16. Interlude 〜独占欲〜(ロイ)

 昼食を半ば終えたところでふと目を向けると、ディルが椅子に座ったまま、ゆらゆらと船を漕ぎ始めたところだった。香草茶の効果もあるのだろうが、そもそも負担の大きい術を使ったせいで、回復し切らない体がまだ眠りを欲しているのだろう。


 ロイは、ちらりと足元の獣に視線を送ってから、その身体を抱き上げた。大きな黒い獣はこちらに目を向けて立ち上がったが、牙を剥き出したり唸ったりはしなかった。いちいち機嫌を伺うのは彼の流儀に反したが、何しろ相手が相手だ。信条を貫き通して喉元を喰いちぎられては割に合わない。

「……ロイ?」

 腕の中を見下ろせば、澄んだ青い瞳が彼をぼんやりと見つめていた。その瞳の色が空を映して変わると気づいたのは少し経ってからだった。気づいてしまえば、その微妙な変化に目を奪われずにはいられなかった。

 一口に青といっても、朝の薄い水色から、少しずつ濃く深い色へと変わっていく。それからまた薄くなっていって、夕刻には金がかかった朱色、そして夜には初めて会った時に見た、深い紺色に。


 基本的に、外見が変わるのは魔力の顕現であることがほとんどで、それ故に強い力を持つものが多い。だが、ディルは本人も言っていた通り、わずかな魔力しか持たない。血の禁呪で見せたあれは、恐らくは極限状態で発現してしまった例外的な力で、それさえも使った後に意識を失ってしまうなど、完全に制御しきれていない。つまりは、まだ庇護が必要な、不安定でか弱い存在に見えるのだ。


「寝室まで運んでやるから、そのまま眠っちまいな」


 そう声をかけると、重そうな瞼がそのまま落ちてきて、けれど完全に閉じる前に細い腕が彼の首に回された。さらりと頬に触れた滑らかな銀の髪と、思っていた以上に柔らかい体の感触に、どきりと心臓が不規則な鼓動を打った。

 背中に回した腕に力を入れると、そのままこてんと銀の頭が彼の肩に預けられ、力が抜ける。あまりに無防備なその様子と、今は目を閉じている非の打ちどころのない美貌に、じわりと体のどこかに熱が宿る。

 同時に、彼のそんな動揺を悟ったように、黒い獣が小さく唸り声を上げた。目を向ければ、鋭い金の双眸がこちらを睨みつけている。

「本当に、過保護だな」

 呆れたようにそう言ったが、実のところその警戒は故がないものでもないかもしれない。自身の感情にやや戸惑いながら一つため息を吐いて、ディルを抱えて寝室へと向かった。


 寝台は本人が手入れをしたお陰でシーツは真っ白、床も磨き上げられている。家事の手際の良さに舌を巻いたが、軽口を叩く前にその生い立ちを思い出して、口をつぐんだのは正解だったと後から考えた。孤児として、「祈りの家」で本人が望むと望まざるとに関わらず、身につけなければならなかったのだろう。


 その身をそっと横たわらせたが、目覚める気配はない。顔色は悪くないが、眠りは随分と深そうだった。熱がないかとディルの額に手を伸ばしたが、黒い獣が静かに——おそらくはディルの眠りを妨げないよう——牙を剥き出しにしたので、とっさに引っ込める。

「あのなあ……!」

 さすがにムッとして睨みつけたが、当の獣は意に介した風もない。そのまま当然のような顔をしてディルの隣に潜り込む。

 寝台に上がることについては、ディルにきれいに磨き上げてもらっていたから、もはやそれほど反対する理由もなかったが、それでも、治療を目的としてさえ、触れることを許そうとしないその様子と、ディルの首に残る浅い傷痕を見て、ロイは何とも言えない気分になる。


 目の前の獣は、黒狼こくろうというそれは珍しい獣だ。しなやかで強く、精霊さえも打ち倒す力を持っている。だが、その獣には、彼がディルに話していないもうひとつ大きな性質があった。

「なあ、アル」

 話しかけると、黒い獣はいかにも面倒くさそうにこちらに目を向ける。明らかに人語を解し、そのやたらと人間臭い態度に、どうしてディルは疑問を抱かないのだろう。

 

 ——黒狼は二形を持つ。狼の姿と、人の姿と。


 そして、基本的には人の姿で過ごすものだと聞いている。その事実とディルが語った過去と照らし合わせれば、この黒狼の正体は明らかだ。

「お前さん、いつまでそうやってるつもりだ?」

 ぴくり、とその耳がはねた。それから、先ほどとは明らかに質の異なる眼差しを向けてくる。それは、ディルが語っていた「こちらを怯えさせるほどの射抜くような眼差し」そのものだ。

「俺が言うのも何だが、ディルはお前を心の底から信頼している。だが、『彼』にもっと会いたがってる」

 獣はじっとこちらの話に耳を傾けているように見えた。


 治療に際して——黒い獣アルの厳密な監督の下——触れた体は、本人が言っていた通り、確かに女と男の両方の特徴を備えていた。

 いわゆる「未分化」の状態から、どちらかの性へと分化する種族は、この世界にはそれなりに多い。永続的に変化するものと、一定期間——いわゆる発情期の間——変化するものと様々だが、今のところ、ディルの容姿やその他からは、どちらなのかは判別できなかった。

