても大きく、クールもセイもチュニックに着られてしまった。

 腕まくりをしてベッドから降りる。チュニックはくるぶしに届くほど裾が長い。

 ずるずるとずりおちて肩が出るのを、そのたびに引き上げながら、クールは扉に向かった。

 昨夜一緒に寝たはずのセイの姿が見えない。どこに行ったのだろう。

「いま、何時なんだろう…」

 まだ薄暗い。いつもの習慣で、夜明け前に目が覚めてしまったのだ。

 神殿では夜明け前から掃除や雑事を命じられ、へとへとになった頃にようやく朝食にありつけた。だが、クールに与えられるものは特に質素なので、小さなパンと一杯のスープだけだ。

 クールが小柄なのは、明らかに栄養が足りていないからだった。

 寝室を出ると、卓や長椅子、棚のある居間だ。クールたちの寝室の正面に扉があって、そこがファリースの寝室だ。

「セイは、どこに…?」

 昨日初めて会った同い年の少年は、言葉が少なく、考えていることがよくわからない。

 けれども、嫌な奴ではないだろうと思った。

 嫌な奴は、目つきが悪い。たとえば、村で気に食わないことがあるたびにクールに八つ当たりをして憂さを晴らしていた青年たちのような。

 廊下に出る扉が少し開いていることに気づく。

「外にいるのかな?」

 音を立てないように扉を開けて様子を窺う。

 夜明け前の廊下は、壁に備え付けられたランプに照らされてほんのりと明るかった。

 廊下に出たクールはきょろきょろと辺りを見回した。

 ふと、ランプの炎が揺れて、廊下の奥を示した。

 壁のランプがすべて、同じ方向を指している。

 クールは目を丸くした。そうして、はっとする。

 ランプの中の炎は、芯も何もないのに燃えている。ランプの中に、丸い炎が浮いているのだ。

「わ……!」

 精霊だ。

 これは、精霊の炎なのだ。

 昨日、倒れてきた武器からクールを守った風霊の風を思い出した。

 風霊だけでなく、この砦にはたくさんの精霊たちがいて、騎士やドルイドたちにその力を貸しているのだ。

 はだしのままぺたぺたと進んでいくと、大きな窓のバルコニーに行き当たった。

 バルコニーに、小さな背中がある。

 窓を開けてバルコニーに出ると、さすがに外は肌寒かった。ぶるっと震えて体を縮こまらせる。

 窓の開く気配に振り返ったセイが、心の底から驚いた顔をした。

「なにしてるんだ?」

 クールの問いに、セイは黙ったまま目を背けた。

 バルコニーの向こうでは、空が明るく変色している。

 クールは目を瞠った。

 空の砦は、その名のとおり空を行く騎士団の城砦。

 さえぎるものの何もない空は、クールがいままでに見たどんな空よりも広く、遥か遠くまで見渡せる。

 セイの隣に立って手すりを掴む。セイはちらと視線を向けてきたが、黙ったままだった。

 こんなに綺麗な朝焼けを見るのは、生まれて初めてだった。

 クールは呟いた。

「……ゆめみたいだ」

 と、それまで黙っていたセイが、口を開いた。

「……ゆめじゃ、ないよ」

 クールは目をしばたたかせてセイを見やる。セイは朝焼けをまっすぐに見つめている。

 彼と同じように朝焼けを見つめて、クールは頷いた。

「うん」

 おれはいま、空の砦で、この空を見ている。

 本当に、ここにきたんだ。夢よりもずっと遠くにあると思っていた場所に。







 扉の開く気配で目覚めたファリースは、いつまでたっても子供たちが戻ってこないので捜しに出た。

 ランプの炎を操る炎の精霊が、あちらだと教えてくれる。

 そして、いままさに夜が明ける、そんな空を微動だにせずに見つめている子供たちの姿をバルコニーに見つけた。

 小柄な子供たちは自分の貸したチュニックに着られており、まるで同じ姿勢で、自分より背の高い手すりの間から夜明けの空を眺めているのだ。

「そんなに珍しいものでもないだろうに……」

 ファリースはそこで足を止めた。

 彼らがいつ振り返って自分に気づくか。そして、どんな顔をするだろうか。

 そんなことを思いながら、壁に寄りかかって腕を組み、ファリースは目を細めた。





     ◇     ◇     ◇






 最期の瞬間、泣きながら自分にすがり付いてくる子供たちを見ながら、ファリースはあの日の朝焼けを思い出していた。

 昇る太陽を見つめる子供たちの背中。

 いま、クールもセイも、あのときより背がのびて。

 これからもずっと、成長していく姿を見ていくのだろうと、漠然と思っていた。

 意識が徐々に薄れゆく中、ファリースにはひとつだけ残念なことがあった。

 クールとセイがいつか騎士団に入団を許され、正式に叙任される姿をこの目で見ることは、もうかなわない。

 ファリースの脳裏に浮かぶのは、騎士の正装をしたクール。セイは騎士ではなくドルイドの正装なのだ。

 その様を見られないことが、本当に悔しい。

 ファリースは心の中で精霊に呼びかける。

 ジン。自分に瓜二つの姿をした、おそらく我が血に縁のある精霊王よ。

 ひとつだけ頼まれてくれないか。

 この子たちが成長する様を、自分の代わり見ていてほしい。

 そして、いつか一対の剣と盾になるだろうこの子たちに助けの手を。

 それが、この豪剣のファリースの、最期の願いだ。






 そして。

 豪剣のファリース落命の報せは、エリン全土を駆け巡る。

 ティル・ナ・ノーグの精霊たちは、自分たちと縁深かった英雄の死を深く悼んだという。

 




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