第28話 最悪の事態

 十一月に入ると、途端に急激な寒さが襲ってきた。

 とはいえ来週はまた少し暑くなるらしく、厚手のカーディガンは今日でまたタンスの中でしばらく眠ることになる。

「おはよー!」

 突然入ってきた聡子も、長袖にタイツを履いている。

「どこか出かけるの?」

「うん、まあ」

「デート?」

「バイトに行くだけだよ」

 彼方は鞄を抱え、逃げるように家を出た。

 弱風でも、丸まった枯れ葉がアスファルトを転がっている。からからと音を立てるたびに冷気が襲い、カーディガンのボタンをしめた。

 雪が降るしんとした空気のように、心も静まり返っていた。

 あと何日、彼と一緒にいられるのだろうか。

 今年で側から離れてほしいと忠告を受け、何も考えていなかったわけではない。

 あれは夢だったのではないか。そう現実逃避をしても、必ず夢に現れる。アーサーと似た男は、悲しげに微笑み、どうか離れてほしいと訴えるのだ。

 アーサーは何も言わない。その代わり、うんと距離が近くなったように感じる。それはいつからか。アーサーが初恋の人が見つかったと話してからか、それとも今年の終わりが近づくたびにか。

「彼方さん」

 ドアを開けると、アーサーはいつもと変わらない様子で迎えてくれる。

「申し訳ありませんが、本日は少し早めに出勤して頂けませんか?」

「大丈夫ですよ……あれ」

 アーサーの陰に隠れていたが、中年の男性が居座っている。

 動物園で聞いたようなうめき声を上げ、大きく肩が上がる。タオルを片手に顔が真っ赤に腫れていた。

「お願いです……どうか助けてほしい……」

 男は椅子を蹴る勢いで立ち上がり、彼方へ手を伸ばした。

 瞼に力を込めるが、痛みは襲ってこない。そっと目を開けると、アーサーが目の前に立っていた。

「うちの従業員に手を出すなど、何人たりとも許しません」

「ご、ごめんなさい……藁でもなんでも掴みたいんです」

「あの、話を聞きましょうか?」

 男は咆哮のような声を上げ、泣き出してしまった。

 彼方は急いでエプロンを身につけると、すぐにフロアへ戻る。

 ちょうどアーサーがお茶を入れていたので、新しくタオルを用意した。

「こちら、どうぞ」

「さっきはすまない……ありがとう」

「何かあったんですか?」

 男の目が光る。よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりに、隣の椅子を引いた。

 店員であるのにもかかわらず良いのかとアーサーと目配せをするが、彼は二人分の紅茶を準備している。

 おとなしく男に従った。

「子供が攫われてしまったんです」

「ええ? なぜ店に来たんですか? それなら警察の方が……」

 アーサーはすでにそれは伝えました、という顔でティーカップをカウンター席に置いた。水色を見るに、ヌワラエリヤだ。花のような可憐な香りで、ストレートで飲むのに向いている。

 男は用意されたミルクピッチャーを逆さまにし、すべてのミルクを紅茶に混ぜた。

 香りを楽しむこともなく、豪快な音を立ててティーカップを傾ける。

「元妻です。俺の子供なのに、ずっと育てていたのに……」

「誰がお子さんを連れていったかは分かるんですね。なおさら警察や弁護士の方がいいかと思いますが……」

「警察には言いました。でもこの件は時間がかかるって。なぜか担当の弁護士にまず相談しろとか言われてしまって」

「弁護士よりも先になぜ占いの店に来たんですか?」

「前にアーサーさんを頼ったことがあったんです。あまりに的確に当てるものだから、すっと忘れられなかったんです。あんな優しい言葉をかけられたのは初めてで……」

「一種の依存に入っている可能性もあります。どうかお気をつけて」

 アーサーは横やりを入れるが、ごもっともだ。こんなときに占い師を頼るなんて、どうかしている。

「この件は時間がかかる……か。気になる言葉ですね。民事ならば警察は対応できないはずですし、その言い方だと介入はできるが今は無理だ、に聞こえます」

「居場所は分かりますか?」

「元妻とは連絡は取っているんです。養育費ももらってますし。子供に会いたいから幼稚園から連れていった。夜には帰すってメールが来て、もう一週間も経つんです」

「それは心配ですね。家に行ってみましょうか」

「僕が行きます。アーサーさんは店がありますし、休めないでしょう?」

 アーサーは首を傾け、

「お願いできますか?」

 と申し訳なさそうに言った。

 アーサーは何かあったときのためだと、GPSをつけようと提案した。

 お互いにアプリを入れると、アーサーは安堵の息を吐く。

「くれぐれも、お気をつけて」

「何かあったら電話入れますね」

「何かなくとも、電話を入れて下さい」

「分かりました」

 男性と二人で店を出て、不安そうに頭をかきむしる彼と自己紹介をした。

 新妻あきらと名乗り、取り乱したと頭を下げた。

「アーサーさんはああ言ってますけど、依存しているわけじゃないんですよ。彼の言葉が好きで、お金を払ってでも聞きたくなるんです。ほしいと思った言葉を的確にくれる」

「分かります。僕も側にいて、学ぶことばかりですから」

「長い付き合いなんですか?」

「一年と少しです」

「じゃあ、そんなに深い付き合いってわけじゃないんですね」

 新妻は笑い、信号で引っかかって足を止めた。

 他人から見れば、一年は短く見えるらしい。過ごした日々は当事者同士でしか知るはずがなく、年数でしかはかるしかないのだ。

 新妻の元妻の家は、吉祥寺から数駅離れたところにあった。

 都会の中にある隠れた田舎は、日中であっても車通りが少ない。

「どうかしました?」

「カラスが……」

「カラス?」

 塀の高い庭つきの赤い平屋の家に、そこだけカラスが五羽ほど羽を休めている。塀から飛び出た樹木にも止まっていた。

「巣でも作っているのかな? あそこが清美の家だけど」

「巣なら番だけのはずですよ。あんなたくさんのカラスで作ったりしません」

 嫌な予感が膨らむ一方で、彼方は足を早めた。

 玄関にはチラシが詰まっていて、入りきらなかったものが散乱している。存在をアピールするかのように、鳥の糞がぼたぼたと落ちていた。

 インターホンを押してみるが、反応は何もない。物音一つすらしなかった。

「新妻さん、中を確かめてもらうことは可能ですか? 嫌な予感がします」

「あ、はい」

 新妻はドアノブに触れた。簡単にドアノブは回り、鍵はかかっていなかった。

「う……なにこの臭い」

「警察を呼びましょう」

 新妻は顔から血の気が引いている。

「ちょっと待ってくれ。子供は? 息子がいるはずなんです」

「それも踏まえて、警察に通報します」

 冗談ではないと察した新妻は、彼方を押して中へ入っていく。

「新妻さん!」

 腐敗臭に彼方は顔を歪め、ハンカチで鼻と口を覆った。

 臭いを放っている部屋は、二つ奥の部屋だった。

 新妻は部屋の前で立ち尽くし、呆然と一点を見つめている。

 彼方は隙間から様子を伺い、すぐに端末を取り出した。

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