第23話

 璃夕が歩くのを止めたのは、十分ほどしてからだった。


 もうどんなに首を伸ばしても図書館の屋根は見えない。璃夕は崩れるように、腰を屈め両膝に手をついた。びっくりして顔を覗き込めば、額に汗を滲ませ苦しそうに息を喘がせている。


「り、璃夕さん、どうしたんですか? 大丈夫ですか? どっか具合が悪いんですか?」


 あわあわと慌てる伊吹を、顔を伏せたまま横目で見やり、璃夕は「足が痛い」と低い声で言った。


 伊吹はすぐに行動に移した。彼を横抱きに抱え上げ、すぐ側にあったバス停のベンチに運ぶ。トタン屋根はところどころ穴が空いていたが、なんとか日差しよけにはなるだろう。次ぎに小走りで自動販売機まで行き、冷えたお茶を買って戻ってくると、それを彼の足に押しあてた。本で、体を仰ぐ。


 璃夕は硬く目を瞑り、痛みを堪えるように眉間の皺を濃くしていた。頬の色が紙のように白い。


 じりじりとアスファルトの焼ける匂いが漂い、蝉が空気をたわませるように鳴いている。自分たちの上に落とす日陰も、まるで陽炎のように淡く、夏のぎらつく太陽の光に負けてしまいそうだった。


 目の前を黒いガスをぼうぼうと吐き出すダンプカーが通り過ぎた。地面が小刻みに揺れて、一瞬船に乗って波の上を漂っているような気分になった。


 璃夕はまだ苦しそうだ。


 裕哉というのは誰だろうと、伊吹は思った。璃夕はその男と園守を間違えた。園守の言葉では彼の叔父らしいが、その人間の男と璃夕にどんな繋がりがあるのだろうか。


 裕哉が死んだと聞かされたとき、確かに彼の体からは悲鳴のような哀しみが溢れ出た。


 伊吹は、璃夕はずっと海の中で暮らしてきたものと思っていた。璃夕が郁春と暮らし始めたのは、ほんの少し前からだと彼自身から聞いている。それなら、裕哉とはその数か月にも満たない間に出会ったのだろうか。出会って、彼らの間に何かがあったのだろうか。


「もう大丈夫」


 まだ白い顔で、璃夕は弱々しい微笑みを浮かべた。体の中に蓄積された苦痛を吐き出そうとでもするように、深く息をつく。伊吹は、璃夕の足に押しつけている缶ジュースとは別のジュースを、プルタブを開けて渡した。彼は素直に受け取り、こくこくと音を立てて飲み込んでいった。


 その顔を眺めながら、伊吹は口を開いた。


「裕哉って誰なんですか?」


 伏せた顔のまま、彼は瞳だけを上げた。瑠璃色の瞳が、猫の目のように鋭く尖ったような気がした。


「園守先生の死んだ叔父だって言ってたけど、璃夕さん人間の知り合いがいたんですか?」


 ジュースから口を放し、ゆっくりと顔を上げて、伊吹を見る。その顔は青白いままではあったが、能面のように無表情だった。


「だったら?」


 声もまた、淡々と冷たかった。伊吹は驚いた。どうして自分がすげなく扱われているのかわからない。


「璃夕さん?」


 彼は鬱陶しそうに、顔を顰めた。伊吹を一瞥だけして、俯いてしまう。無視されたのだと気づいた。


 ひくりと、伊吹の喉が鳴った。


 真夏の太陽の下、自分の足元から冷気が立ち上ってくるのがわかった。氷のように冷たい毒の爪を持った魔女が、地面から頭を出して伊吹の足に爪をたてたのかもしれない。


 前にも、こんな顔をした人を見たことがある。伊吹が話しかけると、煩そうに顔を背け、どんなに呼んでも振り返ってはくれなかった。伸ばした手は、邪険に振り払われ、遠ざかっていく背中を困り果てて見送った。


 嫌われていると思ったことはないし、憎まれていると感じたこともない。手酷いことを言われたこともなければ、殴られたりしたこともなかった。彼らはただ、必要のない時以外は伊吹を見ることもなく話しかけることもなく、話しかけても応えてくれることもなく、触れてくることも感心をむけてくることもなかった。


 ただ純粋に、彼らにとって自分の存在が邪魔なのだ。


 いまの璃夕は、そんなふうに自分を扱った父や母に似ている。


 そのことが、伊吹の心を怯えさせた。


 とりわけ、璃夕は今まで無条件の優しさをくれた人だったから、嫌われたり邪魔ものだと思われることが、もの凄く恐ろしいことに感じられた。


 伊吹は伸ばし掛けた手を慌てて引っ込め、膝の上で拳を組んだ。璃夕から視線を逸らし、父や母に対してするように璃夕から自分の意識を遠ざけた。少しでも、彼が自分の存在を不快に感じることがないように。


