覚悟と恋の自覚 ④

 ――父の病名を知った時のことは、今でもよく憶えている。というか、この先も一生忘れることはないと思う。


 その連絡を母から受けたのは、その日の午後。お昼休みが終わり、五限目の授業が始まってすぐという時間だった。

 授業中に、ブレザーの右ポケットでマナーモードに設定してあったスマホが震えた。

 開いてみると、発信者は母。直感的に、この電話がいい知らせではないことがわたしにも分かった。


「――先生。母から急ぎの電話が……。出てもいいでしょうか?」


 すぐに出たかったけれど、授業中だったのでためらった。ちょうど、クラス担任でもあった国語の先生が席の側まで来たので、声をかけてみた。

 彼女は事情をお話ししてあったので、先生は「すぐに出て差し上げなさい」と言って下さった。


「――ママ、お待たせ。……どうだった?」


 廊下に出て通話ボタンを押すと、わたしは第一声でそう訊ねた。知るのが怖い、でも聞かなければならない、という複雑な気持ちだったように思う。


『絢乃……、いい? 落ち着いて聞くのよ』


「うん。……大丈夫、言って?」


 母の声は震えていたので、わたしがしっかりしなきゃ、と自分をふるい立たせた。


『……分かったわ。――あのね、パパの病名なんだけど……』


「――え? 末期ガン……?」


 母の返事を聞いた瞬間、わたしは目の前が真っ暗になった気がした。

 神さまは意地悪だ。どうしてわたしたち親子に、こんなにも過酷な試練をお与えになったのだろう?


『ええ、そうなのよ。元々は胃にできてたガン細胞が、もう体中のあちこちに転移してるみたいで。外科的治療はもうできないらしくてね、後藤先生が、できるだけのことをして下さるっておっしゃったんだけど……。余命宣告も受けたのよ』


「余命って……あとどれくらいなの?」


 母にそう訊ねたわたしの声も震えた。


 父が自分の病気に気づかないまま、手遅れになっていたなんて――。せめて母かわたしが何らかのちょうこうに気づいていたら……と思うと、胸がつぶれそうだった。


『もってあと三ヶ月、らしいけど。もう、いつどうなってもおかしくない状態なんですって。一応、病状の進行を遅らせる治療はして下さるそうだけど、その効果もどれくらい続くかどうか、って』


「…………そう」


 わたしは苦しさを吐き出すように、そう返事をするだけで精一杯だった。


「――ねえ、ママ。その治療って、通院で受けられるものなの? 入院しなきゃいけないんじゃないの?」


 抗ガン剤治療なら、どちらでも可能らしいと、わたしは医師の娘である友人から聞いたことがあった。


本人パパの希望で、治療は通院で受けることになったわ。今日も家に帰ってきてるしね。パパはきっと、会社のことが心配なのよ』


「パパらしいね、そういうところ」


 父は自分の会社が大好きで、会長としての仕事にも誇りを持っていた。もし入院することになったら、社員のみんなやグループにたずさわる人たちに迷惑がかかると思ったから、通院治療を選んだのだろう。


『まあね。本人は今、検査疲れでグッタリしてるわ。――で、絢乃。あなた今日、この後学校はどうするの?』


「え……? どうする、って」


『あなたもパパのこと、心配でしょう? 今日は早退してもいいのよ。担任の先生にはママから連絡して、事情を話しておくから。帰るなら、寺田を迎えに行かせるわ。その方が早いだろうし』


