ハーバスト戦記 翼の王国

野村カスケ

序章

灰色に濁った空

 夜の森に獣の咆哮が轟いた。続けざまに響く悲鳴。

 森を走っていた娘は、思わず耳をふさいで立ち止まった。守るように囲んでいた二人の男も立ち止まる。手に持った両手持ちの槍を左右にゆっくりと巡らしながら、辺りに注意を払っていた。しばらくの間息を潜めるように辺りを伺っていたが、聞こえるのは風のざわめきや虫の声ばかりだった。

「姫様。奴らの方が、動きが速いようです」

 男の一人が小声で話しかけた。姫と呼ばれた娘は頷くと、周囲の様子を伺うように、ゆっくりと視線を巡らせた。漆黒の闇が覆う夜の森が、そこには広がっている。自らの手先すら見えないほどだが、娘は風の流れを鋭敏に感じ取る、特別な力を持っていた。大気の流れを肌で感じ、そこにある物の形を頭の中で増幅させる事ができるのだ。闇夜の中で地形を読んだり、気配を感じ取る能力は、通常の人間と比べると遥かに優れている。

 今感じられるのは、虫や小動物の気配ばかり。近い位置に、人や大型動物の存在は確認できなかった。

「……まだ、追いつかれてはいないようですね」

 取り巻くように警戒している二人も、娘ほどではないが風を読む力を持っている。二人は同意するように小さく頷いた。

「ここを早く離れましょう。あと少しで人里につくはずです。そこまで行けば、簡単には襲ってこられない」

 その言葉を合図に、三人は夜の森を走り出した。可能な限り音を立てないように。

 吹きぬける風に、木々がざわめいていた。


 一ヶ月ほど前。敵は突如、王国に攻撃を仕掛けてきた。夜の闇にまぎれての奇襲だった。

 南の隣国は、昔は一つの国だったという。民族間の対立から、分離独立したのがおよそ二百年前。始めのうちは小競り合いもあったようだが、数十年で沈静化した。以来、感情的な対立はあるものの、直接的な争いにまで発展する事はなかった。

 文化的な交流や交易もあった。少なくとも表面上は、問題なくやってきたはずだ。

 それなのに。突然の襲撃。交易を装って侵入していた敵兵が、内側から仕掛けた。この夜襲により、南端の砦は一日と持たず陥落した。

 続けて侵攻を開始した軍勢は、南の国の人間だけではなかった。装備や戦い方が異なる、多民族が入り混じった混成軍だった。敵軍の勢いは凄まじく、ようやく迎撃の体制を整えた時には、南地域の砦は王都に最も近い場所を残して全滅していた。

 このままでは、国が滅ぶのは目に見えている。王国は閉鎖的ではあったが、亡国の危機に瀕している今、否応もなく他国に助けを求めることになった。周辺のいくつかの国に援軍要請の使者を送る事になり、その一人、という大役を、彼女は仰せつかったのだ。


 敵はそれを見逃さなかった。使者を全滅させ、国を孤立させるつもりなのだろう。姫と護衛の一行は、出立してから何度となく刺客に襲われた。襲ってきた追手の中には、隣国の人間とは明らかに異なる、異質な力を持つ者達がいた。全身を狼の姿に変える力。知識としてそう言った能力が存在する、という事は知っていたが、それはほとんど伝説上の話であり、本物を見ても理解に至るまで随分と時間がかかった。

 ただ狼になるわけではない。人間の知力と記憶を維持できるようだった。気配を察知する能力に長け、嗅覚も非常に優れている。山野での脚力は人間では及びもつかない。単純な戦闘力はともかく、彼らの追跡能力は驚異だった。

 初めは十名もの護衛がついていたが、ここに辿り着くまでの戦いである者は倒れ、ある者は仲間を逃がすために立ち塞がった。ほとんどの者の最後を確認する事はできなかったが、恐らくは、もう生きてはいない。その事を考えると彼女の胸は痛んだ。


 仕方がないのかもしれない。ここで倒れるわけにはいかない。なんとしても生き延び、隣国の王に会わなければならない。そして、援軍を出してもらえるよう、交渉しなければならない。

 待っている、多くの仲間がいる。家族がいる。愛する人達がいる。

 使者の大任を果たすことが叶わなければ、沢山の命が失われてしまうだろう。それだけは、何としても避けなければならない。

 時として、多数のために、少数を切り捨てなければならない。大局を見ることは人の上に立つものの責任であり、決断を下せるからこその王族。

 頭ではわかっている。理解していたつもりだった。

 しかし、目の前で起きる現実は、簡単に割り切れるものではなかった。今、すぐ傍で、よく知った人が死に向かおうとしているのだ。

 私を生かす為に。国の為に。未来の為に。

 重かった。責任を感じた。使命を果たす。必ず。


 視界が開けた。わずかではあるが、木々が生えていない場所があるようだった。立ち止まって見上げると、そこだけ穴が開いたような、回りとは違う闇。夜空が覗いていた。

 星一つ見えない曇り空。

 二人の男も従うように止まり、辺りに警戒を払いながら次の言葉を待っている。僅かな時間で次に取るべき行動を考え、口にした。

「発見される危険もありますが、ここから飛んで距離を稼ぎましょう」

 男達が頷くのを確認すると、身にまとっていた外套マントを外した。


 彼女の背中には、普通の人間にはないものがあった。

 白の、対なす翼。

 それが飾り物でないことは、すぐに証明された。二、三度、動かすと、全身が宙に浮き上がった。そのまま力強く羽ばたく。翼は、彼女の体を一気に空へと運んでいった。

 男達も同じように翼を露出させると、後を追うように空へと飛び上がった。


 初夏になり、日中は暑さが増してきているが、夜の山はまだ涼しかった。空ではなおさらだ。その風を翼に受けて、さらに上へと飛びあがる。上空からは故郷である山々と、山裾に広がる広大な森が見えた。


 ここで、終わるわけにはいかない。彼らに屈服する事もできない。死んでいった、見捨てなければならなかった仲間の為にも。生き延びなければならない。

 自らに言い聞かせた。

「私が、必ず」

 小さく呟いたその目には、確かな意志の光りが灯っていた。

 風の民、と呼ばれる一族の姫。名は、フィルナーナ、と言った。

 灰色に濁った空は、この先の戦いを暗示しているようだった。

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