Side: アヤホ&イロハ 2/2


          2


 あの日——四年前の、あの夏の日。

 東京上空に巨大な龍が現れて、街には深紅の雨が降り注いだ。

 時を同じくして、日本全土に魍獣が出現。神話の怪物にも似た力を持つ彼らは、容赦なく人々を襲い、喰らい、街を破壊した。

 世界中の要人、国家元首、そして宗教的指導者たちが命令を下したのはその直後だ。

 彼らは言った。日本人を殺せ、と。殲滅せよ、と。

 殺戮の連鎖は瞬く間に全世界に広がり、各国の軍隊は速やかに日本への侵攻を開始した。

 狂乱のうちに日本という国家は消滅し、海外にいたわずかな日本人たちもまた、容赦ない暴力に晒されて次々に命を落としていった。

 私たちはそれを〝大殺戮〟——ジェイノサイド《J-nocide》と呼んでいる。

 そして日本人は死に絶えた。

 大殺戮が始まって、わずか半年後の出来事だった。


          †


「うわ、すごい。デパ地下、すごい! 見たことのない缶詰がいっぱいある!」

 贈答用の高級缶詰セットを抱き上げて、彩葉ちゃんが声を弾ませた。

 新宿にある大型デパート跡地の廃墟。地下道から中に入った私たちが見つけたのは、店内に手つかずで残された商品の山だった。

 四年も放置された建物の地階は、雨水が溜まって水浸しになっていることが多い。だけど、このデパートの真下には地下鉄のトンネルが走っていたため、そちらに水が流れこみ、水没するのを免れたらしい。

 もちろん食料品のほとんどは、腐り果てて原形を留めていない。

 それでも缶詰や保存食の多くは無事だった。コンビニやスーパーでは見かけないめずらしい食材に、彩葉ちゃんだけでなく私のテンションも上がる。

「これを全部持って帰るのは無理だね」

 尋常ではない量の缶詰をせっせとかき集める彩葉ちゃんに、私は言った。

 彩葉ちゃんは、その言葉にショックを受けたように頭を抱えて、

「あああ……タビーたちを連れてくればよかったよ。ヌエマルは荷物運んでくれないからなー。どれを持って帰ろう。悩むー」

 その場に屈みこんだ彩葉ちゃんが、真剣な顔で缶詰の選別を始める。

 もちろん自分が食べるだけなら、彼女もそこまで本気で悩んだりはしないのだろう。たぶん彼女が考えているのは、〝ホーム〟に残してきた弟妹たちのことだ。

 〝ホーム〟にいる子どもたちは全部で八人。最年長の彩葉ちゃんが十六で、最年少の瑠奈るなはまだ七歳。血のつながりはないけど、全員が力を合わせて暮らしている大切な家族。この廃墟の街に取り残された、数少ない日本人の生き残りだ。

 あの地獄のような大殺戮の中で、私たちだけが運良く生き延びられたのは、すべて彩葉ちゃんのおかげだった。魍獣の群れに襲撃され、わけもわからないまま死を覚悟した私たちの前に、ヌエマルを連れた彩葉ちゃんが現れて助けてくれたのだ。

 それどころか彼女に手懐けられた魍獣たちは、それ以降、ほかの魍獣たちの襲撃から私たちのことを守るようになった。タビーというのは、そんな味方の魍獣の一体だ。

 そうやって彩葉ちゃんに救われた日本人は全部で七十人ほど。その中には、教師や看護師、電気工事の資格を持っている人たちもいた。〝ホーム〟の建物を整備して、太陽電池パネルや飲料水をくみ上げるポンプを設置し、私たちの生活基盤を整えてくれたのも彼らだった。

 しかしそれから一年も経たないうちに、大人たちはみんないなくなった。

 彩葉ちゃんのことを恐れて、逃げるように立ち去った人々もいる。事故や病気で亡くなった人も。だが、それ以上に自ら命を絶った人は多かった。彼らは皆、絶望したのだ。日本人が死に絶えて、自分たちだけが廃墟の街に取り残されたという現実に——

