第19話

 璃夕は伊吹のベッドの傍らに座ったまま、取り留めのない話しをした。怪我をしてはいるが、病人ではない伊吹としては祖父母が心配するからとベッドの中に収まってはいても、本心では退屈でしかたがなかったのだ。


 伊吹はおすすめの推理小説の話しをしたり、今書いている絵の話しをした。璃夕は口を開けば一方的だが、本当の彼は人の話しを聞いている方が好きなのだと知る。眼差しだけを伊吹にすえ、時に微笑み、時に頷き、時に反論してみせながら、伊吹を次へ次へとしゃべらせようとするのだ。こんなに自分の話を真っ直ぐに聞いてもらえたのは、始めてのことだった。


 両親は、不干渉こそもっとも正しい子どもの育て方だと思っている節がある。過保護は子どもを堕落させると信じ込んでいた。


 もっとも彼らは忙しい身の人なので、子どもに干渉する時間があれば、少しでも仕事に回す方を選ぶ人達だった。物心着いた頃から、一人遊びの得意な子どもになってしまった。例えば面白い出来事があっても、不安な事があっても、一人で解決できないような問題があっても、伊吹は胸の内で一人きりで笑い楽しんで悩んで解決してきた。そうやって生きてゆくことが、伊吹の中での当然で、例えば助け合いとか協力とか庇護という単語は、言葉では知っていても自分としては一度として経験したことのないものだったのだ。


 それを、璃夕はさも当然のように伊吹に与えてくれる。そのことが信じられなくてこそばゆくて嬉しくて、戸惑うのだった。


 ふと、璃夕が伊吹の手に触れた。細く尖った指先が、真っ白な包帯越しに、伊吹の手を撫でる。


「璃夕さん?」


「火傷、痛いのか?」


「あ、そんなには。少しだけ」


 伊吹が首を竦めると、璃夕はそっと自分の右手を持ち上げ、包帯の上から唇を付けた。赤い唇が、火傷の上をたどる。伊吹はビックリして、慌てた。


「わわわわわ! な、何してるんですか!」


「何って、伊吹の怪我が痛まないように、おまじない?」


 彼は伊吹の手に唇を付けたまま、上目使いに見上げてくる。その姿がいやに艶めかしくて、ますます伊吹はドギマギした。手を振って、なんとか彼の唇から逃げ出したいのに、体が動かない。


「小さな子どもがよく母親にしてもらってるだろ。イタイイタイの飛んで行けだっけ?」


 ちゅっと音を立てて手の甲にキスを落とされ、かあっと全身に血が上った。にこりと笑って自分を見上げる璃夕の顔が、どうしようもなく愛おしく思えて抱きしめてしまいたくなって、それを寸前で押しとどめた。


「あの、璃夕さん……」


「痛いの治まった?」


 そのおまじないは、母親が子どもを騙すための気休めですとは言えなかった。


 心臓の動悸と顔が暑いのとで、痛みなど消し飛んでしまった気がする。


「はい、えっと……。だいじょうぶ、です」


 握られていない方の手で顔を押さえ、呻くように伊吹は言ったのだった。


(この人、どうしよう。ものすごくかわいすぎるっ……!)


 どうにもやりようのない熱が身体の中を薫っている。その熱に狼狽えている自分にますます狼狽えて、伊吹は璃夕をまともに見れずにいた。


 最初はおとぎ話の中の美しい人魚姫だった。その次は、天使のように優しい人だった。その次は、冷たく激しく近寄りがたい人だった。だけどときどき悪戯っぽくて優しくて。そうやって目まぐるしく変わっていく璃夕のイメージの中で、本当の彼はまるで伊吹を包み込む優しい毛布のような、暖かく愛おしい人になろうとしている。


 家族でも兄弟でもないのに。


 人間でさえないのに。


 璃夕は、どうしようもなく優しくて愛おしい。


 と、そのときドアをノックする音が響いた。「わ!」と叫びだしそうになるのを寸前で堪え込み、伊吹は掠れてしまった声で「はい?」と返事をして、すかさず璃夕の手の中にある自分の手を引き抜いた。とたん皮膚を撫でた物淋しい風に伊吹はますます狼狽えた。


 今日の自分はどうしてしまったのだろう。


 かろうじて平常の仮面を纏うことに成功した。


「伊吹、お客さんがいらしているんだけど」


 再び顔の覗かせた絹江の後ろから、見知った顔が二つ覗いた。彼らは伊吹と視線が合うと、はにかんだように笑った。


 一人はクラスメートの工藤くどう渉わたるだ。工藤の横に立っているのは、隣のクラスの山岡やまおか健けん吾ごだった。どちらも話しをしたことはあったが、お互いの家へ行き来するほど親しいというわけでもなかったし、わざわざお見舞いに来るような仲でもないはずだった。伊吹が訝しんでいると、絹江が彼らを部屋の中へ招き入れ、お茶を用意をするために階下へと下がっていった。


