人魚姫

あきわ

第1話

 海の中はおかで暮らす人々にはきっと想像も付かない、素晴らしい物が溢れているが、独りぼっちではどんなに美しい珊瑚の城も真珠の首飾りも沈没船の迷路も、見せびらかす相手も一緒に遊んでくれる人もいなければ、がらくたと同じだと人魚は思った。


 深く深くどこまでも深く水の中をくぐれば、青々とした海水に守られた町が眠っている。揺らめく海藻の檻と、ぷくぷくと泡をついばむ奇形の魚に囲まれた人魚の国だ。海の女神の加護厚き美しき国だ。


 人魚はここで生まれた。この海しか知らない。


 しかし、もはやこの国で暮らすのはたった一人の人魚をのぞいては誰もいない。仲間はみんなもっと住み良い南の海を目指して遙か昔に旅に出たまま、誰も戻っては来ない。


 人魚は一人ここに残り、それ以来ずっと一人きりだ。


 ここでは太陽の光も月の光も、深い水の天井を透かして、蒼く震える色をしていた。空は絶えずゆらゆらとそよぐ水の碧。冬も夏もない。海水の温度は常に一定に暖かく、海面みなもがどんなに嵐で波立とうと、常に静かだった。漂う水は長い時間をかけてゆっくりと沈殿していった歴史の残骸だった。アンデルセンのおとぎ話のような、明るさも華やぎもない。死にゆく命が最期に見る、淡い夢のような翳りの世界。


 人魚は眠る前の微睡みの中で考えた。


 いつか退屈で死んでしまうかもしれない。いつか淋しくて死んでしまうかもしれない。だけど、もうずいぶんと長いこと一人きりで生きている。きっとこれから先も一人きりで生きるのだろう。


 空の美しい日は、ときおり陸の近くまで泳ぐこともある。岩の上に乗り上がって景色を眺めたり、海面すれすれを泳いで船を追いかけたりする。


 あの日も、ちょうど空の美しい日だった。海の底の方まで、太陽の光が射し込んで水の色をくるくると金色に変えた。人魚はぐいぐいと海面目掛けて泳いだ。最初は闇を映したような深い群青がじょじょに薄れ、水の色は暗い濃紺から鮮やかな藍へ、深い青から透けるような水色へと移り変わってゆく。透き通る光の色を吸い込んだ水面から勢いよく頭を突き出せば、そこは人魚のあずかり知ることのない外の世界だ。


 人魚はパシパシと瞳を瞬かせ、ぐるりと辺りを見回した。遠くに緑の山がいくつも見える。それは人魚が暮らす海の底では見ることのない深い緑色をしていた。海藻の緑よりも眩しく輝いている。首を仰け反らせて空を見上げれば、海の空とまったく違う色形をしている。それは水よりも遙かに透き通っており、どこまでも広く、美しかった。真っ白い雲が魚のように空を泳いでいる。悪戯好きのカモメが、人魚の頭のすぐ側をすいと通り過ぎる。空を自由に飛ぶことのできる羽根を誇っているような、胸を張った飛び方だ。人魚は尾を振ってカモメに水飛沫をかけた。地上は、海の中とは違う。ここはあらゆる色が溢れている。すべては鮮やかで煌めいている。


 しばらくの間、人魚は興味の赴くままにあちこちを眺め、泳ぎ、止まり、眺めるということを繰り返した。海面から顔を出したとき東の空にあった太陽は、少しずつ向きを変えて、西の空へ移動してしまっている。海の色は輝く朱金色に染まって瞬いていた。


 そのとき人魚の耳に小さな音が聞こえてきた。くすんくすんと、啜り泣く人間の声だ。陸へと近づくたびに、波が荒々しく薙いだ。風が強く、真珠を飾った髪を乱した。陸の突端には、つきりと尖った岩山が張り出している。声は、そこからする。ざざぁんざざぁんと、波が岩を打ちつける強い音に今にも消えてしまいそうな、か細い泣き声だった。


 人間が一人、岩の洞穴の中に座り込んで膝を抱えていた。


 人魚はそうっと海面から顔を出して、静かに泳ぎ近づいた。こんなに近くで生きた人間を見るのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。沖合を行く船の甲板でくるくると動く人間達の姿を遠目に眺めるか、嵐の日にたくさんの箱と一緒に人間が沈んでくることもあったが、彼らは人魚が住まう海の底へ辿り着くことはなかったし、例え辿り着いてもぴくりと動くことも目を開けることもなかった。まるで陸の人々が作る形の良い像と同じだ。そして人間はすぐに海の何処かへと消えてしまう。しかし、今人魚のすぐ近くにいる人間は、生きて動いて泣いている。


 人間はとても小さく弱く震えていた。子どもだ、と人魚は思った。人間の子どもだ。人魚は用心しながら、さらに近づいた。人間はいつの時代も油断ならぬ生き物だということを、人魚はよく知っていた。仲間の幾人かは、人間に狩られ、陸に上げられ、死んでしまった。人間は人魚の肉を喰うという。


