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 熊本高校バスケットボール部部室。


 熊本高校の体育館は、体育館がある建物の二階にコートが張ってある。一階は、吹き抜けになっていてピロティーと屋内部活の部室とが存在している。部室が連なる中で、最もグラウンドに近い一室にバスケ部の部室は存在している。


 あれから。


 僕の部屋が出来た直後、僕は久美とともに僕の家を出た。僕はバスケ用具の入ったスポーツトートを、久美は朝から持ってきていた財布や通信機器の入ったミニトートを持って。自転車が無いので、再び歩いて高校まで向かうことになった。


 あくまで歩いて行った。四時過ぎて部活は既に始まっていたが走ることはしなかった。確かに、バスケはしたかったが、部活の練習を丸々したいというわけではなかったのだ。


 ただ、最後にバスケの試合がしたかっただけだ。死ぬ前に一度だけボールで遊んでおきたいというだけだった。つまり、急ぐ必要はない。むしろ、試合だけしたかったのでゆっくり歩いて行けばいい。


 久美の右手にはまた、小さな闇が戻った。つまり二人は今誰にも観測されていない。何を話しても自由であったのに、僕ら二人は何も会話することなく道を歩いて行った。


 校門に辿り着いて、彼女はギャラリーで見ていると言った。僕は二人が離れるのは危険では、と考えたが、僕が言うよりも先に久美がその答えをもう言った。


「ウィズさんなら大丈夫だよ。承認してくれてる。私が一旦オフになったとき、ウィズさんから連絡があった。由人の願いを叶えるって。だから、もう邪魔とか、余計な茶々は入れないと思う」


 久美がギャラリーへ、僕は着替えるために部室へと向かった。


 というわけで、僕は部室の前にいた。


 扉を開けるとそこには、


「あ、ちーす先輩」


 一年の秀がいた。


 村山秀。一年。身長一七〇センチくらい。


「あれ? 先輩、今日休みだったんじゃないんですか? ノリさん達がぶーぶー文句言ってましたけど」


 ノリさん、三年生。副キャプテン。というか三年生は三人しかいないから全員役員に入る。


 ちなみに三年生は武田さん、ノリさん、たけやんさん。二年はまあ、たくさん。一年は、あまり覚えていない。ただこいつ、秀だけは覚えているも何も中学生の時から知っていた。


 村山秀といえば、県トレ──すなわち中学県選抜の常連に名を連ねていた。僕が中二の頃から既に中一で県選抜に入っていた。あまりにも有名過ぎた。バスケで高校に行くものだと誰もが思っていた。だが彼は一般入試で高校受験に臨んだ。そしてここ熊本高校に進学し、そのままバスケ部へと入った。周囲の大人も子供も驚いた。あれだけ大人たちは学部高校や高津高校などスポーツ特待を受けるだろうと言われていた、いや、もしかしたら県外だろうと言われていた逸材が当たり前のように、熊本高校バスケ部に入部してきた。


 ちなみに、まだレギュラーは取れていない。本人としても先発だろうとベンチだろうとどっちでもいいらしい。「出ることが出来たら全力を尽くします」とかを初めて部活に来た時には言っていた。


 レギュラー争いで、がつがついくのはもういいと、放課後何回か聞いていた。


「……秀は何してんだ?」


「あ、包帯巻いてます。腕怪我しちゃって」


「いや、そりゃ見れば分かるけど」


 秀の左腕には、巻きかけの包帯。座っているベンチにはべろべろに伸び切った包帯たちが転がっていた。


 それに訊いたのはそこじゃなくて。


 秀の顔の前にはホログラムの大きなスクリーンに音ゲーの画面が表示されていた。


 円盤が次々に白いラインに落ちていく。


 秀は、先程からの発言の声は裏返っていた。


 上唇は猫の閉じた口のように、逆カモメの形態。下唇は自然な放心状態。三センチぐらい口を開けたままで喋っている。


「いやー腕怪我しちゃって大変ですよね。一人で包帯巻くのは大変で大変で」


 円盤を次々落としながら秀はそう言った。もう弁解する気はないらしい。


「チアキ先輩とかに手伝ってもらえばいいじゃん」


「いや、マネさんを借りるわけにはいかないっすよ」


 秀は自分の顔の前で右手をぶんぶん振る。


「ところでさ、何聴いてんの」


 僕はすっと右手を伸ばし、スクリーンを後ろと前から摘まみ、音響を個人用からパーティーモードに切り替える。


「あ、ちょ」


 秀は腕を伸ばして、瞬間的に個人用に切り替える。


「……ばれたらどうすんすか」


 本気で焦る秀を前にけらけら笑う僕。


 僕はベンチにミニトートを置き、着替え始めた。シャツのボタンを外しながら、秀に訊く。


「それ、聞くためだけに再生してんの?」


「そうっすよ。この曲好きなんすよ。v.k.克さんのwings of pianoって曲なんすけど」


「あー、聞いたことあるかも」


「なんなら先輩も聴いてみますか。ほんといいっすよ。これ」


 そう言うと、秀は音響を、部室内の二人だけに届く範囲で出し始めた。音響は人の耳に直接届いているので、先程みたいにわざとパーティーモードにでもしない限り外に漏れることはない。


 僕の耳にピアノの音が流れ始める。


「なんか、ゆったりした曲だな」


「あれ、聞いたことないんすか?」


「多分無い」


「ゆったりしてるの最初だけですよ。サビの盛り上がりは半端じゃないっす」


 僕は、そろそろ着替え終わるところだった。バッシュを持って外に出ようとする。


「あ、先輩もうちょっとだけ待って下さい。もうすぐサビなんで」


 左手に包帯を巻きながら、僕の方は見ずに秀は言った。


「ところで、先輩。何でこんなに遅かったんですか?」


包帯をなおもぐるぐると厚く厚く巻いている。


 部室にかけてある時計を見ると午後五時過ぎ。僕の部屋に戻ってきてから一時間が経っていた。


 僕の家から熊本高校まで普通に歩いてきても、ありえない時間の経過だろう。


 それに秀は、いや、僕以外の全ての人間は、全ての事情を知っているのだから。


 誤魔化す必要は特にない。


「大人の事情だ」


「先輩だってまだ十六じゃないですか」


 サビの音が聞こえる。タンッタタン、タタタタンタタン、タタタタンタタン、タタタタータタタタタン、タンッタタン、タタタタンタタン、タタタタンタタタタター……。


 ここだけは聞いたことのある音色だった。特にリズムは確実に聞いたことがあった。


 僕は一気に思い出す。夢の中のあの音を、あの唄を思い出す。


「……じゃあ、俺行くわ」


「あ、はい。頑張ってください」


 背中の向こうから聞こえてくる秀の声は、今度は止めようとしなかった。


 僕は、振り返らずに部室を出た。

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