第29話 自分の小ささ

 しばらく黙々と酒を飲んでいた亮翔だが、酔い覚ましにと廊下へと出た。

 ちなみに八木はすでに寝落ちしている。自分から振った美希の話題だが、思わぬくらいに食らい方向に進んで責任を感じてしまったらしい。弱いくせにしこたま飲んで爆睡だ。

「そんなに無理しているように見えるのかな」

 勝手に酔い潰れた八木に腹を立てつつ、自分は周囲から見るとそんなに危ういのだろうかと心配になる。もちろん、未練たっぷりでどうしようもない奴だ。しかし、坊主としてはしっかりしてきたと思っていた。だから、坊主のままでいいのかという質問は意外というか、心外というか、もやもやした気持ちになる。

「研究には、あんまり未練がないんだよな」

 廊下を進みながら、ふと坊主でなかったらと考えてみる。しかし、研究者になった自分というのは想像できなかった。同様に、サラリーマンの自分も想像できない。八木と同じく学校の先生というのは論外だった。

「意外と、美希の言葉に縛られているな」

 将来は坊主になる。意外にもそれをすんなり受け入れていた自分がいて、苦笑してしまう。ひょっとしたら、美希は冗談のつもりだったのかもしれない。それなのに、自分はそれが将来の決定事項と思っていた。

「うちってお寺なんだけど、子どもは私一人でしょ。旦那さんにお寺を継いでもらわないとなあ」

 茶目っ気たっぷりの笑顔でそう言った美希の顔を、亮翔は今でも鮮明に思い出すことが出来る。しかし、それは同時に自分がどれだけ美希を忘れられないかを自覚させる。

「死んでしまった人っていうのは、ズルいからなあ」

 綺麗な思い出だけを残して、彼女は太平洋のどこかに消えてしまった。亮翔の中に大きな穴だけを残して。苦笑しようとして失敗し、悲しくなる。

 そのままとぼとぼと歩いていると、大浴場からきゃぴきゃぴした声が聞こえてきた。

 どうやら千鶴と琴実が中ではしゃいでいるらしい。まったく、夜も十一時を過ぎたというのに女子高生は元気なものだ。

「美希も、ああやって誰かと騒いでいたのかな」

 顔はどことなく似ていて、ふとした瞬間に美希かと思ってしまう千鶴だが、その性格はまるで反対のように思う。

 でも、亮翔は女子高生の頃の美希は知らないので、ひょっとしてああだったのだろうかと悩んでしまった。しかし、その悩み自体が無意味だと気づき、頭を振った。

 どうにも駄目だ。少し外を歩いて来るか。八木のせいでますます美希のことを考えてしまう自分に嫌気が差し、亮翔はそのまま大浴場の前を通り過ぎて廊下を進んだ。フロントのところまで来ると、今度は徳義の姿があった。まだ旅館の名前が入った法被を着ていて、仕事中だったことが解る。

「ああ、これはお坊様。どうですか、当館は?」

 徳義は亮翔に気づくとすぐに声を掛けてきた。亮翔は笑顔を作ると

「いい旅館ですね。これだけ素晴らしいと、隅々まで気を配らなければならないのが理解できます」

 と返した。それに徳義は僅かに苦笑する。

「その節はお世話になりました。露天風呂の修理代にしてしまうなんて、愚かですよね」

「いえいえ。今ならばそうしてでもすぐに修理したいと思う気持ちが分かった、というだけですよ。何が大切か。それはその時々で変わるものですからね。お二人にとって、この旅館が一番だった。そのためには経営は常に健全でありたい。そういうことだったのだろうと」

 責めるつもりで言ったわけではないと、亮翔も苦笑してしまう。たまに無自覚で毒を吐いてしまうことがあるんだよなあと、自分の僧侶としての至らなさに気づかされる。しかし、徳義は気にした様子もなく、より笑顔になった。

「そう言っていただけると、助かります。でも、あの絵がたまたま掃除をして出てきた時は、本当に肝が冷えたものです。ああ、これはご先祖様が怒ってるんだと。受け継いできた品は金に替えれるものじゃないと、そう言われた気分でしたよ」

 そしてそう、心情を吐露した。なるほど、十分に反省したわけだと亮翔は頷く。

「何事もこれからです。万物は流転するもの。常に不変なものは存在しません」

「はい」

 徳義はしっかりと頷いた。この人は元から素直なのだろうなと亮翔は羨ましくなる。自分とは大違いだ。

「ところで、夜に少し散歩するならばどこがいいでしょうか?」

 自分の至らなさばかりが目に付く気がして、亮翔は話題を変えた。すると、徳義はすぐに当館の庭はどうでしょうと勧めてくれる。

「中庭と違い、玄関から右側に曲がって頂きますと、そこは湯冷ましのための散歩コースとなっておりますから」

「そうですか。ありがとうございます」

 今から道後温泉本館のある下まで行くのは面倒だったから、それは有り難い情報だった。亮翔はすぐに行ってみることにする。

 自分が小さく思えて仕方がない。この気分を変えたい一心だった。おかげで、亮翔が出て行く様子をあの男性がじっと見つめていることに気づけなかった。

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