第二話 ふたりでショパン

 ――作曲科に行くって、本当?

 ――うん。

 ――じ、じゃあ、もう一緒に弾けないの!?


この世の終わりだ、とばかりの顔をする安姫に、どれだけの怒りを覚えたことだろう。けど、あたしは曖昧な笑みしか浮かべられなかった。「あんたの隣にいたら、いつかあたしは殺される」――喉まで出かかった言葉だ。それを言ってしまっていたら、いま、この場にいられたかどうか。


否定のしようもないことがある。ピアノは、明確に演者に格差をつきつけてくる。神様がどうこうなんて言うつもりはない。一緒に走ってると思ってた安姫が、あたしなんかよりずっと速かった、それだけのこと。


コンクールの成績だけで言えば接戦とも言えただろう。けど、あたしの指が知らず知らずの内に、安姫の音をなぞろうとする。なぞれてしまったときには、時には安姫に勝つことだって、あった。けど、それはあたしの音なんかじゃない。


人のうわさは、なんだかんだで耳に飛び込んでくるものだ。「マネまでして、広永に勝ちたいのか?」みたいな言葉を、何度耳にしたことだろう。じゃあお前はマネできるのかよ、とは言いたかったけど。


安姫の音から離れようともがけばもがくほど、あたしは調子を崩していった。隣で無邪気にあたしとの勝負に一喜一憂するその顔が、だんだん憎らしくなってきた。しかも、そのピアノは時を追うごとに輝きを増す。まるであたしの影を焼き尽くさんか、とでもするかのように。


同じ高校を卒業し、同じ音大に合格する。その頃になると、あたしの心はズタボロになってた。作曲科に進み、どれだけ安心したことだろう。もうこれで、安姫と比較されずにすむ。自分の中にへばりつく安姫の音と、戦わずにすむ。一方で、無二の親友を裏切った負い目が、あたしの進む足を重く縛りつけもしてきたのだけれど。


何回かの学内コンクールで、安姫のピアノを改めて聞くことがあった。


天才ぞろいの音大の中にあって、それでも安姫の音はひとつ、ふたつは抜きん出てたと思う。ただ、あたしと一緒に弾いてた頃と比べたら、ずいぶんと凍てついた、機械的なものにはなってた気がした。みんなが安姫を称賛しながら、けど遠巻きにもしてるのを感じ、歯がゆさを覚えた。


違う、安姫のピアノの価値は、ただすごいことじゃない、あのきらめきにあるんだ――あたしは居ても立ってもいられず、えらい勢いで、小曲を書き上げた。あたしの知る、満開の花畑みたいな。そんな安姫の音を思って。


書き上げたところで、あたしは気付く。

好きなんだ、ひたすら、安姫の音が。


そんな本心から目をそらそうとすれば、指がついてかないに決まってる。自分の意固地さにあきれながら、一方で確信もする。


きっとあたしは、丹念に育て上げた呪いを、安姫に押し付けてしまったんだ。


「ねぇ、枡美」


いままた一曲を終え、汗をきらめかせながら、安姫が言う。


「ピアノ協奏曲第一、行ける?」

「行けるって何よ」

「もう一台ピアノあったら、セカンド弾ける? ってこと」

「はぁ?」


いきなりのムチャ振りにもほどがある。


ピアノ協奏曲。ショパン・コンクールの決勝における課題曲でもあり、第一と第二がある。ともに三楽章合計で三十分を越してくる大曲だ。


オーケストラとの協奏なんて、簡単には実現しない。これらの曲を練習する場合は録音音源に頼ることが多い。けれど、それだと生の音ならではのゆらぎが生じづらく、固い演奏になってしまいがちだ。だから、オーケストラの楽譜を抜粋したピアノ譜が存在している。それが安姫の言う、セカンド。


「やれるわけないじゃん。弾けって言われたら、まぁできなくもないだろうけどさ。天下のアキ・ヒロナガとの連弾なんて、とてもとても」

「へぇ? なら、歌って?」

「はぁ?」


間抜けな返事を二連発だ。

恥ずかしいったらない。


「あんたね、何ムチャクチャなこと――」

「そぉお? 私たち、ふたりでフレデリック・ショパンじゃなかったっけ?」

「忘れなさいよ、そういう黒歴史」


ひどいやつだ、ひとがどこを嫌がるのかわかって、的確に突いてくるんだ。


大学生活の、後半。すっかり孤高のひとになってた安姫は、ひとりきりで練習してることが多かった。もはや部外者のあたしでも、練習中の安姫に近づくのは簡単だった。


いきなりの思いがけない乱入者に、その冷たい面持ちのまま、固まった安姫。あたしはそこに、手書きの楽譜を押し付けた。


いつまで閉じこもってんのよ、あのころの安姫に、早いとこ戻んなさいよ。そんなふうに言ったと思う。


よく事態を飲み込めないまま、安姫は譜面に目を落とした。ひととおりを追ったあと、ぽつりと漏らしたのは、「かわいい」の一言。


そいつがあたしのブレーキをぶっ壊した。


まくし立てた。あたしが作曲科に行ったのは、安姫のためだけの一曲を贈りたかったからだ、って。恋い焦がれてやまない、唯一無二の音に、最もフィットする音楽を載せるのだ。それは誰よりも安姫の音楽をわかってる、あたしにしかできないこと。


その流れで口走ったのが、安姫の言う「ふたりでフレデリック・ショパン」だった。


フレデリック。日本語に直すと「安寧をつかさどるもの」となる。広永先生は熱心なショパンファンでもあるから、その流れで安姫、という名前を付けたのだ、と聞いた。

そして、ショパン。これは水だとか豆だとかを量る、500ml 弱の計量コップのことを指すのだそうだ。なら、強いて日本語に直してみれば、枡。


安姫がフレデリック、いや、女性名にしてフレデリカか。そしてあたしが、ショパン。あたしたちは二人で組んで、何かどでかいことをやるさだめにあるんだ、と、今思い返すと、いったい何に酔っ払ってたんだ、みたいなことを言いだしてた。安姫の肩を乱暴につかんで、ドバドバ涙を流しまくりながら。


ひとが大マジも大マジだったってのに、安姫ったら、しばらくあっけに取られたあと、よりにもよって爆笑、だったもんね。


ほんと、ひどいヤツってば。

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