 母がわたしのために、寺田さんを動かすことはめったにない。それはつまり、この時が緊急事態であることを意味していた。

 八王子の学校から自由が丘にある自宅までは、どれだけ急いでも電車の乗り継ぎで一時間はかかったので、母からの申し出はすごくありがたかった。


「……うん。ありがと、そうするわ。先生にはわたしからも事情を説明しとくから。――で、どこで寺田さんを待ってたらいい?」


 母は校門の前で待っているように言って、電話を切った。



 ――その後、わたしはすぐに先生に母からの電話の内容について話し、早退するむねを伝えた。

 校則ではその場で早退届を提出する決まりになっていたのだけれど、先生は「事情が事情だから、明日登校した時でいいですよ」と譲歩して下さった。


 校門の前で二十分ほど待っていると、寺田さんが運転するセンチュリーがわたしの目の前に停まった。

 白手袋をした寺田さんは、運転席から降りてくると後部座席のドアを開けてくれた。


 彼は五十代半ばで、髪はロマンスグレー。篠沢家にはもう三十年近くつかえていて、元々は今から五年前に六十代後半で他界した祖父のお抱え運転手だったらしい。

 母の送迎をするようになったのは、母が高校生だった頃からだそうである。――ちなみに、母も茗桜女子のOGそつぎょうせいなのだとか。


「――お嬢さま! 奥さまから事情は伺っております。どうぞ、お乗り下さい!」


「ありがとう、寺田さん。――とりあえず、まっすぐ家までお願い」


 わたしは後部座席に乗り込むと、運転席に戻ってシートベルトを締め直していた寺田さんにそう告げた。


「心得ておりますよ、お嬢さま。では、安全運転で参ります」


 彼はそう宣言すると、なめらかなハンドルさばきで車をスタートさせた。


 車内はゆったりと広く、ベルベット地のシートも心地いい。

 気持ちにゆとりがある時なら、わたしも一息ついてくつろぐこともできたかもしれないけれど。その時のわたしの顔には緊張感が貼りついたままだった。


 そんなわたしの様子を、寺田さんはルームミラー越しに心配そうに窺っていた。


「――お嬢さま、旦那さまのことがご心配でいらっしゃるんでございますね……。ですがこの車内では、どうぞ心を落ち着かせて下さいませ。わたくしはお嬢さまのなさることに一切いっさい干渉いたしませんので。――お嬢さまは本当にお父さま思いでお優しい方でございますね」


「うん……。だってパパは、わたしのたった一人の父親なんだもん。パパの苦しみをほんの一部でもわたしが共有できたら……」


 幼い頃からわたしの目標であり、憧れであり、尊敬していた父の突然の病。そして、そう遠くなかった父との別れ。襲ってきた二つの現実と、病におかされた父の痛みに耐えきれなくなり、わたしはひとり嗚咽おえつを漏らしていた。

 寺田さんは泣いていたわたしにあえて声をかけず、ただ気が済むまで泣かせてくれていた。


 ――泣くだけ泣いて、少し落ち着いたわたしは、「そうだ、桐島さんに連絡しよう」と思い立った。でも、時間的に彼は仕事中だったので、電話ではなくショートメッセージを送ることにした。