 二人は最初、所在なげな様子で戸口に立っていた。ちらりと部屋を見渡しベッドの中にいる伊吹と、その傍らに座る璃夕を見て、彼らの顔が驚きに変わるのを、伊吹は苦笑と共に眺めた。


 彼らの目にも、璃夕の姿は眩しく映るようだった。


「突然、悪いな」


 工藤が言った。緊張しているのか――――たぶん、璃夕に対して――――少し声が掠れていた。


「客がいるのに。先に連絡してから行こうかとも思ったんだけど、番号書いてた紙なくしてさ」


 言い訳がましく述べてから、工藤は一つ息を吐き出して璃夕から視線を外した。山岡の方は、まだ食い入るように璃夕を見ている。


「どうかしたのか?」


「うん」


 伊吹にすすめられるまま、ベッドから少し離れた場所に腰を下ろした二人は、おずおずと話し始めた。


「実は、俺ら郷土史研究会つうのをやってんだけどな」


「郷土史研究会?」


「部活だよ、部活。水辻の歴史とか調べんの」


「へぇ」


 そんな高尚な部活があったなど初めて知った。その部活に真面目に参加している生徒がいるというのも驚きだった。……楽しいのだろうか。まるで授業の延長線上にあるような、部活内容である。


「んで、俺ら今回六十年ぐらい前に起きた大津波の事件について調べてんだけど、笠原の所のお祖父さんとお祖母さんって、ずっと地元の人なんだろ。なんか津波の時の話とか聞かせてもらえないかなって」


「それでわざわざ訪ねてきたのか?」


「週明けに学校が始まれば、部内で研究発表会があんだよ。それに間に合うようにしとかないと」


「工藤、歴史が好きなのか?」


「好きだよ。な、健吾?」


 二人はお互いの顔を見合わせて、頷いた。


「渉も、俺も好きじゃなきゃ、やらないよ」


「歴史ってさ、形にはなっても目には見えない物なんだよな。確かに目の前に、先人が歩んできた足跡があって痕跡が残っていて、俺らはそれに囲まれて生きているのに、だけど見えるのは結果だけであって、その道程を歩く人の姿は朧気な影でしか見えない。記憶の中の残像みたいなもんなんだ。六十年前、この海から飛んでいって死んだ兵士がいたことも、百五十年前日本を二つに分けた、幕末の動乱があったこととか。そうゆう物を越えて始めてて今の日本があるのに、でもどこを捜してもその時代を生きた人間の姿は見えないんだ」


「工藤は、彼らの姿を捜してるのか?」


「生きていたんだって事を、実感したいのかもな。彼らがこの場所で生きて、普通に生活してたんだって事を。どんなことを考えたのかとか、どんなことをしたのかとか。そうゆうことを知って実感していくのが好きなんだ」


 工藤は唇を歪めるように笑った。話しすぎてしまった自分を、恥じているようにも見えた。伊吹も笑い返した。


「ばあちゃんなら、喜んで話し相手になってくれると思うよ。この間も、俺に津波の話しをしてたし」


「そっか?」


 二人はホッとしたように胸を撫で下ろし、笑った。


「よかった。園守先生の言った通りだったな、健吾」


 伊吹はそこで、聞き捨てならない言葉を聞いた。眉根を寄せて問い返す。


「園守?」


「あ? ああ、そう。化学の園守。ウチの顧問なんだ」


 にへらっと江藤が笑った言葉に、伊吹は不吉な名を聞いた気がした。ざわりと、背筋が寒くなるような、なにか冷たい触手に足を絡め取られるような、そんな気分がした。だが、どうして自分がそう感じるのかわからない。直感としか言いようのない物だった。


 顔を顰めて黙り込んだ伊吹を怪訝に思ったのか、璃夕が手を伸ばして俯いている伊吹の頬を撫でた。冷たい感触に、ビックリして顔を上げると、瑠璃色の瞳が真っ直ぐに自分を突き刺していた。


「あ」


「考え後とするなら、一人でするか、用事を終わらせてからにしろよ。二人とも困ってるぞ」


 部屋の中央を顎でしゃくられ、見ると困惑げな表情で工藤と山岡が座っていた。はっとして伊吹は取り繕った。


「ごめん。ちょっと考え後としてた。えっと、すぐにばあちゃんに話し付けてくるから、待ってろよ」


 伊吹は慌ただしく部屋を後にした。


 古い家らしく暗く急な階段を降りながら、それでも頭の中では園守の名前がこびり付いたように離れなかった。

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