 結局、最後に残ったのは私たち八人たちだけだった。

 だからこそ彩葉ちゃんは、私たちのことを大切にしている。実の家族同然か、それ以上に。

 その結果、彼女は薄暗い廃墟の地下で、お土産用の缶詰を真剣に物色しているのだった。

「ていうか、缶詰を持って帰るだけでいいの? 下着を探しに来たんじゃなかった?」

 悩み続ける彩葉ちゃんの背中に、私は呆れ顔で呼びかける。

 彩葉ちゃんは、ハッと我に返ったように顔を上げて、

「下着じゃなくて、服ね! 服!」

「フロアガイドあるよ。下着が置いてあるのは……三階かな。大きいサイズも置いてあるって」

「その大きいサイズというのは、たぶん微妙に意味が違うと思う」

 なぜか拗ねたように唇を尖らせつつ、彩葉ちゃんは缶詰を置いて立ち上がった。


         3


「広い……」

 婦人服売り場に辿り着いた私たちは、その売り場の面積に軽く圧倒された。

 四年も放置されていたからあまり期待していなかったのだけど、フロアの中はほとんど荒らされておらず、商品がほぼ完全な姿で残っている。

 高級ブランドの洋服、バッグ、靴、小物——そのどれもが華やかで煌びやかで、平和だった時代のこの国の豊かさを伝えていた。わくわくするような、切ないような、そんな光景だ。

「もっと明るいところで見たかったね」

 マネキンが着こなす夏物のワンピースを眺めて、私はそっと溜息をつく。

 照明の消えたデパート内は暗く、せっかくの色鮮やかな服たちもくすんで見える。

「これでもいちばん強力な懐中電灯持ってきたんだけどね」

 彩葉ちゃんがアウトドア用のLEDランタンを最大出力にして頭上に掲げた。

 おかげでフロア内はだいぶ遠くまで見通せるようになったけれど、それでもデパート本来の眩しいほどの明るさにはほど遠い。

「そっか……水着の季節だったんだ……」

 特設の水着売り場に迷いこんで、私と彩葉ちゃんは、どちらからともなく顔を見合わせた。

 大殺戮が起きたのは夏。当時この特設会場は、きっと新しい水着を求める人々で賑わっていたのだろう。

「どれか着てみる?」

 彩葉ちゃんが、目を輝かせながら私を見つめてくる。私は慌てて首を振り、

「いやいや。私にはこんな派手なの似合わないよ。彩葉ちゃんならともかく」

「そうかなー……これなんか可愛いと思うんだけど」

「無理無理。絶対無理。そもそも私、泳げないし」

 言い訳するわけではないけれど、私が大殺戮を経験したのは九歳のときで、それ以降、プールで泳ぐ機会なんて一度もなかったのだ。当然、水泳の授業もなかったし、そんなんで泳げるようになるはずがない。

 それでも彩葉ちゃんは名残惜しそうにビキニの水着を手に取って、

「海水浴行きたいねー……夏になったら、みんなで行こうか。花火持って。あとスイカ」

「スイカって今から植えて夏に間に合うのかな?」

「どうだろ。今度調べてみるね。どこかでスイカの種も探しておかなきゃ」

 いつもの前向きな態度で彩葉ちゃんが言う。彼女の中では海水浴に行くのが、もうすっかり決定事項になっているらしい。

 私としても、海に行くのが絶対に嫌というわけじゃない。

 特に幼い弟妹たちには海水浴を体験させてあげたいし、上手くいけばアサリなんかの新鮮な食材が手に入るかもしれない。だけど、水着になるのはやはり抵抗がある。

 どうせ日本人の生き残りなんて、私たちだけしかいないんだから、家族以外の誰に見られるわけでもないのだけど。

 とはいえ、水着姿の彩葉ちゃんの隣に並ぶ自分を想像すると、それだけで恥ずかしくて逃げたくなる。なにしろ彩葉ちゃんは美人な上にスタイルもすごいのだ。おまけにうちの妹たちもみんな可愛くて、将来美人になるのは間違いない。世の中はちょっと不公平だと思う。

「将来……か……」

 私はぼんやりと水着売り場を見回しながら呟いた。

 大殺戮以降、東京二十三区は侵入禁止の隔離地帯に指定され、日本を分割統治しているどの国からも放置されている。魍獣がひしめくこの土地に、わざわざ入ってくる犯罪者もいない。