〈桐島さん、さっきママから連絡がありました。

 パパは末期ガンで、余命はもってあと三ヶ月ですって。ものすごくショックです。

 ガンって苦しいんでしょうね……。パパが今どれほど苦しいか考えただけで、わたしは胸が張り裂けそう。さっき、泣いちゃいました。

 貴方の声が聞きたい。このメッセージに気づいたら、連絡ください。何時でもいいです〉



「――お嬢さま、もうすぐ着きますよ」


 メッセージを送信し終えて、スマホをポケットにしまう時、寺田さんがわたしにそう告げた。



   * * * *



 ――家の玄関を上がると、わたしはスリッパに履き替えるのすらもどかしかったけれど。どうにかはやる気持ちをおさえ、靴を履き替えてリビングへ飛び込んだ。


「ただいま! ――パパ、具合は……」


「お帰り、絢乃。お父さんは大丈夫だ。今のところはな。それより、お前の方が顔色よくないぞ」


 かいこう一番に訊ねたわたしに、父は精一杯強がっているように見えた。

 わたしは病人である父に心配されるほど、青ざめた顔をしていたらしい。――自分では、それほど取り乱しているとは思っていなかったのだけれど……。


「お母さんから聞いたんだろう? お父さんの病気のことも、もう長くないってことも」


 父は思いのほか落ち着いていた。もうすでに、自分の寿命を悟っていたような、そんな様子だった。


「あ……、うん。パパも告知された時、その場にいたの?」


 ガンをわずらった患者本人に、医師が直接病名や余命を宣告することはあまりないらしい。患者に精神的負担をかけないため、なのだとか。

 だから、告知の時には本人に席を外してもらうか、家族を別室に呼んで病名や余命を伝え、家族から本人に……というのが一般的らしいのだけれど。


「ああ、お父さんが頼んだんだ。主治医が後藤なら、包み隠さず教えてくれるだろうと思ってな。アイツとの付き合いは長いから」


「そうなの? でも、ショックじゃなかったの? 自分がもうすぐ死んじゃうかも、って分かった時」


 里歩も言っていたけれど、もしわたしが当事者でも到底受け入れられなかっただろう。たとえ主治医が、親友だったとしても……。

 でも父は、その現実を受け入れた。それが友人である後藤先生との信頼関係からだったのか、それとも持ち前のいさぎよさからだったのかは、今となっては分からない。


「……そうだな。ショックを受けなかったと言えばウソになるが。それでも、正直に話してもらった方が、お父さんはむしろホッとしたかな」


「どうして?」


 わたしは首を傾げた。自分に死期が迫っていることが分かったのに、父はどうしてホッとしたのだろう……?


「それなりの心構えができるから、かな。死期が近いと知った分、残された時間を大事に生きようと思えるし、お前とお母さんへの遺言をのこすこともできるしな」


「遺言、って……そんな」


 その言葉の重さに、わたしの胸はギュッと締め付けられた。父の死期というのが、一気に現実味をびた気がして息がつまりそうだった。


 そして、病を宣告された本人なのに落ち着いていた父と、自分のことのように取り乱していたわたし自身との落差で、少し頭の中がグチャグチャになっていた。


「……ママ、ごめんね。わたし、ちょっと一人になりたいから部屋に行くわ。勉強もしなきゃいけないし」


 とりあえずオーバーヒートしそうな頭の中を整理したかったし、その場にいたら両親の前で泣いてしまいそうだった。

 わたしより、両親の方が泣きたい気持ちでいただろうから。二人の心をおもんばかって、わたしはその場で泣かないことを選択したのだ。


「分かったわ。――ああ、里歩ちゃんにはちゃんと連絡してあげなさいよ? きっと心配してるはずだから」


「うん、分かってる。――じゃあパパ、今日はゆっくり休んでね。夕食の頃になったら下りてくるから、一緒に食べようね」


「ああ。じゃあ、後でな」


 わたしは頷き、リビングを出た。


 両親の前では気丈に振る舞っていたけど、父親の重病を知った十代の女の子がそんなにタフなはずがない。メンタル的には相当な痛手ダメージっていた。


 ――里歩には、どのみち連絡しなければと思っていた。彼女はこの日、父が検査を受けることを知っていたし、わたしが早退したことにも気づいていただろう。同じクラスだったから。


 わたしから直接聞かずに、他の誰かから知らされたらきっと、「なんで言ってくんなかったの!? 水臭いじゃん!」と怒るだろうことが、付き合いの長いわたしに分からないはずがなかった。


 ――そして密かに、彼からの連絡を待ってもいた。



   * * * *



 ――部屋に戻ってからのわたしは、制服から着替える気力もなく、スクールバッグを床に置くなりそのままクイーンサイズのベッドのふちに座り込んでしまった。


 ラグやカーテン、しん一式が(色の濃淡は違えど)パステルピンクで統一された部屋は一般的なワンルーム物件ほどの広さで、そこにベッド、机、テーブルと椅子のセット、ドレッサーが配置してある。そこに専用の水回りスペースとウォークインクローゼットまでついているのだ。

 彼が同居してからは、この部屋はわたし専用の書斎として使っている。


 ――それはさておき。


 この先、わたしや母はどうなるんだろう? ――その時わたしは、答えの出ないそんな問いかけを頭の中で延々えんえん繰り返していた。


 金銭面の心配はなかったけれど、メンタル面では大きな心配があった。


 父は家族をすごく大事にする人だった。

 母が婦人科系の良性しゅようを患ったため、子供はわたし一人だけだったけれど、父はまなむすめであるわたしをできあいしていたし、実は愛妻家でもあった。


 わたしたち親子が明るくいられたのは、父がいてくれたからだった。

 父がいなくなったら、わたしと母は立ち直れないんじゃないだろうか? もう二度と笑えなくなるんじゃないだろうか? ――そういうネガティブな想像ばかり、頭の中をグルグルめぐっていた……。

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