 遠くの景色を見つめる。街路樹の脇に細く萎びたひまわりが生えていた。誰が植えたのだろう。一輪だけ咲いたひまわりは、街路樹用にアスファルトを刳り抜いて土を敷き詰めてあるスペースの端っこで、申し訳なさそうに花を咲かせていた。誰も手入れしていないのだろう、葉は茶色く乾燥して、項垂れたように頭を落としている。


 まるで、自分のようだと思った。


「帰ろう」


 璃夕が立ち上がったので、伊吹は慌ててその後に続いた。肩を並べて歩く勇気がなかったので、少し離れて後を着いた。小さな背中がひょこひょこと揺れている。きっと足がまだ痛むのだろう。手を貸そうかどうか考えたが、よけいなお世話だと叱られるのが怖くて、結局何も言い出せなかった。


 璃夕の背中を見ながら歩いていると、小さかった頃を思い出す。家族と外出をしたことは数えるほどしかなかったが、極まれにショッピングや外食へと出かけたことがあった。そのときも決まって伊吹は少し後ろを、両親の背中を見ながら追いかけて歩いた。二人は互いの会話に夢中で、伊吹が大人の歩幅に着いてゆけず、小走りで追いかけているのにも気付こうとはしなかった。後ろを振り返ることのない背中を、見失ったらダメだと一生懸命睨み付けて走った。迷子になったら、二度と家には戻れないような気がしていた。子どもの頃の伊吹には手を繋いで一緒に森の中を歩いてくれるグレーテルのような妹もいなかったし、足元を照らしてくれるような白い小石もパン屑も持ってはいなかったし、アスファルトの上ではそれらが光り輝く目印になるとも思えなかった。


 ――――今でも、伊吹は一人きりのまま迷子にならないように誰かの背中を見つめて歩いている。


 璃夕はあのときの両親のように足は速くないし、きっと伊吹の方がずっと早く歩けるだろう。それでも、小さな後ろ姿を見ながら歩くことは、心細く切ないことだった。


 無言のまま、木嶋の家の前まで辿り着いた。門の中へ入ろうとする璃夕を、伊吹は慌てて呼び止めた。


「璃夕さん」


 振り向いた彼に、伊吹は本を差し出した。


「これ、忘れ物です。俺、今日はもう帰りますね」


 なんとか笑顔を浮かべ、本を突き出したまま一歩後ろへ下がる。これ以上一緒にいれば、璃夕に嫌われてしまうかもしれないと言う不安が、ぞぞぞっと胸の中を這い回っている。


 両親が自分に対して少しでも不快感を感じたと気づいたとき、伊吹はすぐにフォローするよりも、まずは二歩も三歩も引き下がって距離を置き、彼らの気持ちが変わるのを待つことでやり過ごしてきたのだった。顔を会わせないように、声を掛けないように、自分の存在が両親を刺激することがないように。


 下手に口を出したり反論をすれば、よけい彼らの機嫌が悪くなることを知っていた。邪魔だと思っている存在に煩くされて、機嫌が良くなるわけがない。下手に媚びたところで、ますます酷くなる一方だ。


 だから、伊吹は璃夕に対しても、両親と同じように距離を取ろうとした。


 自分が璃夕に甘えることで、それが彼の負担になっているのかもしれないと、どうして今まで考えなかったのだろうと、伊吹は後悔していた。


 甘えは重りであり、無責任に自分の体重を相手により掛からせることは、相手を苦しめることだと母が伊吹を戒めたことがある。子どもでも容易く他人に甘えてはいけない、一人で立って歩きなさいと。


 その助言を、自分はすっかり忘れていた。どうして忘れてしまっていたのだろう。友達にでさえ、その距離の取り方を間違えたことなどなかったのに。嫌われたくないのであれば、もっとしっかり自覚するべきだったのに。


 璃夕は、きっと甘えさせ上手なのだ。それに自分は見事に引っかかってしまったのかもしれない。だけど、人間関係は距離の取り方が一番大事だ。両親でさえ、伊吹との間に一定の距離を置きたがったのだから、璃夕はなおさらだろう。近づきすぎた伊吹が悪い。


 甘えてばかりじゃいけない。頼ってばかりじゃいけない。嫌われたくないなら、もっときちんと距離を開けなくては。


「あの……俺、思えば璃夕さんに甘えてばっかりでした。それがどれだけ迷惑なことなのか考えもしないで。話とか聞いてもらえたのが嬉しくて、調子に乗ってたんだと思います。それが璃夕さんに嫌な気持ちにさせてたんだって、今になって気付いて・・・それであの、本当にごめんなさい。だけど、今日は楽しかったです。本当に、俺・・・・・その、ごめんなさい」


 ぺこりと頭を下げた。

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