第6話 一目惚れする王子
「おい【どこか苦しいのか? 大丈夫か?】」
「んん?」
少女がうっすらと目を開けた。
朝露を浴びたような濡れるローズピンクの唇、透けるような白い肌、形の良い眉に可愛らしい鼻筋、小麦のような金色の髪、そして何よりも美しい淡いアメジストのような瞳にギルバートの心は完全に奪われた。普段こんな間近で女性を見る事はない。
肩とは言え触れたのすら数年ぶりだ。舞踏会では誰にも誘われないギルバートである。その分女性との皮膚接触も極端に少ない。
しかし、そう思ったのはギルバートだけだったのか、少女はギルバートを見るなり息を飲んで勢いよく立ち上がり、そのままギルバートが何かを言う間もなく森の奥に駆けて行ってしまった――。
「何てことだ。【何て健脚なんだ……あんなに小さくて走るのが早いなんて、素晴らしいな。この砂漠のような社会において逃げ足は非常に重要だからな。足は速いに越した事はない。はっ! しまった! 名前を聞くのを忘れていた!】」
ギルバートは一瞬追いかけようと思った。
けれど、森の中で男に追いかけられるのは女性からすれば怖いのではないか?
ギルバートの身長は高い。あんな小さな少女からすればクマも同然だ。それは怖い。怖すぎる。
どこかの歌で森で出会ったクマに追いかけられるとか何とかいうような歌があった。結果はクマと少女は仲良くなったが、あれはかなり稀有な例だ。大抵は人はクマに襲われる。
止めておこう。自分が少女だったらと考えると、クマに追われるのは死んでも嫌だ。
「ココ! コケー!」
「コッコッ」
「お前たち【どこへ行っていたんだ? 心配したんだぞ? さあ、帰ろう。ところで卵はどうしたんだ?】」
ギルバートは妙にお腹がスッキリした鶏を両手に抱えて森から出た。今日は良い日だ。何しろお花畑で天使に会えたのだから。
城に戻ると中庭でサイラスがキョロキョロと辺りを見回していた。やがてこちらに気付き、血相を変えて走り寄ってくる。
そんなサイラスにギルバートはすかさず鶏を渡した。さっきからずっと鶏たちはギルバートの手を蹴り上げてくるのだ。どうやらはっきりと嫌われている。
「サイラス【コッコちゃんとピッピちゃんを頼む】」
「ど、どこにいらしたんですか⁉」
「森だ。【花畑がそれは綺麗だったぞ! 何よりも天使が寝ていたんだ。今日は素晴らしい一日になるぞ!】」
「も、森、ですか? 何故?」
「何故、だと?【コッコちゃんとピッピちゃんが逃げたからだが?】」
ギルバートの言葉にサイラスはふと鶏を見下ろし、何かに納得したかのように頷いた。
コッコちゃんとピッピちゃんがもう二度と逃げないよう、しっかり柵を作るなりして工夫しなければならないな。
「失礼しました。すぐに執務室にお茶をお運びします」
「ああ【すまないな。あ、レモネードでもいいぞ!】」
ギルバートは執務室に向かって歩き出す。まだサイラスがギルバートに頭を下げているとも知らずに、ギルバートはレモネードが出て来ないか期待していた。
◇◇◇
サイラスは急いで鶏を中庭に戻すと、その足で騎士団の元に向かった。
「大変です! どうやら森で王子が何か見つけたようです!」
「なに⁉ どういう事だ!」
「王子がさっき森から鶏を連れて戻ってきたんです。鶏の足にはびっしりとあの花の花粉が!」
ギルバートを襲おうとした神経毒は、紫色の花だ。花粉が特徴的で、黄色ではなく赤い。
「まさか! 誰かがあの森で栽培していたという事か⁉ お前たち、行くぞ!」
「はっ!」
こうして騎士団は動き出した。サイラスの案内で森の奥に進む。
「確か王子はこちらからやってきました」
鬱蒼とした森をギルバートが歩いて来た方角だけを頼りに歩くサイラス。その後を騎士団は神妙な顔をしてついて行く。そして――。
「……まさかこんな所に……」
森を抜けた所にそれはあった。
先日、ギルバートを毒殺しようとした時に使われた毒花が大量に咲き乱れていた。
騎士団もサイラスもゴクリと息を飲む。この花自体は無害だ。
しかし、この花の根は猛毒である。何よりもこの花の実は鳥の大好物なのだ。王子はきっとあの毒の一件からずっと単独で調べていたのだろう。鶏を使って。
「今すぐに全て抜け! そして焼き払うんだ!」
「はっ!」
騎士たちはすぐさま作業に取り掛かる。
「王子……末恐ろしい人だ……」
「全くです。まさか鶏を使うなんて……」
彼には一体どれほどの知恵があるのだろう。計り知れないギルバートの叡智に恐れおののくサイラスである。
やがて全ての花を抜き終えた騎士たちはすぐさま花に火をつけた。これで大丈夫だろう。
「一応、念のために他の場所も見ておこう」
「はっ!」
騎士団はそう言って散り散りに走り出した。そして森からある物を拾って戻ってくる。
「隊長! こんな物が森の中に!」
そう言って騎士が持ち帰ったのは、紫色のリボン。サイラスはそれを受け取って城に戻り、ギルバートの執務室に向かった。
◇◇◇
結局、出て来た飲み物はお茶だった。
少しだけテンションの下がったギルバートは、紅茶に砂糖を溶かしこみながらため息を落とした。
【それにしても可愛かったな。いや、僕にはロタが居る……というよりも、それ以前に悪役令嬢が居る訳だが……】
他の女子に現を抜かしている場合ではないのだ。悪役令嬢シャーロット問題を早急に何とかしなければならない。
「失礼します」
三つ目の砂糖を溶かしこんだ時、控えめにサイラスが執務室に姿を現した。何だか元気がない。
「何だ【何かあったのか? 相談なら乗るぞ? あ、しかし色恋沙汰は僕には無理だが】」
何せ経験が無さすぎる。そして今回の事で気付いたのだが、どうやらギルバートは気が多いようだ。ロタという心のオアシスが居ながら、天使に見惚れてしまったのだから……。
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