第21話

日曜日、伊吹は璃夕と約束をして図書館へ出かけることになっていた。


 午前の開館時間にあわせて、お互いの家からちょうど真ん中にある公園で待ち合わせをした。緑深い公園は、敷地をぐるりと囲むように欅の木が植えられている。風が吹くたびに木々がざわざわと鳴り、重なるように小鳥たちの軽快なおしゃべりが響いた。空は薄い青で、太陽はまだ少し眠たげに白い顔をさらしていた。


 入口近くの欅の木陰で璃夕を待っていると、目の前を子ども達が笑い声を響かせて駆け抜けて言った。一目散にブランコ目指して走ってゆく。体の大きさがそれぞれ違うことから、兄弟だろうかと伊吹は思った。けたけたと笑いながら、二つしかないブランコを取り合っている。


 だぶだぶのTシャツの腹がめくれて、日に焼けた小麦色の肌が覗いていた。少し遅れて、父親らしき男が汗を拭き拭きやってきて、順番ずつ子ども達をブランコにのせ、背を押した。


 風を切って宙を飛ぶブランコに、子ども達の笑い声が響く。ふっくらとしたほっぺいっぱいに笑顔を張り付かせた子どもの顔を見ていると、こちらまでつい微笑みを浮かべてしまう。


 子どもを天使と呼んでしまいたくなる気持ちが、少し分かった気がした。


 ふっと胸の中に「いいな」という言葉が浮かんだ。それは無邪気に笑い父親に甘えている子どもに向けられたものなのか、愛らしい子どもを得て幸せそうにしている父親に向けられたものなのか自分でもわからなかった。


 ただ漠然と、羨ましいような気がした。


 思い返してみれば、伊吹には父親とも母親ともこうして遊んだ記憶などひとつもない。


 きいきいと鎖が擦れる音が響いた。その音が、潮騒に似ているように思えた。


 ふと、道路に目を向ければ、奥からゆっくりとした足取りで璃夕が歩いてくるのが見えた。今日はグレーの半袖パーカーに、ブラックジーンズを履いている。頭からすっぽりとフードを被り、ときどき疎ましそうに太陽を仰ぎ見ていた。


「暑い」


 開口一番が、不機嫌な声でのそれだった。さすがに伊吹も苦笑する。


「おはようございます」


「おはよー。ああもう、朝っぱらから暑いぞ。これが地球温暖化現象なのか?」


「夏だから暑いんですよ」


「アスファルトが焼けているようだ。火のついた鉄板の上を歩いてるみたいだぞ」


 うんざりと顔を顰める璃夕に、


「自転車で来れば良かったですね」


「乗ったことない」


「二人乗りで」


「僕が後ろ?」


「俺が後ろってわけにはいかないでしょ」


 普通に歩けば図書館までは十五分の道のりだったが、璃夕の歩調にあわせているうちに三十分近く掛かった。伊吹は今まで女の子と付き合ったことはなかったが、彼女と肩を並べて歩くとこんな感じがするのだろうかと思った。それぐらいに、璃夕の足は遅かった。


 特に彼は、階段の上がり下りが苦手らしく、両手でしっかりと手摺りを持って、しがみつくようにして歩くのだ。それでも三段に一度は転びかけるので、その度に伊吹が腕を差し出して、支えてやらなくてはならなかった。


 璃夕は図書館へ着く頃には、もうへとへとになっていた。


(次からは絶対に、自転車だな)


 人魚ゆえに歩くのが下手なのだろう。水の中を自在に泳げても、陸の上で二本の脚を使って歩くのとでは、天と地ほどの開きがあるに違いない。


 図書館までの行程中、不機嫌を顔に張り付かせてむすりとしていた璃夕だったが、図書館へ一歩入るなり貝殻のように白い頬を、珊瑚色に染めた。ぽっかりと口を開けて、無数に並ぶ本棚を見つめている。


「これがぜんぶ、本?」


「そうですよ」


「ぜんぶ、好きに読んで良いのか?」


「どうぞ」


 美しい顔に喜色が上るのを見るのは、伊吹にしても嬉しい物だった。


 都会に住んでいた伊吹にしてみれば、水辻の図書館は高校の図書室程度の広さしかない。きっと璃夕にとっては、この小さな図書館も、宝箱のように見えるのだ。


 しばらくの間は、別々に行動しようということで、伊吹は一般書が並んでいる本棚をぼんやりと眺めていた。


 璃夕は図書カードを持っているのだろうか。それがないと本は借りられない。カードを作るには水辻市役所に行って、住民票を提示した上で作られる市民カードが必要だ。


(って人魚が市民カードなんてもってるわけないよな)


 伊吹の記憶にある限り、人魚に市民権は与えられていないはずである。なら、自分のを貸してあげようと、伊吹は思った。まるで花にひかれる蝶のように、ふらっと歩きだしてしまった背中を見送ったときには苦笑いを覚えたが、それぐらい彼が喜んでくれたのなら嬉しい。


 璃夕が喜んでくれることが、伊吹にも嬉しい。こんなふうに、誰かに気持ちにシンクロして喜ぶことなど始めての経験だった。


 一階建ての図書館は、カタカナのロの字を二つくっつけ、間に棒を一つ差し込んだような形をしている。幾重にも並んだ本棚の隙間から、ふとした拍子に緑の芝生に彩られた中庭が見えた。人気のない棚の間を選んで、庭を眺めながら時間を潰していると、璃夕が数冊ほど本を抱えてやってきた。


