サイン

 ソラがベッドに寝かされ、膝の下に枕を入れて太腿に力を入れる「枕つぶし」をやっている時だった。

 車椅子に乗せられた一人の少年がベッドの横を通り過ぎるのが見えた。少年は振り向き、声を上げた。

「ソラ! 双葉空だ!」

 ソラはビクッとした。


「先生、ちょっと止めてよ」

 少年はそう言って、ソラに話かけてきた。

「双葉空でしょ?」

「あ、ああ」

 ソラがそう言うと

「本物だ! すげ〜!」と目を輝かせた。

「ねえ、後でサイン下さい!」

 車椅子を押していた先生が「こらこら」と言いながら、車椅子のブレーキを掛けてソラのベッドの近くにしゃがんだ。

「すみません。この子、ソラ選手の大ファンなんです。すごく頑張り屋でいい子だから、後でちょっとでいいから会ってやってもらえませんか?」

 ソラは嬉しそうに笑った。

「ええ、勿論」

 そう言って、少年に小さく手を振って「じゃ、後でな」と言った。


 ソラのリハビリは短時間で終わり、疲れが出ないように病室に戻らなければならなかった。ソラの先生が少年の先生に声を掛け予定を確認していた。


 その日の夕方、さっきの少年が車椅子に乗せられてソラの部屋にやってきた。

 少年を連れてきた看護師はソラに了解を得ると「じゃ、三十分後に迎えに来るからね」と言って出ていった。

 ソラはベッドの頭側を上げて、座った姿勢になった。少年は勝手に語り始めた。


「僕の名前は守谷もりやたける。中学二年生。小学生の時にテレビで双葉空を見て、ファンになったんだ。転んで怪我したのに前に追いついてエースをアシストしたレースだった。かっこよかったな。僕もあれをやりたいって言ったら、父さんが『まずはBMXからだ。もう少し大きくなったらロードに乗ろう』って言って、僕はBMXの選手になった。

 いつもテレビで双葉空が頑張ってるのを見て、僕も頑張った。中学生の日本チャンピオンにもなったんだよ。


 だけど三ヶ月前に、ジャンプで失敗してこんな身体になっちゃったんだ。

 頸髄損傷ってやつで、足はもう動かないし、手も少しだけ。もう自転車には乗れないけど、ちゃんと自分で何でも出来るように、今頑張ってリハビリしてるんだ」


 ソラは言葉を失っていた。


「石山先生が僕を助けてくれたんだ。先生は去年ソラの手術もしたって言ってた。あの時先生は『ソラが今年のツールを走るのは無理だと思っていたけれど、凄く頑張ってるからもしかしたら出場出来るかも』って言ってた。ソラがまた大きな怪我をしてしまったって聞いた時は僕は凄く悲しかった。でもまさか、ここで会えるなんて思ってもみなかった。僕は怪我して、いい事なんて何も無いって思ってたけど、今日いい事があった。怪我したから本物のソラに会う事が出来た。

 ねえ、ソラはまた自転車に乗れるようになるんだよね? 僕はもう乗れないけど。僕はソラをずっと応援してるから。これまでも、これからも。ソラが頑張っているから僕も頑張れるんだ」


 タケルがソラに顔を向けると、ソラは涙を流していた。

「あっ、ごめんなさい。僕、変な事言っちゃったかな?」


 ソラが首を振った。

「ご、ごめん。オレ泣き虫で。泣き虫克服出来たと思ってたんだけど、この怪我してまた泣き虫になっちゃったみたいだ。

 タケルは凄いな。ありがとう。嬉しくて泣いちゃった。

 最近凄く弱気になっちゃってたんだ。でももう大丈夫だよ。オレ頑張るから。必ず復活してみせるから。見ててな。タケルも頑張るんだぞ」


 そんな話をしているうちに、看護師が迎えにきた。

「そうだ。サインを貰いに来たんだった」

 タケルがそう言ったので、真崎さんがポストカードを何枚か入れておいてくれたのを思い出した。看護師さんに頼んで棚の中に入っているポストカードとサインペンを取ってもらった。上手く力が入らなかったがいつもよりサインらしく書けた。久々にポストカードにサインを書いて、オレはプロ選手なんだという気持ちがよみがえった。


「そうだ、このライオンもタケルにあげるよ」

 ソラが言うと、一瞬タケルの目が輝いた。

「え? でもダメだよ。そんな大切な物、貰えないよ」

 ソラは首を振った。

「オレ、四つ貰ったから。一匹はダイチさんにあげたけど、こいつ入れて三匹持ってるんだ。だから一匹貰ってくれないか? 今度誰か来てくれる時に、また一匹持ってきてもらうから。だからオレは大丈夫」


 タケルの笑顔が弾けた。

「ホントにホントにいいの? 僕、挫けそうになったら、このライオン見て頑張るよ。双葉空に貰ったライオン、すっごく大切にするから。ありがとう!」


 車椅子に乗ったタケルの膝の上にに看護師がライオンを置いてあげると、タケルは嬉しそうな顔をして、動きにくい手でライオンの頭を撫で、部屋を後にした。

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