第52話 因縁生起

「しかし、昔のままの姿で戻ってきたのだとすれば、何か未練があると、生きている私たちが思ってしまっているんですよ。そう考える何かがあるということなんです。つい最近まで、私も死んでしまった恋人のことをずっと考えていました。でもそれは、若くして亡くなってさぞ未練だっただろう。まだあれこれしたかったのではないかと考えてしまうからだと気づいたんです。和葉さん、あなたは祐樹さんが何を未練に思っていると考えますか」

 そして亮翔はそんな和葉の背中を押すように、優しく微笑んで問うた。それは一歩踏み出すために必要だと、そう言っているかのようだった。

「あっ」

 ふと、何かに気づいたように和葉が視線を右から左へと向けた。しかし、彼女はふるふると首を振ると、もう一度右を見る。

 そちらにあるのは窓だ。風が吹いているのでレースのカーテンが揺れている。気温が丁度いいから、窓から入ってくる風が気持ちいい。そしてその先には洗濯物があった。風を受けてひらひらと閃くのは、洗濯竿の中心にある青色のシーツだった。

「そうだわ。久々にシーツを洗ったの。薄曇りだけど、今日は一日雨が降らないからって。あれのせいね」

 和葉はそこで目を細める。

「あれは、俺のだよな」

 しかし、祐輔は納得できないとばかりに腕を組む。足音と本を読んでたことがきっかけだとして、どうして最終的にシーツへと繋がり、それが幽霊が出たという話になったのか。

「思い出してください。和葉さんはあの時、息子が帰ってきたと言いました。でも、姿は見ていない。でもいるような気がする。この原因は、匂いなんですよ」

「えっ」

 音と匂い。思い出すきっかけになるもの。ずっと亮翔が指摘していたことだ。そしてそれは、紛れもなく実体験から出た言葉だったのだろう。千鶴はなるほどと納得する。だから縁だと言い出したのか。

「祐輔さんのシーツの匂いが、祐樹さんと同じだった」

「ええ。不思議なくらいにそっくりで。そうね、ずっと祐樹のことを考えていて、足音を聞いた気がしたから、あの匂いで本当に帰って来たんだと勘違いしちゃったんだわ。しかも知らないうちにこの人が帰って来てたんだもの。勘違い、しちゃうわよね」

 和葉はそう言うと眼もとに手をやった。涙が勝手に溢れてしまったようだ。

「仏教には因縁生起という言葉があります。総ての物事には必ずそれを生んだ因、つまり原因が存在し、縁、つまり結びつけるものがあって、初めて何らかの結果が出るというものです。幽霊として祐樹さんを思い出してしまったのもそうです。何らかのきっかけがなければ思い出すことさえ難しいのが、生きていくということだと私は思います。そして、失ってしまったという思いから立ち直るのもまた、難しい。我々は誰かが亡くなってしまった時、この二つのせめぎ合いにあうのだと私は考えています。そして、この二つが今日、音や匂い、そして好きだった本を通じることで重なり、幽霊として和葉さんの脳裏に祐樹さんの姿が浮かび上がってしまったのでしょう」

 亮翔の言葉に、そうねと和葉は素直に頷いた。祐輔もなるほどなあと唸っている。

「こうして似たような境遇にある我々が結び付けられたのも一つの縁です。岩峰寺は私のいる願孝寺と繋がりのあるお寺。いつでも、相談してください。私も、死んでしまった彼女のことを考え直すきっかけになりました。親しい人の死というのは、これだけ心に大きな変化をもたらすものなんですね」

 亮翔もまた晴れ晴れとした笑顔を浮かべていて、千鶴は亮翔の中でもこの事件のおかげで何かが変わったのだとはっきり感じていた。




 岩峰寺に戻ると、すでに法話会が始まっていた。集まっているのは近所のおじいちゃんおばあちゃんが中心だ。やはり、仏教の、それもお坊さんのお話を聞こうとするのは、高齢者が多いらしい。せっかく亮翔を使って若い人にもと思っていた企みは、見事に本人不在によって頓挫してしまっている。

「年を取ると、仏教が身近になるからな」

「誰かが、死んでしまうからですか」

「ああ」

 亮翔は頷くと

「日本ではどうしても人の死を通してしか、仏教と関わる機会がない。でも、仏教というのは生きるための知恵だ。こういう考え方をしていては失敗する。こう考えた方が物事をよく考えることが出来る。そういう指針なんだ。だから、もったいないなといつも思うよ」

 そう付け加えた。なるほど、そういう考えがあるからあの相談室を、お茶を飲みながら気軽に相談できる茶話室を作ったのか。千鶴は納得する。

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