Side:ヤヒロ 2/2


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 秋葉原の駅前は、ひどく荒廃しつつも、かつての賑やかな街の面影を残していた。

 大殺戮ジェイノサイドのために日本に軍を派遣した国家は三十カ国以上。そのうち八カ国は現在も駐留を続けて、日本全土を分割統治している。

 ただし被占領民となるべき日本人が全滅していることもあり、人口密度は極端に低い。

 占領軍が駐留しているのは、主要な港湾や大都市だけ。日本列島の大半は無政府状態のまま放置され、国際的なテロリストや犯罪者たちが跋扈する無法地帯と化している。

 だが、そんな犯罪者たちですら、滅多に足を踏み入れようとしない場所がある。

 それが二十三区——過去に東京都区部と呼ばれていた地域だった。

 日本の政治経済の中心地。かつての首都が隔離地帯に指定された理由は簡単で、この付近の魍獣出現率が、ほかと比べて桁外れに高いせいである。

 大殺戮から四年が経った今も、都内の建物がそのままの姿で放置され、高価な美術品や工芸品の多くが手つかずで残っているのはそのせいだ。

 とはいえ、大殺戮を経ている以上、秋葉原の街はもちろん無傷ではなかった。

 建物の多くは度重なる自然災害によって深刻なダメージを受け、魍獣たちの襲撃の痕跡が街のそこかしこに刻まれている。火災によって焼失した商品も少なくはなさそうだ。

「着いたぜ、エド。だけど、こんなところに人形なんか残ってるのか?」

 自称〝美術商〟の老人を再び呼び出して、ヤヒロが訊いた。

 なぜか確信に満ちた口調で、老人は答える。

『それなら心配要らん。ビルの内側はほぼ無傷だ。人形の無事も確認しておる』

「……確認した? どうやって?」

『つい一週間ほど前に、大手業者の回収部隊が中に入って実際にその目で見たそうだ』

「は?」

 エドが指定した建物に足を踏み入れながら、ヤヒロは顔つきを険しくする。

 ヤヒロ以外の回収屋が、すでにこの場所を訪れていた。その情報は初耳だ。 

「おい待て。だったらどうしてそいつらは人形を持って帰らなかったんだ? 回収部隊とやらはどうなった?」

『さてな……人形発見の報告を最後に連絡が途絶えたと聞いておるが……』

「なに?」

 ヤヒロは無意識に姿勢を低くして周囲を見回した。

 秋葉原の駅から近い大型の商業ビルだ。各階ごとに様々なテナントが入っていたらしく、廃墟と化した今も、電子機器や玩具などの商品がビル内に無傷で残っている。

 価値のわかる人間にとって、それらは宝の山も同然なのだろう。

 もちろん、周囲にヤヒロ以外の人間の気配はない。

 だが、ヤヒロはビル内の空気にかすかな違和感を覚えた。

 澱んだ廃墟の空気の中に、かすかな血の臭いが残っている。

『ああ、そうそう。そういえば連絡が途絶する前に、妙な悲鳴が聞こえたそうだ。建物の中に幽霊がいる、とかなんとか』

「幽霊……?」

 ヤヒロが訊き返した直後に通信が切れた。建物の奥に進んだせいで電波が途絶えたのだ。

 まるでそれを待ち構えていたように、薄闇の中で空気が揺らいだ。

 店内に陳列されていた古いビデオデッキや用途もよくわからない大型の電子機器類が、重力を無視して音もなくふわりと浮き上がる。その非現実的な光景にヤヒロは戦慄した。

 ゆらゆらと不規則に揺れながら、空中を移動する電子機器たち。

 それは酷く異様で、恐怖を誘う姿だった。そして電子機器は振り子のように揺れながら加速。呆然と立ち尽くすヤヒロをめがけて砲弾のように襲ってくる。

「マジか、おい……⁉︎」

 咄嗟に飛び退いたヤヒロの背後の壁に、電子機器が次々に激突した。コンクリートが砕ける鈍い音が響き、機械の破片が四散する。

騒霊現象ポルターガイストってやつかよ⁉︎ くそ、なにがどうなってる⁉︎」

 降り注ぐ破片を避けながら、ヤヒロは通路を転がった。

 その頭上を新たな電子機器がかすめて飛んでいく。どれかひとつでもぶつかれば、頭蓋骨を砕かれかねない勢いだ。

 電子機器の激突音が響き続ける一方で、それらを操っている存在の姿は見えない。

 エドが口にした幽霊という言葉が、奇妙な真実味を帯びてくる。

