教卓の上のデウスエクス・マキナ

あいさ

教卓の上のデウスエクス・マキナ

 まず、椅子がふたつあった。


 小学校の教室にあるような木の椅子だ。

 そこにはふたりの男が座っている。壮年の男と若い男だ。

 壮年の男はよく鍛えているのだろう。体格は良く、見目も悪くはない。しかし、無精髭を生やし、衣服も汚れたまま足を揺らしている。

 若い男は両手を麻縄で縛られている。まだ少年と呼んでも良いあどけなさを残した顔には恐怖の色が濃く現れている。


「ああ、ああ、なあ、坊主、ここは何だと思う?」

「うぇ、あ、いや、わからないです。それより、これ、外してもらえませんか」


 若い男は縛られた両手をそっと壮年の男に差し出した。


「あっは、はは。なあ、坊主、ここに来る前のことを覚えているか」

「いいえ、何も。それより、これ外してください」


 ガン。


 壮年の男は足で床を打ち鳴らした。若い男の肩がびくりと揺れ、さっと縛られた両手を下ろした。


「うるさい、うるさい。いいから、俺の話を聞きやがれ」

「……はい」

「よしよし。なぁ、坊主、寺山修司を知っているか」

「……教科書で見ました。昭和の詩人でしたよね」


 若い男の返答に、壮年の男は呵呵大笑する。


「教科書! 教科書と来たか! じゃあ、天井桟敷は知っているか」

「……いいえ、初めて聞きました」

「いいよ、いいよ。この俺が教えてやろう。天井桟敷は寺山修司の劇団さ。ヨーロッパでも公演をしていてな、そりゃあ、大流行りだった」


 壮年の男は得意げにパシン、とその膝を叩く。

「まあ、色々やったさ。観客を行き先不明のバスに乗せてマンションに住む夫婦の生活を覗かせる。太った女優だのゲイだの、小人だの美少女だのを舞台に乗せて見せ物を復権しようとしたり、観客に睡眠薬入りのスープを飲ませて、舞台はカーテンで隠す。果ては観客を舞台に引きずり出そうとした」

「めちゃくちゃですね」

「ああ、めちゃくちゃさ! 寺山は一等めちゃくちゃだった! その中に阿佐ヶ谷で公演された『ノック』がある。どんな公演かわかるか?」


 迫る壮年の男に若い男はぐるりと目を回し、そして、答えた。


「わからないです」

「そうだろう、そうだろう。ノックはな、阿佐ヶ谷の町で同時多発的に公演された。もちろんゲリラだ。何も知らない店屋に書簡を送り付け、マンホールの蓋を開いて観客は拉致され、全身包帯のミイラ男に何も知らない住民は驚き慄いたさ。劇団員は警察に追いかけ回され、観客はそれすら芝居だと思った!」


 壮年の男の上機嫌な語りように、若い男はオロオロとしている。


「その演目の一つにヒューマンボックスっていうのがある。箱に観客を詰めて、どこぞに置き去りにされるんだ。そして、観客は箱を開けて自分の家に帰る。寺山は演劇と実生活を地続きにしようとしたんだ」

「なんか、俺らの状況と似てますね」

「そう、その通りだ。60年代はこんな演劇が流行りに流行った。俺はここはアングラ演劇の公演なんじゃないか、と思っている」

「アングラ演劇?」


 若い男はキョトンとした様子で問い返す。壮年の男はぐわりと目を丸くした。


「なぁんだ、知らんのか、アングラ演劇。いい機会だ、まとめて教えてやろう」

「はぁ」


 若い男の生返事も気にせず、壮年の男はひょいと足を組んだ。


「今から百年も前か、文明開化ってやつだな。西洋近代劇を日本でもやろうって動きが始まった。それが新劇さ。

 日本に昔からあった演劇と言えば歌舞伎だろう。白塗り、ド派手な衣装に動きだ。それに対して新劇はリアリズム、写実主義だ。芸術的、文学的、理想的、と言ってもいい。そういう演劇が、まあ半世紀くらい世の中を席巻していたわけだ」