 だからこそ、魍獣に守られた私たちは逆に安全だった。

 家庭菜園で採れた野菜と、ペットの鶏たちが産んだ卵。あとは廃墟に残された缶詰や保存食を回収して、特に不自由なく暮らしてきた。

 だけど、そんな日常が、いつまでも続くとは思えない。保存食の消費期限が尽きるまで、長くてもせいぜいあと数年。いつかは私たちも、この二十三区を出て行かなければならないのだ。

 そんなことを考えながらぼんやり歩いていたせいで、異変に気づくのが遅くなった。

 いつの間にか彩葉ちゃんの気配が消えていた。

「彩葉ちゃん?」

 私は立ち止まって彼女を呼ぶ。

 彩葉ちゃんが持っていたはずのランタンは、売り場の棚の上に置かれたままだ。

 ただ彼女の姿だけが消えている。

 水着の試着にでも行ったのだろうか。

 でも、私たち二人しかいないこの状況で、彼女がわざわざ試着室に入るとは思えない。

「彩葉ちゃん、どこ⁉︎」

 思わず私の声が震えた。

 見知らぬ場所にひとりぼっち。その事実に私は恐怖した。

 ヌエマルも私たちのそばにはいない。大きすぎて建物の中に入れなかったから、デパートの入り口で待たせてあるのだ。もしこの瞬間、魍獣に襲われたら、私には身を守る手段がない。

 軍隊ですら足を踏み入れない二十三区を、私たちが自由に歩き回れるのは、彩葉ちゃんがいたからだ。猛獣使いの彼女がいなくなってしまえば、私たちは—— 

「——っ!」

 私の爪先がなにかに触れた。

 展示されていた衣服が揺れ、その隙間からなにかが転がり出してくる。

 最初に目に映ったのは長い髪の毛。

 骨張った細い腕。剥き出しの歯と、虚ろな眼窩。

 私はたまらず息を呑み、悲鳴の代わりに喉を鳴らした。

 直後。

「絢穂!」

 倒れかけた私の身体を、誰かが背後から抱き止める。温かな体温と甘い匂い。

「彩葉……ちゃん……」

 いなくなったはずの彩葉ちゃんが、軽く息を弾ませながら私を抱きしめていた。

 彼女の顔を見ただけで、さっきまでの恐怖が噓のように溶けていく。

「ごめんね、一人にして。この子が近づいてくるのが見えたから——」

 彩葉ちゃんが、申し訳なさと安堵を綯い交ぜにしたような表情を浮かべた。

「この子……?」

 振り返った私は、今度こそ短い悲鳴を上げる。

 彩葉ちゃんの背後に立っていたのは、見上げるほどの体躯の獣だった。

 二足歩行するアライグマのような姿の怪物。魍獣だ。

 人類の天敵であるはずのその怪物は、従順なペットのように彩葉ちゃんに懐いて、彼女の背後にくっついている。建物の中に潜んでいた魍獣を見つけた彩葉ちゃんは、私が気づく前に、その魍獣に駆け寄ってあっさりと手懐けてしまったのだ。

 どうして彩葉ちゃんにだけ、そんなことができるのかはわからない。彩葉ちゃん自身にも、心当たりはないらしい。なんにせよ彼女のその能力のおかげで、私が救われたことに変わりはない。今はそれだけで十分だった。