 ときおり海の底へ人間が大きな箱に閉じこもって、潜ってくる。彼らはこの世界に自分たちの知らない不思議があることが許せないのだ。空も陸も海もすべて自分のものだと思っているに違いない。そして自分はこの丸い星の王様だと信じているのだ。だから、人間以外の生き物はすべて自分達の好きなように扱っても良いと思っている。なんと傲慢な生き物だろう。しかし、今だ人間は人魚の国まで辿り着けたことはないし、人魚は一度として人間の所有物になったことはない。


 子どもは膝の間に顔を埋めて泣いていた。どうしたのだろうと興味を引かれた。それまで人魚はずうっと長いこと独りぼっちで話す相手もいないまま暮らしてきたせいか、小さな人間でもいいから少しでも話しをしたいと思っていたのだ。


「どうした?」


 人魚は尾が海の中に綺麗に隠れているのを確かめて、岩場に身を乗り出しそうっと子どもに声を掛けた。子どもはびっくりしてすぐに顔を上げた。そして、人魚を見て、泣いていた目を大きく見開いた。


 人魚は久しぶりに声を出すので、もしかしたら自分はとても怖い声を出して子どもを怖がらせてしまったのではないかと思った。小さく咳払いをし、再び、今度は優しく聞こえるように話しかけた。


「どうして泣いている?」


「道が……」


 子どもは言って、また瞳に涙を溜めた。頬が泣きすぎて真っ赤に染まっている。人魚はすぐに子どもが何を言わんとしたのか理解した。


 満ち潮になれば岩場はみるみる海の中へと沈んでしまうのだ。子どもはきっと引き潮の時、浅瀬を渡ってここまで遊びに来たまま、帰れなくなってしまったのだろう。時間が経てば洞穴はぜんぶ水で埋まってしまう。そうしたら、この子どもはどうなってしまうのだろうか。死ぬのだろうか。


「お姉ちゃん」


 子どもが恐る恐る言った。人魚は考え事をしていて、その声を危うく聞き逃すところだった。一拍の間の後、ぽかりと子どもの頭を叩いた。


「イタッ!」


「誰がお姉ちゃんだ、誰が! 僕はれっきとした男だ!」


 子どもは両手で頭を押さえ、びくりとした。そして、恐る恐る人魚を見て「お兄ちゃん?」と言い直した。


「なに?」


「どうして、お兄ちゃんなのに髪が長いの?」


「この方が綺麗だからだよ。長くないと髪飾りだって似合わないじゃないか」


「男の人は、普通髪飾りなんてつけないよ」


 人魚は首を傾げて「ふうん」と呟いた。海の底で暮らす人々は男も女もみな髪を長く伸ばし、美しい宝石や珊瑚や貝で飾り付ける。自分の髪も、真珠の珠をいくつも連ねた輪で飾り付け、耳に紅珊瑚を指していた。夜の海のように黒々とした人魚の髪に、真っ白な真珠は素晴らしく映えた。


「ねぇ、どうしてお兄ちゃんはこんなところにいるの?」


「散歩だよ」


「散歩? 海の中を?」


「どこを散歩しようとそれは僕の自由だ。それとも散歩は陸の上じゃなきゃいけないって決まりでもあるのか?」


「泳ぐのが好きなの?」


「じゃあ、おまえは歩くのが好きなのか?」


 子どもは問いの意味がわからないと言う顔をして、きょとりとした。人魚は小さく笑う。笑った後に、自分がとても久しぶりに笑ったのだと気づいた。


「同じ意味だってことだよ」


「言ってることがわからないよ」


「じゃあ、もう少し大きくなったらわかるようになるだろうさ」


「僕は泳ぐのは好きじゃない。海は深くて暗いし、サメがいるから」


 子どもは弱々しく言った。


「鮫はもっと沖合の深い所じゃないといないよ。ここの海は波が荒いだけで、そんなには深くない」


「底まで潜ったことあるの?」


 人魚は肩を竦めた。


「何度もね」


「そっか……。俺はお祖父ちゃんの家へ遊びに来てるんだ。普段はもっと遠い都会の方で暮らしてるんだよ。ここの子はみんな海で泳げるんだって。俺は泳げないから、カナズチだって苛められるんだ。この町は漁師の町だから、泳げない子どもは仲間はずれにされるんだって」