「ええと、それがアングラ演劇とどう繋がるんですか?」

「うるせぇなぁ、結論を急ぐんじゃねぇ。まぁ、単純さ。アングラ演劇はそのかくあるべき、凝り固まった演劇をぶっ壊そうとしたのさ。実験であり、反抗であり、新しいものを生み出そうって熱だ。不条理と非日常だ。そのためには池に飛び込むし、観客を攫うし、役者を埋めてそのまま帰る」

「役者を埋めてそのまま帰る……」

「ああ、状況劇場さ。唐十郎の紅テントさ。本当に真っ赤なテントの中で演劇をやるんだ。真ん前の客の足の裏に自分の膝を乗っけて、自分の足裏に後ろの客の膝が乗っけられるような鮨詰めでな。最後にはバカッとテントの壁が崩れるのさ」

「さっきの天井桟敷? とかと負けず劣らず凄そうですね」

「ああ、そりゃその通りだ。そして、忘れちゃいけねぇ、新宿中央公園の事件だ。あれこそアングラ、反抗だ。紅テントは新宿の神社で公演を行っていたんだが、追い出されてな。逆襲としてできたばかりの中央公園で興行を打とうとした!」


 壮年の男の言葉は興奮と共に荒々しさを増す。若い男はその様子をじっと見つめている。


「許可は取れるはずもない。だが、チケットを握りしめた観客も集まりゃ、公演を辞めさせたい役人どもも集まった。そして、リヤカーを引いた唐十郎と看板俳優が現れた! そこから、役人たちと押し合いへし合いのもみ合いだ。しかし、それはすべて陽動だった。熟練の劇団員が騒ぎの隙に紅テントをさっと立て、開演を告げた!」


 ガランガラン。ガランガラン。

 壮年の男が勢いよく立ち上がり、椅子が倒れる。


「こうして幕は上がった! 役人どもと二百人の機動隊は公演をやめろと喚き、観客たちは帰れとヤジを飛ばし、台詞など聞けたものではなかった。それでもやり遂げた。その熱狂がお前にはわかるか!」


 掴み掛かりそうな勢いで、壮年の男は若い男に詰め寄った。

 そして、若い男はただ静かに、静かに言った。


「あなたにとって演劇とはなんですか」


 それを聞いた壮年の男はにんまりと笑う。


「反社会さ。反抗さ。たまらないねつさ。舞台の上では過去も未来もそれどころか現在もない。楽園も地獄も、神の降臨さえも思うがままにだ。この世のあらゆるものなんだって乗せられる。それが舞台さ」


 恍惚と語る壮年の男の眼前で若者を縛っていた縄が解ける。


「黙って聞いていりゃあ、何を抜かす。愚か者め」


 地を這うような老成した声で、若い男はじろりと壮年の男を睨みつけた。


「なんもかんも見てきたように語りやがって。おめぇ、生まれてすらいねぇだろ。壮年って言りゃあ、三十路から四十路の男のことだ。最盛期にアングラ演劇やってた連中は軒並み70過ぎのジジィだ」

「……お前、誰だ?」

「おめぇが言ったんだぞ。舞台の上には過去も未来も、それどころか現在もないってな。俺はお前さ。見覚えないかい? お前はこんなにヒョロかったのさ」

「嘘だ。違う。そんな」


 壮年の男は後退りをし、バランスを崩してそのまま尻餅をついた。


「今度は俺がお前にご教示してやる番だ。役にも立たねえことをよくぺちゃくちゃ喋りまくったもんだ」


 若い男は立ち上がり、縄をしならせるとあっという間に壮年の男を縛り上げた。


「マクベスの栄光と破滅は知っているか? トロイアの女たちの末路はどうだ? 追う者は追われる者に、罪人は聖人に、金持ちは貧乏人に。ならば、若者が老人に変貌してもおかしかねぇし、よくある話さ」

