第9話
「……お前、まさか」
「……」
一瞬、相手の声色が変わった気がした。
何がまさか、なのだろうかと、私は少しだけ顔を出して様子をうかがう。
「まさか、そちらの令嬢はキミの婚約者なのか?」
まさかの言葉に驚かされて、
「……」
まさかの返答に、さらに驚かされる。
(私が、婚約者……?)
見間違いでなければ、ノル様は確かに小さな頷きを返していた。
私が、婚約者。
並みの使用人よりも役に立たないどころか、ノル様に何もしてあげれていないというのに。
婚約者など、もってのほかなわけで。
あーだがこーだなわけで。
「……」
「おや、見せつけれくれるね」
そんな私のぐちゃぐちゃになった思考が、ノル様に強く抱き寄せられたことでさらにぐちゃぐちゃに絡まってしまう。
「あの、えと、ノル様?これは、その……」
「……」
私が慌てふためく姿をみせても、ノル様が姿勢を崩すことはなく。
しかしそれは普段の凛とした姿ではなく、むしろ子供が駄々をこねているようなそんな雰囲気を感じた。
(……ギャップ萌え)
「まさかエルシンク家の長男たるこの私が、お前に後れを取ることになろうとはな……」
妙なポーズを決めながら、また仰々しく驚く訪問者の男性。
(いやそれより、エルシンク家って……)
エルシンク家。
私でさえしているその名は、この辺り一帯の家々を取り纏める一流貴族の名前で、本来私のように小さな家出身の者では姿を見ることさえ難しい存在だ。
(そんな方とこんなに、親しい?関係だなんて)
持参金の時点で上流階級の方なのだろうとは思っていたが、改めて自分との差をまた一つ痛感させられる。
「そう硬くならなくていいよ。レディに困り顔は似合わない」
ノル様に心を読む力があるのかも知れないと思っていたが、どうにも私の感情が表に出やすいだけだったのかもしれない。
初対面の相手にすらこうして察されてしまうとは。
『こいつの言うことは、気にしなくていい』
視線を隠すように伸ばされたマントの内側で、秘密のやり取りが行われる。
『いきなり来て何の用だ』
『さっさと帰れ』
『これ以上サラを困らせるな』
多数の書きなぐられた言葉が斜線で消されて、最後に残されていたのが先ほどの一言。
その冷静沈着な表情とあまりにかけ離れたありさまに、
「……ふふっ」
私は思わず吹き出してしまった。
「いいね。やはりレディは笑顔が一番だ」
マントに隠されて姿は見えていないはずなのに、声だけでそんなことを言われた。
きっとマントの向こうで頭に手を当て、存分に体をくねらせていることだろう。
『妙なやつと知り合わせてしまって、本当にすまない』
更新された走り書きごとノル様の手を握り、そこへ額をこつんと当てる。
「悪い方ではないようですから、問題ありません。ただ少し驚いただけですので」
ノル様の友人(?)であることを差し引いても、悪い人でないと思ったのは本心で。
(……苦手なタイプではあるけれど)
この真逆な二人がどういった経緯で出会ったのか。
ノル様について知りたいことがまた一つ、増えてしまった。
「まぁ、元気そうで安心したよ。様子を見に来た身としてはね」
その刹那、声が少し近くなったと思ったら、
「それじゃまた会おう。麗しきレディ」
頬に何かが、触れる感触がした。
「……!」
再びマントが私の視界を遮ったかと思うと、隣に立っていた気配が遠ざかっていくのを感じる。
(今の、って……)
とぼけるにはあまりにも具体的すぎる感触で。
十人に聞けば九人は、同じ答えを返すだろう。
(キス、された……?)
キスくらいは挨拶、なんて話を聞いたことがある。
上流階級の人たちにとってはこのくらい、日常茶飯事なのかもしれない。
だって現に今も、ノル様の顔が目の前にあって。
「えっ……」
「……わぁ」
今度は頬になどではなく、正真正銘のまごうことなきキス。
(ほらやっぱり、挨拶みたいなものなんだ。でもあれ、口にするのって、あれ)
なんとか平静を保とうとしても、次から次に制御不能の感情が押し寄せて、完全にパンクしてしまった頭がかろうじて意識だけは繋ぎとめようと頑張っている。
「それじゃ、噛みつかれないうちに退散させてもらおうかな」
「……二度と、来るな」
「おおぅ……そうさせてもらうかもしれん」
遠くで声が、聞こえた気がする。
隣にいるはずなのに、なぜか遠く、遠く。
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