Ⅱ マリオネット
庭で子猫が三回
呼んだ
その数どうして決ったの
軒の風鈴
返事はひとつ
どうして二つじゃいけないの
ぼくはおつかい
郵便局へ
何の気なしにまわり道
ぼくの名前と顔をして
午前中いっぱい、
前庭の芝生では、患者たちと付き添いの者たちが幾人か、透き通った陽差しを浴びてそれぞれの
庭の外には町が延び、町の向うには海が見え、海には船が浮び、その向こうは空に続いていた。広すぎる。沖を行く船が目に映る通りの大きさのおもちゃではない事をこの幾日かの間に友也は学んでいた。空が、手を伸ばしても決して触れることのできないほどに深い、実体を持たない空虚であることをはじめて知った時は、足場がいきなり崩れ去って行くような恐怖に襲われたものだ。この有機世界を占める全ての物は、劇場の大道具や遊園地のミニチュアなどではなく、彼らが「実物」と呼ぶ本物なのだ。
もう一度、前庭に目を戻し、散歩する人々の動きを見つめて考える。彼らには台本がないのだろうか。台本を失くした自分のように、どの人間も、どの花も、その場その場で即興を演じながら、筋書きのない今を生きているのだろうか?
きょうはこの後、臨床医との面談がある。入院後はじめての精神科医によるカウンセリングだ。
覚醒直後の数日を除けば、友也は自分の恐怖や敵意を表に出してはこなかった。できるだけ平静を装い、用心深く心を閉ざし続けてきた。得体の知れない怪物相手に手の内を晒すなどできるわけがない。だが、どれほど自分を抑えていても、友也の混乱は隠し通すにはあまりにも大きく、様々な折にほころびを見せずには済まなかった。
友也の内には、今日のカウンセリングへの烈しく矛盾する葛藤があった。目覚めてからひと月近く、怪物たちを心に踏み込ませたことは一度もない。医師や看護士は、こちらが余所余所しく振舞っておきさえすれば敢えて近づいて来ようとはしなかったし、「母」でさえ、打ち解けたふりをする友也に距離を置いていた。それで当面の孤独だけは保たれている。だが、それは正しいのか?
このまま、いつまで仮面を被り続けて行くのだろう。この見知らぬ世界の病室でただ独り、ひたすら心を閉ざし続けるだけで何かが変るのか。もし、このまま彼らが何も仕掛けて来なければ、「私」はこの有機物の容れ物の底に、永遠に独りで置き去られることになるだろう。独りでは決して脱け出せない。
危険を冒してでも踏み出して行くべきなのか?だが、それは破滅を招きかねなかった。
静かに立ち上った医者は、友也に訊いた。
「君は誰なの」
狭すぎない、程よい広さの診察室に、天窓から明るい陽光が降り注いで来る。窓全体が
言葉が出ない。そのまま医者を見つめ続ける。ここでは一度も見たことのない相手のようだ。怪物たちの顔の違いや表情が、今ではかなり見分けられるようになってきている。見かけは大人なのに、一瞬、年上の少年がそこにいるかのような錯覚が
「よろしく、
簡素な椅子にかけ直すと、古深は目だけで友也を招いた。友也は一つしかない診療机をはさんで斜めに置かれた重厚なソファーに身を
医者が向こうから、友也の前に三次元タブレットと電子ペンをよこした。
「何か
友也は指示に従って静かにそれを描きはじめた。できるだけ正確に、力の及ぶ限りのディテールを施して、最も表現しなければならない物の姿を再現する。「よせ」 —— 途中、幾度となく差し挟まれた己の警告をその都度、強引に振り切ってそれを創り上げ、差し出した。
怪物は、受け取ったホログラムをしばらく見つめると、一度だけ机の上でクルッと回して別の角度からも確めた。そこには、ぎごちなく両脚を投げ出し、上体を頼りなく起してうなだれた人形の姿が浮んでいた。手足や首には何本もの糸が結いとおされ、どの糸も空中にたち消えていた。
「これは何?」
怪物が訊く。
「ぼくです」
友也はまっすぐに顔を上げて言い切った。挑むように古深を見つめるが、相手はあまり表情を変えなかった。
「君はマリオネット?」
戸惑うでもなく突き放すでもなく、静かに事実を確認してくる。
「はい」
友也はこの異界に落ちてからはじめて自分の言葉で物を言った。もう何も隠さなくて良い。
「何でできているの?」
「ガラスです」
「ふぅん … 」
医者の口もとがわずかにほころんだ。苦笑ではない。友也には得体の知れない反応だった。
初回の診察はそれで終った。
(※1 二酸化炭素は無機物)
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