第5話  悪夢

 ――それは、悪夢。

 

 幾本の稲妻が奔っている。幾多の雷雲が天を支配していく。

 夜闇の高原の中、広がるのは死の気配。破滅の連鎖。

 吹きすさぶ激烈な夜の嵐の中、リゲルとアーデルの声だけが木霊する。


『何故だ、何故なんだ、アーデル! 僕らは乗り越えてきたはずだ! 《ヴェルシア高原》での激戦を! 《ユーラベールの渓谷》での死闘を! それを、無為にする気か……っ!』

『それこそが勘違い。我は貴様たちを仲間と思った事など無い。ゆえにこの行動こそが我が宿願のための妙手』

『アーデルッッ!』


 傍らには倒れた《六皇聖剣》の仲間が転がっている。

 

『今ならまだ、間に合う! 《錬成》で彼らに救いを! せめてファティマとフィリアだけは! 頼む、アーデル……っ』

『残念だが我にその気は無い。全ては我が大望のための偽りの日々だった』


 悲しみに満ちたリゲルの声は、しかし彼には届かない。

 いや、声自体は届いているだろう。

 けれどその魂の叫びも、嘆きも、何一つ彼の心を動かすには至らない。


『――さらばだ、我が同志だった者よ。我が永遠の《楽園》のため、その身を捧げるがいい』

 

 黒く、絶大な魔力の篭手が、リゲルへと差し迫る。

 悪魔の手にも勝る――最凶なる篭手。仲間のスキルや命を奪った魔の光景。

 絶望と、裏切りの象徴たるそれを前に、リゲルは――



†   †



「――さん! リゲルさん!」


 天使のような、儚く、けれど確固たる意志の声に導かれ、彼の『意識』は浮上する。


「……はっ、はっ、はっ、はっ……っ!?」


 真夜中の宿屋。

 拠点の宿屋のベッドだった。

 汗が吹き出る。心臓が痛いくらいに高鳴っていた。

 ドク、ドク、ドク……リゲルは震える体を押さえ、ベッドを軋ませ、青ざめた顔で飛び起きる。


「ゆ……め……?」

 

 傍ら、地獄の光景はどこにもない。宵闇の薄暗い部屋。窓の外にはかすかな月明かり。

 薄いカーテン越しに、酒場の賑やかな酒盛りの光景。かすかに虫の音だけが聴こえてくるのが分かる。


「……そうか。『あの日』の夢を、また見たのか」

「は、はい……リゲルさん、ずっと唸ってました。《六皇聖剣》の名や、アーデルへの嘆きを」


 美しき銀髪の少女がそう説明する。

 リゲルは、自らの身体を見渡し、どこにも異変がない事を確認する。 


 時折、リゲルはこうして『悪夢』を見ることがある。

 それは遠い過去。あの時に失った仲間と力、そこから再現される――地獄の光景だ。

 もう何度も悪夢に苛まれ、苦難に襲われてきた。その度に、ミュリーは介抱してくれた。


 彼の体を心配し、手を繋ぎ、励ましの言葉をかけて。

 今日もどうやら、彼女のお世話になっていたらしい。


「……はは。おかしいよね。もう二年半も経つのに。みっともない」

 

 自嘲するように、つぶやくリゲル。


「僕はまた強くなった。探索者としてやり直し、君と出会った。それなのに……」


 心の弱さが招く悪夢というものは、リゲルにとって恥だ。

 あの日の光景がいつまで経っても忘れられない。むしろ畏れの対象になっている。それは、彼にとって屈辱だった。


「……いえ、そんな事ありません。リゲルさんの痛みは当然のものです」

 

 ミュリーは優しく首を横に振る。


「信じていた人に裏切られ、仲間を殺される……そんな恐怖や絶望は、簡単には消えてくれないものです。リゲルさんが受けた痛みや悲しみは、それだけ大きかったのでしょう? だから……自分を卑下しないでください」

「ミュリー……」


 悪夢の淵から救ってくれた少女は、優しく言う。


 本来、『記憶』がない彼女は、ある意味で、リゲル以上に不安なはずだ。

 自分が何者なのか。封印されていた理由、全て判らない。

 記憶とは自分が自分であるための根源だ。

 それが無く、過去のない彼女は、リゲルよりずっと過酷だろう。

 だからこそそんな彼女の言葉は重く、そして正しい。


「過去はリゲルさんを形作る重要なものです。アーデルとの共闘も、裏切りも、それだけリゲルさんの中で大きかった要素。だから、自分を弱く思わないでください。あなたは、素敵な人なのですから」


 銀色の髪を揺らし、真摯にささやくように言うミュリー。

 過去がない彼女はリゲル以上の苦しみのはず。

 それなのに、彼女はそんな気配を微塵も見せず、こうして手を握ってくれている。

 リゲルは――彼女への感謝と尊敬の気持ちで一杯になる。


「ありがとう、ミュリー」

「ひゃ……!?」


 リゲルが、そっとミュリーの肩を抱き寄せる。

 すると、少女は恥ずかしそうな声で驚いた。


「いつも頼ってばかりでごめんね。でも嬉しい。君がいてくれて。君には……感謝してる」

「り、リゲルさん……。いえ、わたしに出来る事は、これくらいですから。『契約』と『祈り』と……せめて、悪夢を和らげるくらいは、してあげたいです」

「ミュリーがいてくれるから、僕はやっていける。悪夢も和らげる。――君がいてくれて、本当に良かった」


 一人でなら、あの悪夢も乗り越えられなかったかもしれない。

 あの日、リゲルが失ったものは膨大で、深く、強過ぎていて。

 そんな彼がこうして戦っていられるのも、ミュリーがいてくれるからこそ。

 だから、リゲルはそんな彼女を大切に想う。助けてくれてありがろう。ずっとそばにいてありがとう、と。


 そんな風に、抱き寄せる体に力を込める。


「リゲルさん……」

「君のおかげで、『今夜』も乗り越えられた。きっとこれからも。――ミュリー、僕には君が必要だ。だからずっといてくれ」

「リゲルさん……わたしも」


 数千もの間、鎧の中で封印されていた彼女。

 その孤独と戸惑いは、並大抵のものではなかっただろう。


 ぬくもりを欲しているのは、決してリゲルだけではない。

 過去も記憶もなく、全てが失われた『精霊』のミュリーと。

 英雄の座から陥落し、それでも足掻くと決めた『元剣聖王』のリゲル。


 二人は、月明かりの中、しばし、無言の抱擁をし続けた。


 

 ――やがて、どれほど時が過ぎただろう。

 お互いの体温が伝わり合った後。どちらともなく小さく笑い、体を離した。

 リゲルは優しげに見つめる。

 ミュリーも、恥ずかしそうに頬を染めながら、そっとはにかんだ。


「わたしも、リゲルさんに会えて良かったです。あなたとの毎日が、幸せです。だから――」


 銀色の髪を振り、柔らかに言葉を紡いだ少女は。


「――いつまでも一緒にいてください。ずっと、ずっと……」


 ――月明かりに照らされ、手を重ねる精霊の少女の微笑みは、まるで美しい天使のようだった。


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