 子どもは俯きながら、ぽつんぽつんと話し出した。


「父さんと母さんは仕事で忙しくて、俺の面倒を見られないんだ。だから、この町で暮らしてるお祖父ちゃんの家に預けられたんだ。だけど、俺はこの町好きじゃない」


 子どもは遠くを見るような目をして、紺色に染まり始めた水平線の向こう側を見た。


「魚も潮の匂いも波の音も海も、ぜんぶ好きじゃない。友達も母さんも父さんもいない。ここには俺の居場所はないから」


 子どもの体からは淋しそうな匂いがした。


「……居場所というものは自分自身で見付けるものだ。誰かに与えてもらうものじゃない。おまえは自分で自分の居場所を捜す努力をしてるのか?」


 子どもは不思議そうに首を傾げた。


「僕はこの海で生まれてこの海で育った。ずうっとこの海で長い時間生きてきたし、僕にとってここは唯一の居場所だけれど、独りぼっちだ」


「一人なの? お母さんとお父さんは?」


「いない」


「友達も?」


「いないよ。この海には僕一人きりしかいない」


 子どもは人魚の言葉に考え込むように押し黙った。眉根をきゅっと寄せて、酷くつらそうな顔をする。人魚はその顔を不思議な気持ちで見ていた。長いこと一人ぼっちだった人魚は子どもの淋しいという気持ちが痛いほどよくわかった。だけど、陸の上にはたくさんの人間の仲間がいるのに、この子どもはそれでも淋しいと感じているのだと知っておかしな気持ちになった。


 人魚は海で暮らし人間は陸で暮らしているし、姿形も違っているのに、この子どもの心と自分の心はよく似ているのかもしれない。


 しばらくの間子どもも人魚も押し黙ったままだった。だんだん波が高くなり、気が付けば子どもの足首を濡らしていた。


 不意に子どもが顔を上げた。じっと人魚の顔を見ると、


「ねぇ、お兄ちゃんの目はどうしてそんな色をしているの?」


 人魚は子どもの変わり身の早さに呆れて、岩場に頬杖を着いた。


「綺麗な色だね。まるで宝石みたい。日が沈んだばかりの海の色と同じだ。海は嫌いだけど、お兄ちゃんの目は好き」


 子どもは人魚の顔を覗き込んで、笑った。誰かが笑うのをもうずいぶん長いこと見ていなかった人魚は、とても嬉しいような切ないような気持ちになった。そして、この子どもを助けてやってもいいという気持ちにもなった。


 濡れた手を差し出す。


「おいで」


「お兄ちゃん?」


「このままここにいると溺れ死ぬよ。泳げないんだろ?」


 子どもは頷いた。


「僕が手を引いて、一度沖に泳ぎ出て浜へと連れて行ってあげる」


「でも、俺……泳げない」


「僕が側にいれば、大丈夫だよ。じき潮が満ちて、この穴は海にすっぽり埋まってしまう。それとも死にたい?」


 人魚が意地悪く笑うと、子どもはぶんぶんと首を振った。おっかなびっくりこちらへ手を伸ばしてきたので、その小さな手を掴んだ。あんまりに暖かな手だったので、人魚は内心で飛び上がるほど驚いた。


 人間の手は、太陽のように暖かい。


 手を引くと、子どもは素直に着いてきた。しかし、岩場の縁までやってきていざ海の中に飛び込まなくてはならなくなったら、さすがに怯えた青い顔で立ち止まってしまった。人魚は少し考えて、尾を振ってぱしゃりと水を子どもの顔に掛けた。


 子どもは海面から一瞬だけ顔を出した人魚の尻尾に気付いて、目をこれ以上開かないだろうというほど大きく見開いた。あんぐりと開いた口がおかしい。


「人魚? お兄ちゃん人魚姫なの?」


「姫じゃない。僕は男だと言っただろうが。物覚えの悪い子だなぁ」


 子どもはまじまじと人魚の尾を見て「綺麗だね」と小さく囁いた。人魚の尾は、海の向こうへと沈んでゆく最後の太陽の光に照らされて、七色に輝いている。


 ふと思いついて、人魚は自らの尾を彩る鱗のひとつを剥がした。小さな手でもすっぽりと包み込めそうな鱗を、子どもに渡す。


「この鱗をやる。これを持っていれば、海の女神の加護があるよ」


「加護?」


「海が守ってくれるんだ、おまえを」


「海が?」


「そう。そうすれば、この町でも友達ができるようになる。人魚は海の精霊だ。僕の祝福を受けたのなら、おまえはすでに海の子だ。この海がおまえの友達だ。水がおまえを守ってくれる」


 子どもは大事そうに両手で鱗を受け取ると、光に翳すようにして目の前に掲げた。


「綺麗」


 心の底から、呟きを落とす。


 人魚はにっこりと笑った。人間に何かをあげたことなど、いや、もう長いこと誰かにものをあげたことなどなかった。人魚は、自分がもうずっと生き物らしく暮らしていなかったのだということを、子どもに会うことで実感した。そして子どもは人魚の凍り付いていた世界を、優しく溶かしたのだ。


 人魚は手を引いて、子どもを海の中へ導いた。怯えないよう体を両手で抱きしめる。こんなふうに誰かと触れ合える喜びに、心が震えた。


 子どもは怖がりながらも、なんとか人魚の体にしがみついた。触れ合った皮膚越しに、子どもの体温と鼓動が聞こえてきた。子どもの体からは海の中では嗅ぐことのない、日の匂いがした。

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