 やがて通路の突き当たりに追い詰められたヤヒロは、目の前に転がる死体に気づいた。それも一体ではなく、五、六体がまとめて無造作に積み上げられている。

「こいつら、エドが言ってた回収業者の連中か……」

 ヤヒロのようなはぐれ者とは違う、大手の企業に雇われた専門の回収部隊。民間軍事会社の制服を着た、軍人上がりの屈強な戦闘員オペレーターたちだ。

 しかし彼らの死体は欠損が酷く、原形を留めているものはほとんどない。

 魍獣に喰われたのだ、とヤヒロは気づく。

 だとすれば、ヤヒロを襲っているこの騒霊現象も、魍獣の仕業である可能性が高い。

 にもかかわらず、ヤヒロの視界に魍獣の姿はない。

 見えるのは、空中を飛び交う無数の電子機器だけだ。

「身体が……⁉︎」

 飛来する電子機器を避けようとしたヤヒロの全身が、突然、激痛と共に動きを止めた。

 手脚の感覚が失われたわけではない。しかし見えない鎖で縛られたように、身体が動かない。

 金縛り——

 予期せぬ心霊現象に戸惑う間もなく、ヤヒロは右肩に凄まじい衝撃を受けた。大型電子機器の直撃を受けて、鎖骨が砕ける鈍い音が響く。

 ヤヒロの右手から力が抜けて、握っていたナイフが落下した。

 まるでそれを待ち構えていたように、ヤヒロの眼前で虚空が裂ける。

 それが怪物の複眼だと気づいたときには手遅れだった。巨大な爪に引き裂かれて、ヤヒロの胴体から鮮血が散る。

「魍獣……どこから……⁉︎」

 なにが起きたのかわからないまま、ヤヒロはボロボロの姿で通路に転がった。

 怪物の爪に抉られた傷は、背中にまで達している。肺は裂け、心臓もおそらく潰れている。

 全身が痺れて力が入らない。悲鳴を上げることもできないまま血塊を吐き出して、ヤヒロは呆然と天井を見上げる。意識がゆっくりと遠のくのを感じる。

 頭上から聞こえてくるのは、勝ち誇ったように嗤う魍獣の声——

 ぼやけた視界に最後に映ったのは、水滴となって空中に留まるヤヒロ自身の鮮血だった。


          †


「よかった。まだ生きてらしたんですね、兄様——」

 朦朧とした意識の中で、笑い含みの澄んだ声が響く。

 それは、あの日の——大殺戮が始まった日の記憶だ。

 空を舞う〝怪物〟を背後に従えた少女が、戦慄する鳴沢八尋を静かに見下ろしている。

 降り注ぐ深紅の雨を浴びながら、鳴沢珠依が柔らかく微笑む。

 虹色の翼を広げた巨大な龍を背後に従えた、血まみれの少女が——

「——それとも、死ねなかっただけですか?」


          †


 通路の薄闇の中で青白い火花が散った。

 無意識に突き出したヤヒロの右腕が、魍獣の牙を弾き飛ばしていた。

 絶命したはずの獲物の予期せぬ反撃に、感情を持たないはずの魍獣が明らかな動揺を見せる。

 その一瞬の隙を衝き、ヤヒロはナイフをひっつかんで跳ね起きた。

 再び全身が硬直しそうになるが、その直前、頭上のなにもない空間をめがけてナイフを一閃。なにかがちぎれ飛ぶ小気味よい手応えとともに、固まりかけていた肉体が再び自由になる。

「こいつがさっきの金縛りと、騒霊現象の正体か」

 ちぎれた糸の断片をつかんで、ヤヒロは気怠く呟いた。

 蜘蛛の糸を何倍も強靱にしたような、半透明の細い繊維だ。その糸が知らぬ間に全身にまとわりついて、ヤヒロの動きを阻害していた。重い電子機器を空中に浮かべ、ヤヒロめがけて撃ち出していたのも、その糸だ。

 ヤヒロの動きを止められないと気づいた魍獣が、闇の中に溶けこむように姿を消す。

 だが、その絡繰りもすでにヤヒロにはわかっていた。保護色だ。

 このビルに潜んでいた魍獣は、カメレオンや蛸のように体色を変化させることで姿を隠し、迷いこんできた獲物を狩っていたのだ。

 種が割れてしまえばどうということはない、ごくありふれた能力だ。

 それに気づくのが遅れたのは、先入観のせいだった。

 エドが口にした幽霊という言葉に惑わされてしまった結果、ヤヒロは危うく死にかけたのだ。

 常人ならば、とっくに絶命していてもおかしくない負傷と出血。

 だが、皮肉にもその出血が、ヤヒロに魍獣の正体を教えてくれた。

 飛び散った鮮血が付着したことで、闇の中に張り巡らされた糸の存在が明らかになり、透明化していた魍獣の姿もはっきりと浮かび上がっていたからだ。

 シャアアアアアアアアアッ——!

