第16話 俺のやる気スイッチ
ユナの唇が俺の唇に押し当てられている。
一体どういうことだろう?
え? あ、えーっと、本当にどういうこと? 何が起きている?
混乱と動揺で身体が硬直する俺を気にすることなく、ユナは好きに唇を貪っている。
「んんっ……!」
至福な柔らかさが唇から伝わってくる。
しっとり濡れているとか、プルップルだとか、リップでも塗っているのだろうか、吸い付くような感触がするとか、吐息がくすぐったくて艶めかしいし、なにこれ、超良い香り。もう訳が分からない。
ただ、脳が蕩けるような甘さがして、全身に温かな幸せが広がっていく。気持ちいい。
ずっとこうしていたい。もっとキスしていたい……。
俺の下唇がハムハムされ、名残惜しむようにゆっくりと離れた。
「お兄。私だけを見て。私のことだけを考えて」
両頬を手で包み込まれ、綺麗な瞳が俺の瞳を覗き込んで深く射抜く。
「ハイ! お兄立って!」
「え? あ、はい」
引っ張られて促されるまま俺は
「あれ? 立てた……」
「お兄逃げるよ!」
手を引かれて駆け出す。
あれほど力が入らなかった両足が動く。力の入れ方も思い出した。俺の意志で身体が動いている。
『ヂュァァァアアアアアアアアアアッ!』
背後で魔物が咆えた。棚を吹き飛ばして俺たちを追ってくる気配がする。
まだ恐怖はある。でも、今はキスされた時の動揺が強い。それほど鮮烈で印象に残る行為だったのだ。
俺、キスしたんだ……妹と、ユナとキスを……。
ファーストキスを奪われたんだ、俺……妹に……。
「お兄こっち!」
ユナに引っ張られて角を曲がる。勢い余った魔物が棚に正面衝突する音が聞こえた。
思ったよりも接近していたようだ。
「どこに向かっているんだ? こっちは外だぞ!」
「外に行きたいの! 人がいっぱいいるお店の中を逃げ回ってちゃダメでしょ! それに、外なら探索者もいるから!」
「そうか。探索者か!」
彼らなら魔物を退治してくれるだろう。警報や騒ぎを聞きつけてこの付近にやって来ているはず。お願いだから倒してくれ。
店内には数名、悲鳴を上げて逃げ回っている人がいた。俺たちを見た瞬間、慌てて離れようとする。
となると、魔物はまだ俺たちを追いかけているということだ。
どうして俺たちばかりを狙うんだよ!
だがまあ、他の人を襲わないで被害が無いから良しとしよう。
「あの、ユナ?」
「なにっ!?」
「今のキスだけど……」
「15年ちょっと守り続けてきた私のファーストキスだよ! それが何か!?」
「……俺でよかったのか?」
いや、聞きたかったのはそんなことじゃない。何故あの状況でキスしてきたのか知りたかったんだ。
走りながら、仕方がないなぁこのお兄は、という憐憫の眼差しを向けてくる。
「贅沢を言うと、もっとムードが良い場所でファーストキスを奪って欲しかったなぁという乙女心があるけれど、あのまま何もしなかったらお兄は死んでたでしょ!」
「それは……」
「人工呼吸と一緒! 荒療治! 恐怖で身体が動かないのなら、別の感情で上書きすれば動くようになると思ったんだよね。効果抜群!」
上手くいって良かった、と小さく呟く。
確かにユナの言う通り、キスをされた驚きで恐怖が吹き飛んでいった。
今もこうして動けるのは魔物のことを考えずにユナのことを考えているから。
なるほど。『私だけを見て。私のことだけを考えて』という言葉はこういう意味だったのか。
神様、仏様、結那様。生き残ったら拝み倒そう。
「それに、お兄は私にキスされたら何でも言うこと聞くんでしょ?」
ニヤリと色っぽい笑顔を浮かべるユナ。全く大人になりやがって。
お兄ちゃんは悪い虫が寄ってこないか心配だよ。誘われてきた害虫は叩き潰さなければ! 疑わしきは処刑せよー! 抹殺じゃー!
「数分前にそんなことを言ったな」
「なら、私の言うことを聞いてもらうよ! 今日生き残って、私特製美味しいプリンをお兄にア~ンさせろー!」
「よし! 死んでも生き残ってやる! 俄然やる気が湧いてきた!」
ふっふっふ。シスコンの兄を嘗めるな。そんなご褒美を提案されたら魔物なんて怖くない! 何としても生き残る!
大体、1メートルくらいの大きさの鼠なんてカピバラだカピバラ。走る速度はイノシシ並みのカピバラだ。なんてことはない。
どことなく可愛く思え……ないですね! 全く可愛くない。ガラスに反射する鼠の魔物は涎を飛び散らせている。超がつくほど気持ち悪い。
見た目はカピバラからかけ離れている。
あんなのに喰われて死ぬなんて御免だ!