「だから、なんだって話だ。というか、外せよ、これ!」

「だから、お前の好きな演劇の話さね。なあ、唐十郎は岸田戯曲賞も取ったし、芥川賞も取ったし、その上、大学の先生にすらなったぞ。寺山の海外公演は向こうで絶賛されたぞ。反抗には反抗するための肉体が必要なんじゃねぇのか? 世間様に認められた表現はもう反抗でも新しい熱でもない。破壊されるべき古臭い何かだ。お前は語るべきことをあえて隠匿したな」

「ああ、寺山修司は死んだとも。唐十郎は大河にすら出たさ。だからなんだって言うんだ。俺は新しいものを信じている」

「はは、信じる、信じるだと? 千席超えの大箱どころか、1日で二万六千人の観客を呼ぶのはアングラか? テレビがやたらめったら持て囃す俳優も脚本家も演出家もアングラか? 大衆に受け入れられたものは新しいのか?」

「それは夢を見ない理由にはならない!」


 ガン、ガランガラン。

 若い男が椅子を蹴り飛ばした。びくりと壮年の男の肩が跳ねる。


「夢を語ることを現実逃避の道具にするんじゃねぇ。騙るにしても、騙った責任ぐらい取れよ。おめぇ、役者でも脚本家でも演出家でもないだろ! それどころか、大道具でも衣装係ですらねぇ!」

「ああ、そうさ、その通りだよ。俺には観客はいない。ここがどこかすらわからねぇ! 夢を見るしか能のない男だよ! 悪かったな」


 壮年の男の叫びに若い男はにやりと笑う。


「ああ、ああ。それでいい。説教のしがいがあるってもんだよ。そして初めて演劇が演じれよう」

「演劇だと? 観客もいないのに演じるものなど何もない。ヒューマンボックスなら、俺たちが日常に戻ることこそ結末だろう」

「いいや、違う、観客はここにいるだろう! よく見やがれ、すっとこどっこい!」


 そして若い男は真っ直ぐ、客席に座るあなたを指さした。

 壮年の男はあなたを舞台の上からジロジロと見た。その場に膝をつき、縛られた腕を高く上げ、ドンと床を殴った。


「……なんなんだここは本当に!」

「何って舞台だろう。お前と俺が夢見た舞台に決まっている。さぁ、答えねぇか。お前にとって演劇とは何か?」

「わからん。もう何もわからん。冷めたぬるま湯じゃあ、風邪にもかかれん。家に帰りたい」


 壮年の男は泣き言を言ってその場にうずくまった。その背を、若い男は躊躇なく蹴飛ばす。


「人様の言葉ばっかり借りて喋るからそうなるんだ。自分の言葉で語りやがれ」


 転がった壮年の男は負けじと怒鳴り返す。


「演劇論なんざ、もう散々語り尽くされてるだろう! カタルシスなんて演劇用語はアリストテレスが初出で、いまだに使われている。語り尽くされていないものを探す方が難しい」