「大殺戮で犠牲になったんだね。死んでから、もうずいぶん経ってる」

 私の足元に屈みこんで、彩葉ちゃんが言った。

 そこに倒れていたのは、白骨化した人間だった。

 デパートの制服を着た女性の遺体だ。大殺戮の騒ぎの中で、なんらかの理由で命を落とし、それからずっとこの場に放置されていたらしい。

 魍獣に殺されたわけではない。パニックになった群衆に突き飛ばされたのではないかと思ったけれど、今となっては確かめようもないことだ。

 死体を見るのは私も初めてではないが、だからといってそれに慣れるわけではなかった。

 涙をこらえる私の肩を抱き、彩葉ちゃんが優しい声で言う。

「あとで埋めてあげよう。ね、ドンブリも手伝って」

「……ドンブリ?」

 どこか場違いなその単語に、私は怪訝な表情を浮かべた。

「この子の名前。さっきつけたの。ほら、尻尾の模様がラーメンのどんぶりに似てるから」

 彩葉ちゃんはなぜか自慢げに胸を張り、背後の魍獣を指し示す。

 アライグマっぽい風貌の魍獣の尻尾には、たしかに渦巻き状の模様が入っている。ラーメンのドンブリの模様に似ているといえば似てなくもない。

 だとしても、魍獣の名前としてそれはどうなのか。

「彩葉ちゃんって、ネーミングセンスが残念だよね」

 私は溜息をつきながら、緊張感のがれた口調で言った。

「え? うそ⁉︎ 可愛くなかった⁉︎」

 彩葉ちゃんはびっくりした顔で私を見て、少し傷ついたように肩を落とした。


          †


 デパートの屋上にある庭園に店員さんの遺体を埋葬したあと、私たちは再び店内に戻った。

 目当ての商品の売り場を彩葉ちゃんが発見したのは、それから一時間近く経ったあとだった。

 清潔感のある広々とした売り場には、無数のワイシャツやブラウス、そしてブレザーやスカートがぎっしりと並んでいる。

「これって……」

「そう。制服売り場」

 驚く私に、彩葉ちゃんが優しく笑いかけてくる。

「絢穂、本当なら今年から中学生でしょ。だから制服を着せてあげたいなって思って。学校はもうなくなっちゃったけど、せめて服装だけでも、ね」

「あ……」

 壁際に並ぶ制服姿のトルソーたちを眺めて、私は呆然と立ち尽くした。

 日本人が死に絶えたこの世界に、私が通う中学校なんて存在しない。

 私が本当の中学生になる日が訪れることはあり得ない。

 それでも目の前の制服たちは、私の心を震わせた。

 かつての平和だった日常と、そして未来への希望の象徴。

 忘れかけていた憧れの欠片がそこにはあった。

 こんな残酷な世界でも、私は生き続けて成長している。

 ここにある中学校の制服は、その証のように感じられた。

 彩葉ちゃんが用意してくれた、私への最高のプレゼントだ。

「さあさあ、好きな学校の制服を選んでいいよ」

 ランタンを掲げた彩葉ちゃんが、私の前に次々に制服を運んでくる。古風なセーラー服も、どこか野暮ったいブレザーも、どれもが魅力的で目移りした。

「いいのかな。私、勝手に着ちゃって……」

「大丈夫だよ。中学は義務教育だから、入試ないし」

「私立だといちおう入試はあるんじゃないかな……あ、でも、この制服可愛い」

「いろいろあって迷うよね。わたしも高校の制服着てみようかな」

 高校の制服のコーナーを物欲しげに見つめて、彩葉ちゃんが言う。

 いかにも彼女らしいその言葉に、私は思わず微笑んだ。

「彩葉ちゃん、コスプレ好きだもんね」

「コスプレ⁉︎ 待って、わたしだって本当ならまだ高校に通ってる歳だから……!」

 彩葉ちゃんが動揺したように弱々しく叫ぶ。

 私はその間に、一着の制服を手に取った。なんの変哲もない紺色のセーラー服。いかにも中学生という地味なデザインだけど、それが逆に素敵だと思う。

「に、似合うかな?」

「似合う! 可愛い! さすが、わたしの妹!」

 身体に当てたセーラー服ごと、彩葉ちゃんが私を抱きしめてくる。

 彼女の大げさな褒め言葉を、今は素直に受け入れられる気がした。彩葉ちゃんは私の大切な家族で、たった一人の姉なのだから。

「……ありがと、お姉ちゃん」

 照れくさい気持ちをこらえながら、私は彩葉ちゃんへのお礼の言葉を口にする。

 だけど次の瞬間、ぼろぼろと涙をこぼし始めた彼女を見て、私は思わずギョッとした。

「絢穂ぉぉ……」

「ちょっ、泣かないで、彩葉ちゃん! こんなことくらいで感極まりすぎ!」

「だって……だって……!」

「もう、しょうがないなあ……」

 私は苦笑しながら彩葉ちゃんの背中をさする。初めて制服を着る家族を見て泣くなんて、姉というよりお母さんみたいだな、と思いながら。

 私たちは、いつまでもこのままではいられない。

 いつかきっと、この廃墟の街から出なければならない日がやってくる。

 それでも私たちが家族だった時間は噓じゃない。

 だから、それまではここで生きていくのだ。

 この虚ろなる世界の中で。

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