「外に出るぞ!」
「うん!」
『ヂュアッ! ヂュァアアッ!』
俺たちは手を繋いでスーパーの外に出る。自動ドアの開閉時間がもどかしい。
外はガランとしていた。通行人の姿はない。車も路肩に停めてあり、近くの建物内へと避難したか、車の中で縮こまっているのだろう。
背後から魔物が追ってくる。
『ヂュォアアアアアア!』
「あぁもう! しつこい! ストーカー鼠! 魔力が多い人を狙うんじゃないのかよ! ザトスのところへ行けー!」
「そうだそうだ! お姉のところに行っちゃえー!」
『ヂュゥゥウウウウウウウウ!』
「……俺がいうのもなんだが、ザトスのこと心配じゃないのか?」
「え? お姉ならあんな魔物瞬殺するでしょ。お兄はお姉のこと知らない? 二つ名持ちの有名探索者だよ? アレでも」
「アレでもって……テスト勉強で忙しかったんだ。全然調べてないし本人からも聞いてない」
なにその『あんな有名芸能人の名前を知らないの? えぇー嘘でしょ!』と言わんばかりの残念な人を見る目は。
だってあの腹ペコ系残念美少女だぞ。拡張世界の未踏破領域を一人で探索する実力はあるから有名だろうとは思っていたが、あのザトスだぞ。高校生ならば美少女の正体よりもテスト勉強のほうが重要だ。
『ヂュィィアアアアアアアアアッ!』
「本当になんで俺たちばかり追ってくるんだ? ユナ、魔力が多かったりする?」
「そんなわけないでしょ。一般人です。お兄こそ魔力が多いんじゃない?」
「ないない。普通だ」
拡張アプリの『自己診断』で自分の魔力量は常に把握している。一般人並みの魔力量だ。決して多くはない。至って普通。
全く心当たりはない。
その時、俺はザトスの言葉を思い出した。
『この辺りで一番魔力が多いのは私! 襲われるなら私なの!』
もし魔物がザトスの魔力に引き寄せられてこの辺りに近づいてきたとしたら……。
もし魔物がザトスの魔力の質や波長、匂いはあるかどうかわからないけれど、そういった彼女の魔力の性質におびき寄せられているとしたら……。
もし魔物が、魔法の訓練の際に俺の中に注ぎ込まれたザトスの魔力の残滓を感知しているとしたら……。
こんなに執拗に狙われる理由にも納得である。
「あぁもう! そういうことかよ!」
「え? なに? どゆこと!?」
最後の魔法の訓練は昨夜だ。俺の体内にザトスの魔力が残っている可能性はとても高い。
それならばユナと離れれば……いや、万が一の可能性もある。魔物が一体とは限らないし、捕らえられないのなら別の標的へと切り替えるかもしれない。離れるのは危険すぎる。
俺はまだ魔力制御のコツを掴んでいない。ご都合主義展開を期待もできない。魔物に抗う術を持たない。
「今は逃げるしかないってことだ!」
『ヂュォオオオオッ! ヂュォオオオオオオオオオッ!』
放置された車を使って上手く魔物から逃げる。
持ち主の人、車が傷ついたり、凹んだり、窓ガラスが割れているかもしれない。ごめん。保険があるからいいよね。
「お兄……!」
「どうした!?」
「そろそろ体力がヤバいかも……」
ユナの肌には汗の雫が浮かび、髪が張り付いている。服もぐっしょりだ。息は荒く、呼吸をするだけで辛そう。
帰宅部の女子高生の体力は限界だ。
正直、俺もキツイ。もっと体力をつけておけばよかった。帰宅部は体育でも全力疾走はしないんだぞ。
背後にはまだまだ体力が有り余っている魔物。こういう時に限って、更なる絶望が襲ってくる。
「おいおい。もう一体かよ」
『ヂュァァアアアアアアアッ!』
目の前に立ち塞がる新たな鼠の魔物。慌てて立ち止まる。
ユナは膝に手を当てて苦しそう。
『前門の虎、後門の狼』ならぬ『前門にも後門にも鼠』だ。絶体絶命。
『ヂュア!』
『ヂュウ!』
恐怖が湧き上がってくる。こうなったら――
「ユナ! 全部終わったらもっとすごいご褒美をくれ!」
「はぁ……はぁ……! それ、死亡フラグじゃないよね!?」
「こうでもしないと足が竦みそうなんだ」
「はぁ……はぁ……! わかった! とびっきり濃厚なキスをしてあげる! エッチだってしてあげるんだからー!」
「そこまで求めてなかったんだがっ!」
妹に、乙女にここまで言わせて諦めるのはシスコンが、いや男が廃る!
「限界を超えろー! シスコンを嘗めるなー!」
「きゃっ!」
俺はユナをお姫様抱っこして、魔物がいない方向へと再び走り出した。
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