第15話 謎の男性
僕の知らない関係など、彼は仕事上もプライベートもたくさん持っているだろう。彼は世界中の誰かと繋がっている。仕事柄、太い線も細い線も抱えて。僕はどの線に属しているだろうか。
席を抜けるときもう一度振り返るが、アーサーさんは僕を見ていなかった。太い毒針で刺された気分だった。
人は身勝手なもので、たくさん人がいると独りになりたくなる。独りぼっちだと人を求めてしまう。僕は独りになりたかった。大きなイベント会場はどこも人だらけで、トイレですら埋もれている。
それにしても、さっきの人は誰だろう。見知らぬ男性にばかり注目していたが、アーサーさんの顔を見たら友達同士には見えなかった。緊張と何かに怯えるような、目の奥が真っ黒で表情が死んでいた。
苛立ちと悲しみが募るのは、助けられなかった僕の弱さに対してだ。
『ハロー』
英語で声をかけて来たのは、こちらも先ほどの男性と似た背格好をした人だ。
『英語は話せますか?』
『大丈夫です』
『ミスター・アーサーのことで、お話しがあります』
『なんでしょうか』
男性は回りを気にする素振りを見せ、僕の耳元へ顔を近づけた。
『あなたは彼とどのような間柄ですか?』
僕が習う英語とは違い、癖のある英語だ。今までいかに甘っちょろい英語を学んでいたか身に沁みる。
『店長とアルバイトですですけど……』
『彼が日本に来た目的を、あなたは知っているはずです』
もちろん知っている。仕事もあるだろうが、初恋の人に会いたいがためだ。
『彼は恋のお相手に会えたか分かりますか?』
『さあ……そこまでは』
アーサーさんは、まだ初恋の人に会えていない。けれど気分の問題で答えたくなかった。
彼は僕の顔色を読みとり、
『なるほど。賭は彼の負けのようだ』
彼は鼻を鳴らし、小馬鹿にした笑いを見せる。
断言していい。彼は敵だ。正体がさっぱり分からないが、とにかくアーサーさんにとって関わらせていけない側の人。
賭という言葉に、頭がカチンと雄叫びを上げる。
『お願いがあります。あなたから、スリランカに即帰るよう伝えてもらえませんか? 見たところ親密な間柄のようですし、懇願すれば言うことを聞くかもしれません』
『スリランカ?』
『彼の生まれ故郷です』
おかしい。アーサーさんは、イギリス出身のはずだ。
『まさかイギリス出身だと偽ったのですか?』
『イギリスだと……本人が、』
『笑い話ですね。彼は魂からスリランカで生まれ、絶対に切り離せない存在です。いずれスリランカに帰ってくる。遅いか早いかだけだ。ならば早い方がいいでしょう。頼みましたよ』
男性は日本式のお辞儀をすると、踵を返してしまった。
初めから僕の意見なんて求めていないと、背中が告げていた。
今できるのは、アーサーさんに会って話をすることだ。
走り出すより先に、アーサーさんが小走りでやってきて僕を見つける。安堵の息を吐き、頬が緩んだ。
「すみません、お待たせしました」
「アーサーさんって、スリランカ出身なんですか?」
緩んだはずの頬がひきつる。ここまで顔色が変わるのも珍しい。
「いいえ、イギリスです」
それでも、きっぱりと彼は言う。パスポートを見せられたわけでもないのに、信じたいし信じている。けれど、どうしても先ほどの話が頭から離れない。
「さっき、アーサーさんと話していた男性の仲間と会いました」
「……何を話した?」
アーサーさんは手を強く握り、低い声を出す。
一言で言うなら、怒りだ。僕に対してではなく、他者に向けた許せない怒り。
「アーサーさんを、スリランカに戻ってくるように伝えてほしいって。彼はスリランカ出身だからと言っていました」
「イギリスです。間違いなく」
二度目もきっぱりと言う。迷いはない。
「気になったのは、魂からスリランカで生まれたと言ってたんです。日本ではあまりそういう言い回しはしません」
「魂、ですか。確かに、根っこを辿ればスリランカにたどり着くかもしれませんね」
投げやりに笑い、失笑する彼を初めて見た。とても怖い。知ってはいけない違う一面を知ってしまった。
「賭は負けだとも言っていました。アーサーさんの負けのようだって」
「それは忘れなさい。あなたが知るべきことではない」
アーサーさんは、吐き捨てるように言う。
「彼方さんは自身のことを呪われていると言いましたね。ある意味、私も同じです」
「どういう意味ですか……?」
「魂から呪われていて、自分ではどうすることもできない。万が一初恋の人に会えたとしても、行き着く先は似たようなものです」
僕はどうしていいか分からなかった。声のかけ方も、頼ってほしいとも言えない。経験も乏しく、僕の言葉では呪いが解けないと知っているからだ。
「僕は、どうしたらいいですか……?」
情けないことに、頼る言葉しか出せなかった。
「あなたはあなたのままでいて下さい。彼方さんの存在に救われています」
「僕は大それた存在じゃないです」
「私を普通に扱ってくれたこと、とても感謝しています。あなたがアルバイトを辞めるときまで、どうか……」
アーサーさんは俯き、僕の手首を掴んだ。
辞めるとき。それはいつだ。大学を卒業したらいずれ就職する。英語を生かした仕事をしたいと思っているが、四年後の話は遠すぎて未知数すぎる。
そうなると、将来は必然的にアルバイトを辞めなくてはならない。覚えることに精一杯で楽しくて、それもまた遠い話。
「呪いって……解けるんでしょうか」
「あなたの呪いが解けることを、いつでもどこへ行っても願っています」
アーサー・ラナウェーラという人物は、ひどく悲しくて優しいすぎる人間。自分よりも、他人を思える優しさは残酷だ。大切な自分を蔑ろにして、そのあと何が残るのか。
思い出さないようにしていた呪いや未来の話は、僕には重くて受け止めきれない。いつしか彼の呪いの話から僕の未来へすり替わっていて、他人を思いやれず自分本位な僕もまた残酷な人間。
「あなたは……優しすぎます。どうか自分を大切に」
真逆なことを言われてしまった。
僕はちっとも優しくない。
手首を掴む手が小刻みに震えていて、彼の手の甲を包んだ。
そうすると、少しだけ震えは収まった。
アーサーさんを見ると、泣きそうに顔が歪んでいて、僕の知らない言語で口を開いた。今しがた話した男性とはまた異なる外国語で、『エメ』とだけ聞き取れた。
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