 保護色を見破られたことに気づいた魍獣が、その姿を完全にさらけ出して咆吼する。

 爬虫類の外皮を持つ蜘蛛——とでも呼ぶべき異形の怪物だ。

 八本の手脚の先には鋭利な鉤爪が生え、人喰い鮫に似た巨大な口には無数の牙がぎっしりと並んでいる。

 魍獣の体長は、胴体部分だけでも三メートル近く。たとえ保護色による透明化がなくても、侮れるような相手ではない。

 それでもヤヒロは魍獣を見上げて、獰猛な笑みを浮かべていた。

「——ゲルマン神話の英雄ジークフリートは、龍を殺し、その血を浴びて不死の肉体を手に入れたらしいぜ」

 巨体からは想像もできないほどの素早さで魍獣が動き、伸ばした鉤爪をヤヒロの肩へと撃ちこんだ。だが、その鉤爪は、ヤヒロの上着を引き裂いたところで、呆気なく弾かれる。

 ヤヒロが流した鮮血が、鎧のように固まって、肉体の表面に貼りついていた。

 皮膚そのものも硬質化して、鋼の鱗のような姿へと変わっている。

 潰れたはずの肺や心臓は再生を終え、引き裂かれたはずの肉は血の鎧によって塞がれた。

 鋼の皮膚を持つ、不死の肉体——

 それがあの深紅の雨の日に、ヤヒロが手に入れた力だった。

 龍の血を浴びた、呪われた龍殺しの不死の力だ。

「どうやら俺もその英雄ってやつの同類らしい。悪いな、殺されてやれなくて!」

 自らの返り血に濡れたナイフを、ヤヒロが魍獣に突き立てる。

 大振りな軍用ナイフとはいえ、魍獣の巨体に比べれば、その刃はあまりにも薄く頼りない。

 しかし、その効果は劇的だった。

 ナイフで抉られた傷口を中心にして、魍獣の全身に亀裂が生じる。龍の血で汚染されたヤヒロの血液は、魍獣にとっては致死的な猛毒なのだ。

 漆黒の瘴気を撒き散らしながら、脆くなった巨体が粉々に砕けていく。

 それを無表情に眺めて、ヤヒロは深々と嘆息した。


          †


「終わったぜ、エド」

 電波状態のいい窓辺に移動して、ヤヒロは通信機の電源を入れ直す。

 美術商の老人は、ヤヒロの無事を喜ぶでもなく、遅かったな、と真っ先に文句を垂れた。

『魍獣を倒したのか?』

「なんとかな」

『ほう……』

 エドが意外そうな声を出す。大手業者の回収部隊を壊滅させた魍獣を、ヤヒロが一人で撃退するとはさすがに思っていなかったらしい。

「それよりも依頼されたフィギュアの特徴を教えてくれ。ほかの魍獣に気づかれる前にさっさと脱出したいんだが、人形だらけで見分けがつかねえ」

 ヤヒロが背後を振り返って言った。

 ビルの中にある模型店の跡地は見つけたが、店内にあるフィギュアは数百体を超えており、どれを持ち帰ればいいのか、ヤヒロには見当もつかなかった。

 しかしエドは、事も無げな口調で言ってくる。

『すぐにわかるさ。店の入り口近くに展示してある、魔法少女ウーラガンちゃんだ。一分の一スケールのな』

「一分の一スケール……?」

『要するに等身大ってことだな。さすが日本のヘンタイ技術の頂点を極めた傑作だけあって、なかなか見事な造形じゃろ?』

「等身大って……人間と同じサイズってことか?」

 ヤヒロは困惑しながら周囲を見回した。

 聞き間違いかと思ったが、ホビーショップ入り口正面——一番目立つ場所に等身大の美少女フィギュアが置かれている。フィギュアの身長は台座を含めて百六十センチといったところか。

 魔法少女を名乗るキャラクターの衣装は無駄にひらひらとしたフリルに覆われて、そのくせ無闇に露出度が高い。立っているだけでスカートの中身がのぞけるほどだ。

「これを抱えて二十三区を脱出するのか⁉︎ 俺が⁉︎」

 ヤヒロがひどく情けない声音で言った。

 日本人の生き残りというだけで蔑まれ、嘲られるのは慣れてきたつもりだ。

 しかしこの等身大美少女フィギュアはヤバい。この魔法少女を抱えて歩いている姿を見られてしまったら、二度と立ち直れないという予感があった。いくら不死身の龍殺しといえども、メンタルまで無敵になったわけではないのだ。

『十万の仕事だ。我慢せい。行方不明の妹を見つけ出すんだろう?』

 しょせんは他人事とばかりの気楽な口調でエドが言った。

 ぐぐ、と歯軋りしながら、ヤヒロは葛藤する。

 大殺戮以来、姿を消した妹を見つけ出す。その費用を稼ぐために、ヤヒロは魍獣のひしめく二十三区に残り、たった一人で回収屋を続けているのだ。

「龍の……せいで……! くそ、この借りは必ず返すぞ……珠依……!」

 ヤヒロは屈辱に震えながら、魅惑的な造形の等身大フィギュアを抱き上げる。

 そして不死者の少年は、再び廃墟の街へと歩き出したのだった。

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