「それでも、新しいものを探せ。お前が立ち止まっている間に世界は百歩先に進んでいるぞ」

「そんなもの、舞台の神しか知りようがないだろう!」


 それを聞いて若い男は大きく笑い声を上げた。


「何を言っている! 本当に何一つ見えていないんだな。デウスエクス・マキナははじめから、そこにいる!」


 若い男は私を指さした。


「俺が代わりに物語ろう。だからお前はお前の言葉を語るが良い」


 若い男が朗々と告げると、スポットライトの光が増す。

 ふたつの椅子、ふたりの男の後ろに古びた教卓がひとつ置かれている。

「その上に女がひとり立っている。若くも老いてもいない女だ。煤けた金髪にそばかすまみれの色黒でお世辞にも美人とは呼べまい。しかし、この女こそ、神だ」


 望まれるなら望まれるまま。それが私の在り方である。


「女は教卓から飛び降りた。そしてゆっくりとふたりの男の間に歩み出る」


 宣言しよう。

 デウスエクス・マキナは降臨した。

 私こそ、舞台上の神である。


「女はその手に緑色の冊子を持っている。ホチキスで留めた跡にテープを貼っただけの薄っぺらい冊子だ」


「その本はなんだ?」

 これは台本である。

 一語一句違わず、演者の声を収めたものである。

 開演から終幕までの一挙一動のほとんどを収めたものである。

「じゃあ、そこには未来があるのか。おい、読ませろ」


「壮年の男は女に飛びつき、冊子を奪い取り、乱暴にページをめくる」


「ふざけるなふざけるな! 何が台本だ! 真っ白じゃないか! 即興劇じゃないんだぞ!」


「壮年の男は癇癪を起こしたように冊子を放り投げる。女は足元に落ちた冊子を拾い上げて、再びページを開く」


 台本は役者のためのもの。演劇のためのもの。

 キャラクターのものではない。


「キャラクター? 俺が? なら、俺は五分前にこの世界に生まれたって言うのか? おい!」


 意思なきは意思なく。

 新劇は言葉である。

 アングラは肉体である。

 ここにはそのどちらが存在するか?


「そんな問答なんてどうでもいい! 答えろ! 答えろよ、神! 俺はなんだ! ここはなんだ! 演劇とはいったいなんなんだ!」


「狂乱した壮年の男は女に椅子を振り上げた。女は冷めた目を壮年の男に向けた」


 ならば、答えて言おう。

 神は語るべき言葉を持たない。


「壮年の男の動きが止まる」


 デウスエクス・マキナは舞台装置である。

 私は演出家と脚本家の意思を代行する都合の良い装置に過ぎない。

 装置に理念も感傷も必要はない。

 ただ安易な結末をもたらすのみ。


「じゃあ、俺も舞台装置ってか。答えなんぞどこにもないってか。ちくしょう、ちくしょう」


「派手な音を立てて、壮年の男の手から椅子が転げ落ちる」


 舞台は望むままにある。

 男が女を演じ、女が男を演じ、獣になり、神になり、英雄になり、道化になり、物乞いになり、追い追われ、這い上がり、蹴落とされ、恋をし、憎まれ、生きては死ぬ。そして、すべてが感情に差し替えられる。


 演劇とは何か。


「壮年の男はそして、自らの腕を戒めていた縄を解いた」


「想像力のすべてだ」


「それを聞いた女は、手の中にある冊子を閉じた」


 機械仕掛けの神は舞台に降臨した。

 ならば、物語は都合よく理不尽に、終わらなければならない。

 私はそのための道具であり、そのための神であり、道理も秩序も不要だ。


「女が宣言すると、女の足元に一丁の拳銃が滑り込んできた。女はそれを拾い上げ、壮年の男に向かって銃口を向けた」


「え、あ、聞いてない! そんなの聞いていない! やめろ、やめ……」


「激しい破裂音が響いた。壮年の男は痙攣しながら倒れ、そして……動かなくなった。女はその銃口を若い男にも向け……あ、おい、待て待て待て! 俺は死ぬつもりはねぇ! 殺すのはあの馬鹿だけしにしてくれねぇか。あいつさえ死ねば幕引きには十分だろう!」


 ばーん。


「舞台は暗転した」




 いくばかりかそうしていただろうか。やがて徐々に落とされていた照明に光が灯る。


 まず、椅子がふたつあった。

 小学校の教室にあるような木の椅子だ。

 そこには二人の男が座っている。壮年の男と若い男だ。死んでいるのか、生きているのか、二人ともピクリとも動かない。


 カラン、シャー。


 まだ煙立つ拳銃が乱雑に放り投げられ、どこぞへと滑って消える。

 仕事を終えたデウスエクス・マキナは再び教卓の上にひらりと飛び乗り、再び手の中の台本を読み上げ始めた。


 ジリリリリ、と開幕のベルが鳴る。緞帳が上がる、上がる。


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