9. 困惑と後悔と
むせ返るような血の匂いと、光を失った緑の瞳。手のひらを染めた赤い色と、耳にこびりつくような悲鳴と呻き声。どれほど後悔しても、取り返しがつかない。
「おい、目を覚ませ、もう大丈夫だ」
低く強い声に意識が浮上する。硬いものが頬に押し当てられ、息が止まるほどに強く抱きしめられていることにすぐ気づいた。そうして、自分が半ば叫ぶように嗚咽していたことにも。
「大丈夫だ、落ち着け」
抱きしめる腕が少し緩み、頬に温かい手が触れる。滲んだ視界の先に、鮮やかな金の瞳が見えた。それでもいまだに早鐘を打つ心臓と、べっとりと全身にまとわりついた血が臭うような気がして、嗚咽が止まらない。
「……ったく」
呼吸さえも危うくなったところで、舌打ちが聞こえた後、何か柔らかいものが唇に触れた。背中を抱きしめる腕とは別に、ぐっと後頭部に大きな手がかかり、甘いような辛いような匂いとともに、何度も柔らかく口づけが繰り返される。
初めてのその感触に戸惑っているうちに、ひきつけのような嗚咽が、いつの間にか止まっていた。後頭部に触れていた手が離れ、間近に閉じられていた金の双眸が開かれて、じっとディルを見つめる。
鮮やかなその色に目を奪われていると、よりいっそうあの不思議な匂いが強くなる。金の双眸に、直前まではなかった明らかな熱が浮かび、精悍な男の顔が首筋に寄せられる。そのまま肩を押されて、男の肩越しに見慣れない天井が見えた。そちらに気を取られている隙に、もう一度口づけられた。
今度は、さらに深いそれに、どこか体が熱を持ったような気がして、どうしていいか分からずにその服の胸元を掴むと、ぴたりと男の動きが止まった。弾かれたように身を起こし、寝台の端に腰掛けて、片手で顔を覆っている。
「……大丈夫?」
「そりゃ俺の台詞だ……」
やれやれ、と深いため息と共に振り返った顔は、何だか悪戯を叱られたような子供のようで、ディルは思わず頬を緩めた。その表情に、アルヴィードはさらに顔をしかめる。
「……悪かったな」
「何が?」
「最初のは、まあ気つけみたいなつもりだったんだが……その……」
「別に、平気」
「そうなのか? だが、お前は女じゃないって……」
言葉を濁す彼に、ようやく何を気にしているのかを悟って、自分の唇に指で触れる。そうして、貪るように触れてきた熱に驚きはしたものの、不快ではなかったことを自覚する。
「アルヴィードに触れられるのは、大丈夫みたい」
そう言った瞬間、男がさらに何とも言えない表情を浮かべる。がしがしと頭をかきながら立ち上がると、着替えらしきものを放って寄越した。
「お前、そんな台詞、気軽に言うもんじゃないぞ」
「どうして?」
「どうしてってなあ……まあいい。とりあえず着替えろ。昨日から全然食ってないだろう。飯でも食いに行くぞ」
言われてみれば、身につけているのは上衣一枚だけだった。どうやら着替えさせられたらしい。全身に染み付いていた血の匂いもしないが、一体どうやったのかと目を向ければ、ただ肩をすくめられた。
「戻ってくる途中で川に突っ込んだ。寒いかとは思ったが、あのまま街に入るのは無理だったからな。目を覚さなかったところを見ると、よほど消耗していたんだな」
「消耗……」
「話は後だ、とにかく早く着替えろ」
言われて、着替えを持ち上げようと左手を持ち上げようとして、ずきりと脳天を貫くような痛みが走った。それまで気づかなかったのが不思議なほど、意識すればずきずきと左肩に鈍い痛みがある。
「大丈夫か?」
「これ……」
「撃たれたんだろう。弾は貫通していたし、骨も傷ついていないようだった。不幸中の幸いだな。しばらくは痛むだろうが、無理に動かしたりしなければそのうち治る」
「そう……なの?」
「痛むなら、腕を吊っておくか?」
問いに、ディルは首を振る。あからさまに怪我をしていると分かれば、その弱みにつけ込まれる可能性が高い。ここは、そういう街だった。
片腕で着替えようとして、もたついた様子にため息をついて、アルヴィードが手伝ってくれる。上衣を脱いだ肩には包帯が巻かれ、傷口に血が滲んでいた。
「ついでに変えておくか」
包帯を解くと、白い胸元が露になる。それほど大きくはないが、確かに女性の特徴を備えたそれに、だがアルヴィードはあまり動じた様子もなく、傷口を確認すると何かの薬を塗って、上から白い布をあて、包帯を巻き直す。
「慣れてる?」
「まあな」
用意されていた着替えはアルヴィードのものらしく、
「気分は?」
「平気」
思ったよりも普通に過ごせていることに驚きながら、頷いたアルヴィードについて酒場を訪れた。酒場内は喧騒に満ちていて、むしろそのおかげでさらに気持ちが落ち着いてくる。アルヴィードは酒と料理をいくつか頼み、ディルにも葡萄酒のグラスを差し出した。
「飲めるか?」
「うん、少しだけなら」
「なら、飲んでおけ。体が温まるだろう」
素直に頷いてグラスに口をつけると、喉を通っていくその液体が体の中をじんわりと暖めてくれる。他の料理にも手をつけながら、あまりに穏やかなこの状況に却って不安の翳が差した。
「そういえば、あそこにいた人たちは……?」
「イェルドの仲間は、全員死んでたな。息をしていたのは警備側の奴らだけだった」
どうやらあいつらが思っているよりよく訓練されていた兵だったらしい、と低く、特に感慨もなさそうに言う。
「そんな……」
蒼ざめたディルに、男は冷ややかな眼差しを向ける。
「だから、やめておけと言っただろう。銃も、お前が使った血の禁呪も、他者を傷つけ、殺すためのものだ。その覚悟がないなら手を出すな」
言って、アルヴィードはそのまま食事を続ける。だが、ディルの手はぴたりととまってしまった。
——覚悟とは一体何だろう。
人を殺す覚悟があったかと言われれば、否だ。だが、だからと言ってディルには銃を受け取る資格もない、身を守る術を手に入れることさえ許されないというのなら、それはなすすべもなく虐げられること受け容れろというのと同義だ。
アルヴィードは確かにディルを助けてくれたが、それが気まぐれでないとどうして言えるだろうか——親にさえ生まれてすぐに遺棄されたというのに。
自ら身を守る術を持たないままなら、結局それはルドウィグの従者となることと、そう変わりはないようにさえ思える。それでも、誰かに自分の運命を支配されるのは、絶対に嫌だと心が叫ぶ。
気がつけば、勝手に言葉が口から溢れていた。
「あんたには絶対にわからない。俺にとって、それがどんなに必要だったかなんて!」
叫んで立ち上がる。後ろから男の慌てたような声が聞こえたが、ディルは振り返らず、酒場の外へと飛び出した。
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