ただ僕は、キミの力になりたくて――2
「乙姫!」
その日の帰り道。
僕は、坂を下って自宅へ帰っていく乙姫を追って、自転車を走らせた。
「――啄詩くん?」
オレンジのハンドバッグを両手持ちしていた乙姫が、僕の呼びかけにピクン、と肩を揺らし、振り返る。
僕は自転車からととっ、と降りて、乙姫の隣に並んだ。
「どうかしたの?」
乙姫が微笑みながら尋ねてくる。
僕に気を遣っているような、苦笑に近い表情だ。
「えっと……乙姫、具合悪いの?」
「――え?」
僕は言葉を探した。
僕が感じている疑問は漠然としすぎている。
ただ、乙姫に対して違和感を覚えているってことだけは間違いない。
「その……なんていうか、乙姫の様子、おかしかったなあって思って」
「あ……」
「いや、変な意味じゃないんだよっ? えっと……なんとなく乙姫は、唄おうと思えばいつでも唄えるんじゃないかなって、思っていたから――」
そう。あくまでも、なんとなく。
乙姫は、とっくに歌詞もメロディーも覚えていて、暗唱だって難なくこなせるんじゃないかって思うんだ。
それだけじゃなくて、『ここは声量を上げて』とか『ここは少し切なそうに』とか、唄い方も、すでに考え尽くしているんじゃないかって。
あくまで僕の勘だ。根拠なんてどこにもない。
けれど、少なくともこれだけは、断言できる。
「乙姫は、すぐにでも唄いたいんじゃないかなあ……って思っていたからさ」
そう告げると、乙姫の透き通った茶色の瞳が大きく開かれた。
そこには、驚いたような、でも、ちょっとだけ安心したような、上手く言い表すことのできない感情が浮かんでいる。
「――乙姫?」
彼女の反応を不思議に思って、僕は小首を傾げる。
乙姫は
「啄詩くんは、わたしのこと、ちゃんと見てくれてるんだね?」
乙姫もまた、僕と同じように小首を傾げる。
「え?」
「わかっちゃうんだね?」
「あの……」
「そうだよ? 啄詩くんの言うとおり」
乙姫が、ぽつりぽつりと告白していく。
「全部覚えてるよ? 啄詩くんが書いてくれた歌詞も、音子ちゃんが作ってくれたメロディーも、三人で完成させた楽曲も。――いま、頭のなかでそっくりそのまま再生できるくらい、鮮明に」
「乙姫?」
「練習もね? はじめているの。ずっと前から。どういうふうに表現しようかな? って、四六時中考えてる」
「じゃあ、なんで?」とも、「それならよかった」とも、僕は口にしなかった。
「あの公園で何度も唄っているの。何度も何度も。だから本当に、いますぐ唄いたいって思っているよ?」
乙姫の表情が、その言葉とは裏腹に、スゴく、苦しそうだったから。
「けど、わたしが唄ってしまうことが――『Blue Blue Wish』を完成させてしまうことが――」
「――――投稿するのが、怖いの」
僕はただ一言「そっか」とだけ答えた。
「――――ごめんね?」
乙姫が僕に謝る。痛々しいくらいの誠意が込められていた。
「啄詩くんが創った世界がね? とってもステキなの」
「うん」
「音子ちゃんと一緒にかたちにできてね? わたし、スゴく幸せなの」
「うん」
「わたし、『Blue Blue Wish』が――啄詩くんと音子ちゃんと、三人で創った世界が、大好き」
そっか……そうだね。
だから、だよね?
「だから、ね?」
乙姫の声が震えた。
ポタ
アスファルトの上にシミができる。こぼれ落ちた、一粒の涙で。
「わたしの歌声が、台無しにしちゃうんじゃないかって……どうしてもそんなことが頭をよぎるの……怖いの」
そんなことない。きっと大丈夫だよ――なんて言葉、僕が口にできると思う? 無理だよ。そんな無責任なこと、言えるはずない。
僕は知っているんだ。
どんなに想いを込めても、届かないことがある。
どんなに願っても、手に入らないものがある。
夢は絶対に叶う。努力は必ず実を結ぶ。未来はきっと明るい。
それは嘘だ。
現実には多くの人たちが夢に破れ、努力に裏切られ、暗い未来を歩むことになる。
僕だってそうだ。
何度も打ちひしがれて、涙を流して、ボロボロになって歩いてきた。
乙姫は不安なんだ。
自分の力で歌の世界を表現できるのか?
自分の歌が認めてもらえるのか?
自分の伝えたい想いをちゃんと伝えられるのか?
それは、わからない。わからないとしか、言えない。
だからためらっている。当然だよね?
『絶対』・『必ず』・『きっと』――そんな言葉、幻想なんだから。
僕は何度も壁にぶち当たってきた。何度も何度も押し潰されそうになった。
なのに、僕が乙姫の背中を押してもいいのかな?
そこに、谷底があるかもしれないのに。
だから僕は、
「――――そっか」
とだけ答える。
「ごめん。ごめんね? 啄詩くん……ごめん」
僕には、乙姫の涙が止まるのを待つことしか、できなかった。
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