 だが、分化はおおよそ好意を持つ対象の異性に変化する。本人が意識しているかどうかは別にして、薬師としての視点から見れば、抱き上げると柔らかいその身体と全体的な傾向から、ディルは明らかに女性に傾いている。


「俺は恋愛の専門家スペシャリストってわけじゃないが、それでもディルが『あの人』と呼んでいたそいつに、どんな想いを抱いてるかくらいはわかるつもりだ。それに恋愛事を抜きにしたって、温もりを与えてくれる誰かが必要だ。なにしろ三年もの間、放って置かれたんだからな」


 十五歳の子供が、突然見知らぬ土地へと一人きりで放り出されて生きていくことは、容易ではなかったはずだ。本人は元いたところに比べればだいぶましだと笑って言っていたが、むしろその言葉でロイ自身は胸を締め付けられるような思いがした。

 狭間の世界はそれほどに、ディルにとって苛酷な場所だった。そして、ほとんど誰にも愛されてこなかった彼女が、ほんのわずかな温もりを得たからこそ、その後の孤独な日々がどれほどに辛いものだったかは想像に難くない。


 だからこそ、なぜこの黒狼がいつまでもその姿でいるのかが疑問だった。


「何か考えがあってのことなのかもしれんが、人には何より抱きしめたり触れ合うことが必要な時がある」

 この家に運び込んでから、ディルは毎晩夢にうなされている。その度にこの黒い獣は寄り添い、そうして彼女はこの獣の首に縋り付いてようやく穏やかに眠るのだ。先ほど、半ば無意識に彼の首に腕を回してきたのも、そうやって直接触れる温もりを求めている証左だろう。

「お前だって、その姿でいいと思ってるわけじゃないだろう?」


 ディルの首に残る傷痕は明らかな所有——あるいは独占欲の証だ。


「そこまで執着するのに、人の姿をとらないのは——とらないんじゃない、戻れない、んだな?」

 まっすぐに見つめた金の双眸がさらに鋭さを増す。肯定も否定もないが、おそらくはそれが答えだ。

「黒狼は魔法を使えない。だが、ディルの話からすると『狩人』たちから逃れるために、確実に転移の術が使われている」

 転移の術——それも地に陣も描かずに人ひとりを遠く離れた場所に移動させるような術は、かなり高度なものだ。基本的には余程魔力の強い精霊でなければ使用できない類の。銃の所持を許されるほどに魔力がないことがはっきりしている男が使えるようなものではない。

「ディルが言っていたな、何かひらひらした紙を取り出して、そこから風と光が巻き起こったと。それは、呪符——だな?」

 黒狼はぴくりとも動かない。それでも、こちらの話に耳を澄ませているのは明らかだった。

「『身の丈に合わない魔法には、必ず代償がある』。俺の知り合いも似たようなことを言っていた。転移の術を封じた呪符なんて、並大抵のものじゃない。本来ならある程度魔力を持っているものが陣代わりに使うもんだ」

 魔力を持たないものでも使えるほどの強力な呪符。だが、ぎりぎりまで使わなかったということは、それに伴う危険リスクを理解していたからだろう。

「お前は奴らから逃れるためにその呪符を使った。その転移の副作用なのか、あるいは追手を撒くための術なのか、理由はわからんが、とにかく人の姿に戻れない。だから、その姿でディルを探し続けて、ようやく見つけてここにいる」


 二枚の呪符を使ったのは、おそらく狩人の追手を撒くためだろう。だが、そのせいでこの黒い獣にもディルの転移先がわからなかった。この広い世界で、魔力に頼らずたったひとりを見つけるのは、砂の中から一粒の金を探し出すようなものだ。だが、この獣はそれをやってのけた。


「愛の力ってやつかねえ……」

 感心したように呟いた彼に、だが黒い獣はげんなりしたようにふいと視線を逸らせた。あるいは照れているのかもしれない。

「まあ、何にせよ、早く戻れる術を探すことだな。でないと、ディルが俺に惚れちまうかもしれないぞ?」

 目の前で無防備に眠る美しい寝顔を眺めながら、からかうようにそう言ってやる。半ば冗談だが、半ばはまんざらでもない。日々甲斐甲斐しく世話をしていることについては下心はないつもりだが、それでもこれほど美しい相手に、無防備にその身を預けられて平常心でいられるほど、生憎と彼も枯れてはいないのだ。


 無意識にか、時折、甘えるような仕草を見せられてはなおさらに。


 だが、黒い獣は今度こそ明らかに鼻で笑う気配を見せた。それほど自信があるのだろうかと首を傾げて、それでもふと目を向けたその顔を見て、思わず一歩引いてしまう。

「……冗談だよ」

 金の双眸は、ごく酷薄な光を浮かべていた。暖かいはずの室内で、どうしてだか背筋が凍る思いをしながら、その獣の眼差しが雄弁に語る言葉を悟って両手を上げて降参の意を示す。


 ——手を出そうとしたら、殺す。


 それが掛け値なしに本気であることを理解できないほど、彼は鈍感ではなかったのである。

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