「借りる本ですか?」


「そう。借りられる?」


 傍らに来て小首を傾げる仕草が子どもみたいで、伊吹の頬に笑みが上る。抱えられてある本は、すべて挿し絵付きの絵本タイプの百科事典だった。


「大丈夫です、借りられますよ。重くないですか? 持ちましょうか?」


「あ~平気」


 己の手元を見下ろして大丈夫だと頷いた璃夕の、半袖から覗く肘が赤く汚れていることに気付いた。


「璃夕さん、それ血じゃ」


「へ? ああ、さっき転んだときに……」


 肘を捻って傷口を見ながら、璃夕は微かに眉を寄せた。どうやら、伊吹が目を放した隙にまた転んでしまったらしい。擦り剥いた肘は皮膚がめくれて赤い染みが広がり、血がぽたぽたと流れ出ていた。


 伊吹は無意識に璃夕の腕を掴んでいた。傷口に唇を押しあてる。ちゅっと音を立てて流れ出る血液を吸い込み、唾液でしめらせた舌で、そっと傷口を舐めた。ざらりとした感触。口の中に広がる血の味は、想像と違って砂糖のように甘く思えた。


「イタッ」


 小さな悲鳴が耳の横で聞こえた。


 その声に我に返る。伊吹は愕然とした。璃夕は顰めた顔で、伊吹を見上げている。身長差のせいで、踵を浮かせるような姿勢で、自分に腕を掴まれているのだ。


「あ、えっと……!」


 ぱっと掴んでいた手を放すと、璃夕は腕を引き寄せ傷口を見た。


「痛い」


「あのあの……」


「もっと丁寧に扱えよな、バカ」


「ご、ごめんなさい」


 半ばパニクになってぺこぺこと頭を下げる伊吹を、璃夕は呆れた顔をした。


 どうして自分がこんなことをしたのかわからなかった。もはや衝動だった。白い肌を引き裂く赤い血の流れが、禍々しく思えたのだ。もしかしたら、先日璃夕に火傷の痕に口付けてもらったことが、頭の片隅にあったのかもしれない。


 璃夕は顰め顔で伊吹を睨み、ぴこんとおでこを叩いた。


「普通、おまじないは優しくする物だろうが」


「ごめんなさい」


 しゅんと謝る。


「ま、いいけど」


 璃夕はすぐに吹っ切ったように腕を下ろすと、伊吹が見ていた棚を眺めた。


「何か借りるのか?」


「いえ。今日は璃夕さんにお付き合いです」


「ふうん」


 綺麗な横顔を見て、ふと、十八になったらすぐに車の免許を取ろうと思った。そうすれば、もっと遠くへ璃夕を連れてゆける。きっとこの人は、この水辻の海や町しか知らないに違いない。伊吹が海の底を知らないように、彼は陸の上のことをなにも知らないだろうから、伊吹の知る楽しいことや美しいものを見せてあげたいと思った。


 例えばイルミネーションに溢れる夜の町や、滝を滴り零す山奥の緑とか、空の上をくるくると回る観覧車とか、海には決していない生き物の溢れる動物園とか。それらを見たときに、彼の顔に浮かぶ笑顔や驚きや喜びを想像して、伊吹は胸の奥が暖かく溢れる気がした。


 そして、気づいた。


 ああ、自分は璃夕が好きなのだ。この美しくて優しくてどこか掴み所がなくて、少し意地悪な所のある、人間ではない海の底に住まう生き物である、この人が好きなんだと、伊吹は思った。


 それはどこか唐突で、一目惚れにも似た衝動的な自覚ではあったけれども、ずっと長いこと胸の内側にあった感情だったと今ならわかる。胸元で揺れるペンダントと同じぐらい、長い時をかけて伊吹の胸の中で確かに息づいていた気持ちだった。


 繰り返し思い描き夢に見て支えにしてき、美しい人魚を伊吹は焦がれ続けてきたのだ。


 伊吹はそっと璃夕の髪の毛の先っぽを、指で抓んだ。人魚の頃の璃夕は腰を覆うほどに長い髪の毛だったが、今の彼は伊吹の髪よりいくらか長いだけだった。つんつんと、続けて引っ張る。


 まだ、気持ちを自覚したばかりの自分には子どもが甘えるようなたどたどしい仕草でしか彼に触れることができなかった。


 璃夕は不思議そうに首を傾げた。


「伊吹?」


 瑠璃色の瞳は、夜明けの海の色だ。目覚める前の、淡く優しい夢を見せてくれる夜の色。


 伊吹は微笑んで、


「そういえば、璃夕さん髪の毛短くなりましたね。前は、すごく長くて真珠とか珊瑚で飾ってたでしょう」


「ああ、人間の男は髪の毛を長く伸ばさないって春じいがいうから、切った」


 あっさりと返された言葉に、伊吹は残念な気持ちになる。


「綺麗だったのに……」


「また伸ばせばいいだけだろ」


 そっけない言い方が、無性に胸に響く。この人は、もしかしたら色々な物を切り離して今の姿を作っているんじゃないだろうかと。人魚姫が声を失ったように。そう思うと、なおさら深い気持ちが胸を圧迫した。


 常にない伊吹の様子に気付いたのだろう、彼はひとつ瞳を瞬かせ、くっきりとした様子でこちらを見つめた。その綺麗な顔に綺麗な笑みが浮かんだ。瞳を細め、手を伸ばし伊吹の頬を撫でた。


「なんて顔してるんだよ、バカだなぁ」


 喉を鳴らすように璃夕が笑った。もしかしたら、彼には伊吹が胸の内側に抱え込んでいるもどかしいような、伊吹自身自身でさえ戸惑うような感情に、聡く気付いてしまったのかもしれない。


 璃夕は伊吹の取り留めのない淋しさをすぐに受け止めて、無条件で甘えさせてくれる。それは父親の広さと母親の深さを思わせるものだったけれど、構わなかった。璃夕にとっての自分の存在がなんであるかなど、構わないのだ。


 ただ、好き。


 自分が彼を好きであること、それが一番大事。


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